1.魔法使いと退魔という仕事
久城一真は魔法使いである。
短い小休止であるゴールデンウィークも終わり、貴ノ葉高校の生徒は皆、残念そうな顔で通学路を歩いている。その生徒の中に、久城一真はいた。
一筋の緋色が混ざった黒髪で短髪の一真は、周りの生徒よりも一際ゴールデンウィーク終了を嘆いていた。そんな、これ以上無いほど落ち込んでいる一真の肩を、背後から軽く叩いて陽気な声をあげたやつがいる。
「おはよぅ、一真!」
「……なんだ、暖か……おはよう」
彼は川島暖。一真と同じ1年C組の生徒で、一真の親友(自称)である。ちなみに、2人が初めてクラスで挨拶を交わしてから、まだ1ヶ月も経過していない。
「おいおい、『暖か』は無いだろ……てか、何故にお前はそんな悲しそうな顔をしてんだ?」
「何故かだって? お前……ゴールデンウィークが終わっちまったんだぞ!?」
一真は、この世が終わってしまったんだぞ!? とでも言わんばかりの勢いで言った。
「……だから?」
「……宿題やってないんだよ」
勢いよく言った割に、理由は対したこと無かったりする。
「なんだお前、そんなこと気にしてたのか……大丈夫だぞ、一真!」
「大丈夫って……!? 暖お前……まさか宿題やってあるのか?」
一真は期待の眼差しで暖を見つめた。今まで(1ヶ月も経っていないけれど)こんなに暖が頼れるやつだと思った事はない……そんな、驚きの表情をする一真。
「いや、俺もやってねぇ!」
一真の期待は、かなりあっさり打ち砕かれた。
「……期待した俺が馬鹿だったよ」
「そう言うなって!仲間がいるだけ良かったと思えば……」
「友達は選ばせてくれ」
「そこまで言うか!? お前、サラッと酷いこと言うよな……」
一真はため息をつき、うなだれる。
「……そんなに怒られたくないなら、魔法でも使ってなんとかすれば良いんじゃねぇか?」
「……俺は極力、魔法は使わないようにしてるって言っただろ」
そう……一真は魔法の使用を自粛しているのだ。その理由は、後々明らかになるのでここでは略させていただく。
「てか、んな都合の良い魔法無いし」
「いやいや、学校を火事にしたり……」
「捕まれ、犯罪者」
「冗談だって、真に受けるなよぉ!」
一真の肩をバシバシと叩き、大笑いする暖。
一真は、フルマラソンの直後のような疲れきった顔で、再びため息をつく。
「まぁ、いざとなったら今城さんに見せてもらえば大丈夫だろ!」
「梨紅にぃ~?」
暖の言葉に、一真は顔をしかめる。
「すっげぇ嫌そうだな……なんだよ、お前ら仲良いじゃん? 宿題見せてって言えば……」
「まぁ、見せてくれないことは無いと思うけど……きっとやって無いな、うん! あいつも宿題忘れて……」
「忘れてません! 一真と一緒にしないでよ、失礼ねぇ」
一真が振り向くと、そこには頬を膨らませた黒髪ショートカットの女の子が立っていた。今城梨紅――一真の家の隣に住んでいる、幼なじみだ。
そして、一真の好きな女の子でもある。
一真が魔法の使用を避けるのは、何を隠そうこの子が原因である。何故なら、今城梨紅は、魔法使いの一真とは敵対した位置に当たる、退魔士であるからだ。
魔法使いと退魔士は敵対関係……だが一真は、退魔士に恋をしてしまったのだ。
魔法の使用を避けるのは、普通の人間になって普通に恋をして普通の人生を送りたいと言う、一真の願望の現れなのかもしれない。
だが、魔法を使わないからと言って、普通の人間になれはしない。それは一真も理解している。
それでも諦めずに、一真はそれにあらがいたいのだ。思春期特有の苦悩……と、いうものなのだろうか。
「おはよう梨紅。お前が宿題やってあるなんて、珍しい事もあるもんだなぁ」
「おはよう一真。前に言ったでしょ? 高校に入ってから、私は変わったのよ」
「そうだな……毎日宿題忘れて、毎日俺の宿題を必死で写してたのになぁ……」
一真は懐かしそうに、呟く。ほんの数カ月前の話だ。
「いつの間に立場が逆転したのかしらね……ねぇ、見たい? 写したい? わ・た・し・が! やった宿題」
梨紅はニヤニヤといやらしい笑みを浮かべて、一真を見る。
「いやいや、それには及びませんよ今城さん。自分の宿題は自分でやりますので。他人に……ましてや梨紅に見せてもらおうなんて、これっぽっちも思わないし、口が裂けても言わねぇ」
見せてもらうのが早くて楽だと、一真もわかっている。しかし、素直に頼めるほど人間が出来ているかと言えば、そんなことはなかった。梨紅に対し、一真は満面の笑みで言い返した。
「あらあら、そんな遠慮なさらずに……『お願いですから写させて下さい梨紅様!』って頭を下げて言えば、心の広い私は喜んで写させてあげるわよ」
梨紅は笑顔で言うが、その笑みは少しひきつっているように見える。どうやら、怒りを堪えつつ笑顔を見せているようだ。
「いやいや、むしろ『お願いですから私の宿題を見て下さい』って言えば、お前のやって来た宿題を添削してやっても良いんだぞ? まぁ、宿題が真っ赤になることは目に見えてるけどな」
一真の返答に、梨紅の顔から笑顔が消える。どうやら、梨紅の怒りが限界を超えたようだ。
「何よそれ! 私の宿題が間違いだらけだって言いたいの!?」
舌戦で勝利した一真は、梨紅を鼻で笑い、答える。
「よくわかったな、成長が見れて俺は嬉しいよ。あぁそうだ、お前が宿題をやって来たからと言って、それが合ってるとは限らない……むしろ、お前の場合は間違ってる方が自然だろ?」
「酷い! こっちは頑張って宿題やったのに、少しは誉めたりしたらどうなのよ! だいたいねぇ!宿題やって来ないあんたより、間違ってても宿題やって来た私の方が偉いのよ! 敬いなさいよ!」
「あの……」
話の方向性がずれてきたことに気付いたのか、静観していた暖が口を挟む。しかし、控えめな言葉かけで止まるような2人ではなかった。
「敬えだ? お前を敬うぐらいなら、素直に叱られるわ! そもそも、俺が宿題できなかったのはお前に連れ回されたからで……」
「なぁ……」
再度、暖が声をかけるのだが、ヒートアップしてきた2人には全く届く気配がない。更に言えば、彼らの周りから人の気配もしなくなってきている。
「何!? 人のせいにするんだ! 男として以前に、人として最低ね!」
「この野郎言わせておけば……お前と北海道なんか行かなけりゃ俺だってなぁ!」
「何よ!」
「2人ともストップ!」
「何だ!」
「何よ!」
暖の言葉がようやく、2人に届く。しかし、
「周り、見てみろ……もう、誰もいないぜ?」
時、既に遅し。2人は驚いて周りを見回すが、暖の言うとおり、あんなにいた生徒は自分達3人を除いて誰もおらず、学校からは予令の鐘の音が聞こえてきた。
「走るぞ!」
一真の一言で、暖も梨紅も走り出す。新学期初日から遅刻は、流石に気が引けるのだ。
「お前らが仲良く喧嘩なんかしてるからだぞ!」
「な、仲良くなんか無いよ! むしろ悪い……最悪よ!」
「んなこと言ってる場合か馬鹿! しゃべってねぇで走れ!」
全力で走る3人……だが、遠くからでも校門がしまっているのがよくわかる。
「あの校門、5mだぜ?」
暖が一真を見ながら言った。あまりに高すぎる校門……過去に何が押し寄せて来たら、あのような門になるのか不思議でならないが、今はそれどころではない。
「飛び越えるのは無理よね……」
梨紅も一真を見ながら言った。しかし、これには少しの嘘が含まれる。”『一真と梨紅ならば行けるが、暖が』飛び越えるのは無理”と言えば正確だ。
「……わかったよ、使うよ」
2人の言葉から、一真は何かを催促するような意図を感じた。そして、彼自身は理解している。何を求められているのかを……一真は観念して、2人の手を強く握った。
「"フライ!"」
一真が言うと、彼の体がふわりと浮いた。それに続けて、手を繋いでいる暖と梨紅の体も浮き始めたではないか。
魔法……一真がどう思っていようが、彼と切り離すことのできないそれは、こうした”非常時”には”頻繁に”使用を求められる。
「しっかり捕まってろよ!」
そう言って、一真はスピードを上げ、一気に高度を上げた。
飛行速度がぐんぐん加速して行く。やけに高い校門を超え、校舎の正面に見える1年C組の窓へ向かう。
しかし、窓は全て閉じていた。
(窓全部閉じてるじゃねぇか! ……いや、あれは)
だが、一真が諦めかけた瞬間、教室の窓が開く。3人に気付いた”誰か”が開けてくれたのか、それとも偶然か……一真はスピードを落とさずに、開かれた窓に突入した。
窓からの登校は、一真にとって珍しい事ではない、週に1度は必ず、暖と梨紅を連れて窓から入っているのだ。そう、”非常時”は割と”頻繁に”あるのだ。
魔法の使用を自粛しているとは言え、一真の中での遅刻は、魔法を使ってでも避けたい事柄なのだろう。理解はしかねる……が。
「……ぎゃ!」
教室に飛び込んだ瞬間にブレーキをかけた勢いで、暖が廊下側の壁まで吹っ飛び、おかしな声を出しつつ倒れた。
「よっ……と」
一方、梨紅は暖とは違い、難なく着地する。慣れたものだ。
3人が教室に入ったのを確認すると、女の子が窓を閉めた。どうやら偶然ではなく、この子が窓を開けてくれたようだ。
「おはよう、久城君、梨紅」
薄い栗色で長く綺麗な髪が、窓を閉めた時に入って来た風に揺れた。彼女は山中沙織。一真のクラスメイトで、梨紅とはかなり親しい仲だ。
「おはよう沙織!」
「おはよう、山中。窓、サンキューな」
「……挨拶の前に、吹っ飛んだ俺の心配は?」
自然に沙織と挨拶を交わす2人に、廊下からよろめきながら戻って来た暖が問う。
『いや、いつものことだし』
「じゃあいつも心配して! 週に1度廊下の壁に激突する俺を心配して!」
一真と梨紅の息の合った返答に、暖は抗議する。だが、
「むしろ、そろそろ普通に着地できるようになれよ……」
「えぇ……何、俺が悪いの?」
「自業自得ってやつだよね?」
「それは絶対に違うよね! 何も悪い事してないじゃん! …あ! 沙織ちゃんおはよう!」
「うん……おはよ、川島君」
朝からテンションの上がりきった暖に困ったような笑みを見せ、沙織は自分の席へ歩いて行った。
「あぁ……今日もクールだなぁ」
「そりゃあ、お前と比べたら誰でもクールだろうよ」
沙織に見惚れる暖に一真がそう言うが、暖は気付いていないのか、そのまま自席へと歩いて行った。
窓際に残された一真と梨紅も、自席へと座る。ちなみに、一真の席は窓際の最後方に位置し、梨紅の席はその隣だ。
「ここだけの話……沙織、川島君のこと苦手なんだってぇ」
梨紅は一真より先に着席すると、となりの一真に囁いた。
「見てればわかる。まぁ、暖は手応えありって言ってたけどな。そして朝一で話題が重いよ……」
着席と同時に悲しいお知らせを聞き、囁き返しながら、一真は顔をしかめる。
「えっと……うるさいから嫌なんだって言ってた」
しかし、梨紅は一真の心情などお構い無しだ。
「だから見てればわかるって! 続けんなよその話題! 言葉にすんなよ! 辛いんだよ!」
人が好意を向けているのに、その相手は苦手だと思っている。周りの人間としては、とても居心地が悪いのだ。一真は少し声を荒げるが、声の大きさはキープできた。
「早めに諦めさせた方が良いんじゃない?」
「俺が? 無理無理! 今後一切触れないとここに誓うレベル」
そんな会話をしつつ、一真はカバンから教科書を出して引き出しにいれる。教科書を全てだしたカバンの中には、宿題となっていた極薄の問題集が残っていた。
「……奇跡よ」
一真はそれを取り出し、祈りつつ開く。
「やっぱりやって無いか……」
自分にやった覚えが無いのだ。勝手に宿題をやってくれる妖精など、彼の家にはいない。一真はため息をつき、宿題を引き出しに入れた。
「おはようございます!」
一真が入れると同時に、教室の前扉から担任が入って来た。田丸明良、入学式の自己紹介では24だと言っていたが、実際は29歳……何を気にしてサバを読んだのかは、わからない。
日直の号令が終わると、田丸は笑顔で話し始めた。
「おはよう皆! ゴールデンウィークも終わり、中間テストも2週間後に迫って……」
担任が話を続ける中、生徒のため息が少なからず聞こえてくる。どの生徒もゴールデンウィークの終わりを嘆いていた理由に、中間テストが近いと言う現実から目を背けられないことが含まれているのだ。
「……さて、早速だが宿題を提出……」
(いきなりか!)
想定していたよりも早い提出命令に、一真は心の中で叫ぶ。そのまま、自粛しているはずの魔法を至極自然な流れで唱えるのだ……
「"スロー・アワーズ!"」
一真が囁いた瞬間、世界が静まりかえった……
一真の使った魔法は、時間を遅くする魔法……のように見えるが、正確には異なる。簡単に言えば、肉体強化魔法――自分の意識と肉体を加速させる魔法――だ。一真の体感1時間程度の作業を、1分でこなすことができる。
「1時間で終わらせないと…」
一真は引き出しから宿題を取り出し、早速取りかかろうとするが……
「……一真?」
「うぉわ!」
突然、隣からあがった想定外の声に、一真は驚いた。
時間を遅くするという魔法の効果を考えると、梨紅はその身体能力のみで、言うならば『1分が1時間の世界』に存在していることになる。いつの間にそのような化け物になったのかと、一真は驚きよりも恐怖に近い感情を抱く。
「あのねぇ、退魔士に魔法は効かないでしょ?」
「……なるほど、効かなかったのか」
退魔士である梨紅は、その特性上、不特定多数の人間への魔法の対象外……周囲の時間を遅くしても、梨紅には何の影響も無いのだ。
そう、”不特定多数”を対象にした魔法は、対象外。一真個人を対象にした魔法については、その特性は影響しないはずだ。一真はそれに、気付かずにいた。
「ずるいなぁ、一真」
「うるせ、非常事態だから良いんだよ」
一真はそう言って、宿題に取り掛かる。それこそ身体を加速させる魔法でも使っているように、高速でペンを走らせ始めた。
「宿題忘れが、非常事態ねぇ……」
「中学の時、お前が宿題忘れた時だって、この魔法で乗り切っただろうが」
呆れた様子の梨紅に、一真は口を尖らせつつ呟く。
「んー、一応、感謝はしてる」
「一応って何だ一応って……とにかく、俺の宿題が終わるまではこのままだからな」
つまり、『1時間そのまま』ということだ。なかなか大変なことを言っているようだが、言われた梨紅は満更でもないといった表情だ。
「あーあ、宿題やって来ると、暇だなぁ」
優越感に浸りながら呟く梨紅の様子を横目に、一真は問題を解くスピードを上げる。
その後も、梨紅は独り言を続けるのだが、一真は全く相手にしない。黙々と、そして猛烈な勢いで宿題を終わらせていく。並々ならぬ集中力だ。
(……そろそろ半分ぐらいか)
流石に疲労を感じ始めたのか、一真は一度手を止め、時計に視線を向けた。魔法を使ってから、秒針が10秒分動いていた。
(10秒……つまり、10分か。そこまで時間はかからないで済みそうだな)
余裕が出来たのか、一真は軽く身体を伸ばす。すると、隣で欠伸をしている梨紅が視界に入った。
(梨紅は、やってあるんだよな……梨紅のやって来た宿題か……)
決して写させてもらおうとは思わないが、気にはなる。そんな様子で一真が思考していると、梨紅と目が合った。すると、梨紅は驚いたように目を丸くした。
「え、もう終わったの? 早すぎない?」
「いや、まだ半分」
一真の返答に、梨紅は胸を撫で下ろす。何を慌てていたのか一真にはわからないが、思うところがあったようで、一真は更に続けた。
「お前の宿題、ちょっと見せてみ」
「何? 写すの?」
「違う。良いから見せてみろって」
「?……はい」
梨紅は首を傾げつつ、一真に自分の宿題を手渡した。
「どれどれ」
梨紅から受け取った一真は、中をパラパラとめくって見る。
(おぉ、本当にやってある……けど)
一真は少し驚いたような表情をするが、すぐに顔をしかめる。ほんの一瞬の変化だが、梨紅は不思議そうにそれを眺めている。そして、
「え! ちょっ……」
何を思ったか、一真は梨紅の頭を優しく撫で始めた。本当に唐突で、梨紅は顔を赤くすると、一真の手を払いのけた。
「な! な……何!?」
「誉めてんだよ。してほしかったんだろ?」
一真はニヤッと笑う。どうやら、登校中の会話を覚えていたようだ。
「いい子いい子って、子供じゃないんだから……」
口を尖らせながら梨紅は言うが残念ながら口角は上がっている。とても嬉しそうだった。そんな梨紅を見て、一真は更に優しく微笑み……
「……まぁ、お前がやったの、全部間違ってるんだけどな」
華麗過ぎる掌返しに、まるで魔法を使ったかのように、時間が止まった。いや、凍り付いた。
「……え?」
「安心しろ、あと45分ある。俺が終わらせて、それを写す時間ぐらいある。大丈夫だ」
一真はそう言って、『俺がお前を絶対に救ってやる』とでも言わんばかりの表情で梨紅に頷いて見せる。そして再び、宿題に取り掛かり始めた。
残された梨紅は、先ほどとは比べ物にならない程静かで――凍り付いたというよりも、燃え尽きたような、悲しさと寂しさが感じられる。
結局、一真がその後の10分で宿題を終わらせると、梨紅は涙を目に溜めながら、それを写させてもらっていた。
「うぅ……手が痛い」
利き手の手首を擦りながら、梨紅は呟き、顔をしかめる。結局梨紅も、魔法の効果がなくなるまでの間、必死に一真の宿題を写すことになったのだった。
「確かに疲れたな……休み明けで1日授業はハードだろ」
一真も表情を曇らせながら、そう言った。今は、高校からの帰り道。2人は家に向かって、並んで歩いていた。
「……私、宿題やってくるのやめるわ」
「何を宣言してんだ、お前は」
「だって、どうせ間違ってて一真に見せてもらうんだし……」
「……」
「何か言いなさいよ」
咄嗟に否定できなかった一真に、梨紅はジト目を向けつつ文句を言う。一真はそれに、決して視線を合わせようとはしなかった。
「……あ! じゃあ、一緒に宿題やろうよ」
「思考のテンポが速すぎて付いていけねぇ」
梨紅の唐突な提案に、一真は顔をしかめる。しかし、よくよく考えてみれば良い案なのではないかと思われる。何せ、梨紅は一真の思い人だ。好きな子と一緒に勉強……どちらかの家で、一つの机で……至福の時になるのではないかと考えた所で、
「……いや、んなことしたら俺、お前の親父さんに殺されるだろ」
高い高いハードルがあることに、気付いてしまった。梨紅の父――今城幸太郎は、退魔士である。見習いに毛が生えたような梨紅とは異なり、何十年と退魔を行ってきたベテランで、現役だ。
魔法使いと退魔士とは言え、一真と梨紅は幼なじみで仲は良い方なのだが、今城幸太郎は魔法使いを嫌っている……ように、一真は感じる。むしろ、憎んでいるに近い感情すら、見える気がする。一真が受けた印象でしかないが、実際に彼は、少なからず幸太郎にトラウマを植え付けられている。
そう……一真がどんなに梨紅を好きでいても、この親父がいる限りその恋が報われることは無いと言っても、過言では無いのだ。
「お父さん? あぁ! 秘密にしてれば大丈夫だよ、きっと」
「馬鹿お前……あの親父をなめるな、死ぬぞ」
俺が……と続けたい所を、一真は飲み込んだ。一真は生まれてから15年と10ヶ月、あの親父――幸太郎の恐怖を、ジワジワと味わってきたのだ。時には命の危険を感じたこともあった程だ。
例えば、あれは一真が5歳の時……
公園で梨紅と2人でおままごとをしていると、あの親父は公園のベンチから一真に向かって強烈な殺気を放ってきたのだ。危うく、気絶させられかけた……いや、気絶したのかもしれない。
続いて、小学3年生の時……
一真が梨紅の家に遊びに行くと、鬼ごっこの名の元に真剣を振り回す親父に追いかけられた……もしもあの刀が退魔士の使う退魔刀なら、魔法使いである自分は、切られた瞬間に消滅させられてしまう。そう思った一真は、脚力のリミッターを解き放つ勢いで逃げに逃げた。
まだある。中学1年……
宿題が解けないから教えてほしいと梨紅に頼まれ、梨紅の家に行ったは良いが、あの親父がそれを許すはずもなく……梨紅の説得の結果、親父監視の元ならOKとなったが、常に一真を睨み、殺気を放つ親父がいては宿題どころではなかった……いつ得物が飛んで来るか、歳を重ねるごとに命の危機を強く感じるようになる。
最も酷かったのは、中学の卒業式だろうか……
卒業式が終わってからずっと泣き続けている梨紅と、一緒に帰っていた一真。泣き止まない梨紅の頭を撫でてやったり、涙を拭くためにハンカチを渡したりするが、梨紅は一向に泣き止まない……もう、想像は容易かもしれないが、そんな時に親父が降臨した。
一真が梨紅を泣かしたと思いこんだ親父は、退魔刀を取り出し、突進して来たのだ。一真は当然、慌てて魔法で空へ逃げる。しかし、幸太郎は今までになく本気だったようで、退魔用の遠距離武器まで取り出して、一真を打ち落とそうとしたのだ。
その時の一真は、飛行魔法の1段階目――今朝使用した”フライ”――までしか使えなかったが、親父から逃げるために2段階目である”スカイ”をその場でマスターし、無事に逃げ切ったのだ。
「……思い出すだけで体が震えてくる」
どれも長いエピソードではあるが、高速で流れる走馬灯のように、一真の脳裏を一瞬で通り過ぎていった。小刻みに震える一真を見て、梨紅は溜息を吐く。
「そうだね……お父さん、昔から一真に厳しいもんね」
「厳しいで済ませるお前もお前だけどな? あの親父を止めようともしねぇじゃねぇか」
「何言ってんの! 最後はちゃんと止めてるじゃない?」
「遅ぇんだよ! 最初は笑ってんじゃねぇか!」
2人のやり取りを笑顔で見つめる梨紅の姿も、一真のトラウマに微かに影響を与えているのかもしれない。
「年々、扱いが酷くなっていくんだぞ。そのうち、宿題に触れさせないとか言い始めたらどうすんだ」
「流石に止めるわよ、最初から全力で」
「自分が困る時だけそうやってなぁ!」
一真が文句を言うが、梨紅はそれを聞き流し、何かを決意したように拳を握る。
「宿題を見せてもらう時! 勉強を教えてもらう時! 退魔士の仕事を手伝ってもらう時! お父さんから一真を守るね!」
「何で限定的なんだよ、いつも守れ、いつも!」
一真は顔をしかめつつ言うが、梨紅は楽しそうに、一真に笑顔を見せた。
結局、この日に出た宿題は、一真の家で一緒にするということに決まったようだ。
「じゃあ、後で行くね?」
そう言って、梨紅は一真に手を振り、自宅へ入って行った。と言っても、一真の家はその隣だ。梨紅の家の玄関からほんの10歩進み、一真は自宅へと帰り着いた。
「ただいまぁ」
一真が言うが、返事は無い。しかし、玄関の様子を見るに、母親はいるはずだ。恐らく、リビングだろう。一真がリビングに入ると、母親の美由希が台所で作業中だった。
「ただいま」
「あ、おかえりカズ君」
美由希が振り返ると、ウェーブのかかった茶色いセミロングヘアが揺れる。同時に、美由希の手元が見えた。
「……何か、多くない?」
そこには、2人分の夕食としては多すぎるぐらいの食材の山があった。
「え? あぁ、今日はね、華子ちゃんと梨紅ちゃんと一緒に食べるの」
華子ちゃん――と言うのは、梨紅のお母さんのことだ。一真の母親と同い年で、家も隣……子どもの誕生日も、産んだ病院も一緒というのは、”仲良しだから”で済ませていいものか、悩みどころだ。
「って事は、梨紅の親父さんはいない……って事?」
「うん、大阪の方に出張だって」
(よっしゃ!)
一真は心の中でガッツポーズをとる。幸太郎がいないのならば、2人を邪魔する人間は居ないわけだ。
「夕飯ができたら、声掛けるわね」
「はーい」
美由希への返事もそこそこに、一真はリビングを出て、鼻歌混じりに階段を上がって行く。
「……あんなに嬉しそうにして。本当に梨紅ちゃんが好きなのねぇ」
ふふふ……と、美由希が笑う。正確には、一真は幸太郎がいない事に喜んでいるのだが……まぁ、あながち間違いでも無いので、良しとする。
階段を上がると、すぐに一真の部屋がある。梨紅と2人で宿題ができると思うと、一真は自然と笑顔になってしまい、抑えきれないようで……一真は笑顔のまま、自室のドアを開ける。
「おかえり! 遅かったわね」
一真のベッドに、私服に着替えた梨紅が座っていた。青いジーパンに、白いシャツが眩しい……一真は驚きと恥ずかしさで、表情が一瞬、可笑しなことになる。目を見開きながら口だけ笑っている、そんな様子だった。
「……また窓から入ったのか?」
一真は表情を戻すことに成功し、落ち着いた様子で言った。
「うん。私の部屋からだと、速いからね」
「速さで言えば、そりゃ玄関経由より速いけど……」
「あと、面白そうだったから。てか、一真の顔すごい面白かった」
「忘れろ……」
一真は頭を抱えつつ、荷物を机の上に降ろした。
「えらくご機嫌だったじゃない」
「そりゃあな! あの親父が県内に居ないだけで俺は最高に心躍るぜ」
両方の拳を突き上げながら、一真は横向きにベッドに倒れこみ、幸せを噛み締める。ゴールデンウィークと引き換えに自由を手に入れたと考えれば、安い取引だ。
「そう(……少しぐらい、私と一緒に夕飯を食べれることも喜んでくれれば良いのに)」
ちょっと残念そうな顔をした梨紅に、一真は気付かない。乙女心を理解するのは、まだまだ先のようだ。
「あぁ、そう言えば」
梨紅は呟きながら、ジーパンのポケットから一通の手紙を取り出した。
「はい、一真への手紙」
「手紙? 誰から?」
「お父さん」
「捨てろ」
瞬間、一真の背中から、冷たい汗が流れ出てくる。嫌な予感しかしない。
「捨てろ!? もうちょっと言い方が……」
「捨ててください」
「丁寧なら良いって話じゃなくて! 良いから、受け取ってよ!」
懇願虚しく、梨紅から押し付けられる形で手紙を受け取り、一真は裏面を見てみる。
『久城一真様へ』
一見、普通の手紙だが、宛名の最後には、ハートが付いている。中年親父からのラブレターと考えると、出来る限り触れていたく無い。極限状態に近い一真の脳裏に、ふと、童謡が流れてきた。
シロヤギさんからお手紙着いた。
クロヤギさんたら読まずに
「"ファイア"」
『読まずにファイア』とは、なかなか語呂が良い……などと考えながら、一真は手に持った手紙に火の魔法を放つ。手紙は火に包まれ、熱気が一真の部屋に生まれた。
「きゃあ! 何してるの!?」
「シロヤギさんから届いた手紙を、反射的に燃やしている」
「シロヤギさん!? 何言ってんの!」
梨紅が騒ぐ中、一真は火に包まれている手紙をぼんやりと眺め続ける。そして、気付くのだ。
「!……燃えてねぇ」
一真の顔が、絶望に染まる。火に包まれながらも、手紙は燃えていないのだ。
「あの親父、魔法が効かないように手紙に退魔の力を付加しやがったのか……」
呟いた直後に火は収まるが、手紙は元の状態のままだ。
「残念だったわね、早く読みなさいよ」
「何でそんなに読ませたいんだよ」
梨紅に促され、一真は至極嫌そうに手紙を開き、読み始めた。
『久城一真様へ
お前の事だ、受け取った瞬間にこの手紙を魔法で燃やそうとしただろう。
残念だったな、予想済みだ馬鹿者が』
「……」
額に青筋を浮かべつつ、一真は手紙を強く握る。手紙はクシャっと音を立てた。
『さて本題だが、私は10日ほど出張する。
その間、梨紅にあんな事やこんな事をした場合、私と一生、鬼ごっこをする事になる。
まぁ一生と言っても、5分で終わると思うがな……命は無いと思え』
「……」
「ねぇ、なんて書いてあるの?」
読み終えてなお沈黙を守ったまま、顔色が赤に青にと変わっていく一真を見ながら、梨紅は聞いた。その表情は、とても楽しそうで、一真は顔をしかめる。
一真は梨紅の問いに答えず、息を限界まで吸い込み、憎しみを込めて詠唱する。
「"フレア"!」
火系統の上級魔法、”フレア”である。その熱量は”ファイア”の比ではない。煌々と燃える炎で、手紙に残っていた退魔の力が急速に失われていく。手紙は、一瞬で燃え尽き、後には何も残らなかった。
「……よし、宿題やるか」
何事もなかったかのように、一真は梨紅にそう言った。
「え、う……うん、そうだね」
どこか燃え尽きたような雰囲気を感じ、梨紅はそれ以上、深く聞くことはできなかった。
「xが3の時、yは?」
「えっと……ー5」
その後は特に妨害も無く、2人は無事に宿題を進めることができた。
「正解、じゃあzは?」
「……ー7?」
「不正解」
進みが遅いことは、目を瞑っていただくとする。ほんの数問の計算問題だが、梨紅からすれば暗号解読なのだ。実際、この1問にすでに20分を費やしていたりする。
「xとyに数字を入れて計算するんだよ。丁寧にやってみろ」
「あ、6だ」
「はい正解、宿題終了」
一真は言いながら、机の上にペンを投げると、身体を後ろに反らせ、肩甲骨周りをほぐす。
「やっと終わったぁ」
「こっちのセリフだ……」
疲労困憊といった様子で、一真は呟く。他人に何かを教えるのは、大変だと知ったようだ。
「夕飯まで、何しよっか?」
「寝る」
宿題を済ませて安堵する梨紅に対し、一真は即答した。
「んー……そうだね、今日は退魔の仕事もあるし、仮眠しようか」
そう言って、梨紅は立ち上がると、一真のベッドに倒れ込んだ。
「何で俺のベッドに寝るんだよ!」
「だって夕飯は一真の家でご馳走になるし、戻るの面倒だし」
「だったら俺にどこで寝ろと?」
床か? などと考えながら、一真は時計を見る。今は6時過ぎ……夕飯の時間になれば、美由希が起こしに来るだろう。
「一緒に寝れば良いじゃない」
「……」
衝撃の発言に、一真は反応することができなかった。
「一緒にって……は?」
「何? 意識してるの?」
梨紅はニヤニヤと一真を見つつ言うが、一方の一真は困惑している様子だ。
「いや、普通にするだろ……女の子だし」
さすがに、好きな女の子だし……とは言えないが、嬉々として一緒に寝ようとは思えない。同時に、一真は梨紅の態度に違和感を覚える。
「……お前は意識しないのか?」
「何言ってるのよ、子どもじゃないんだから」
余裕の表情で、そう言った。だが、
(それに、慣れてるし!)
一真の心に、声が響く。心の内から聞こえてくるようだが、声は梨紅のものだった。
「……慣れてる?」
「!」
一真の呟きに、梨紅は目を見開き、視線を逸らす。一真はすぐにベッドに飛び乗ると、ベッドの端に梨紅を追いつめる。
「何に慣れてるって?」
「言ってない! 何も言ってない!」
確かに、梨紅は何もいっていない……はずだ。だが、この慌てようは、”身に覚えがある”ように見える。
「直接伝わってきた。お前、”通話中”だったぞ?」
一真に言われ、梨紅は両手で顔を覆う。恥ずかしいのか、顔が真っ赤だ。
「……伝える気なんて無かったのに、何でよぉ」
梨紅は観念したように、項垂れる。
互いの心の声が聞こえる
幼稚園に通っていた時、そのことに気付いた2人は、その時からずっと、親にも周りにも秘密にしていることだ。
普段は相手と話したいと思わないと使えないのだが、極まれに、意図しないことが伝わってしまう――電話で言う通話中になっていたりするのだ。
通話中になると、話したく無いことまで伝わってしまうので、なかなか難儀な能力だ。原理なども、今のところわかっていない。
「それで、何だよ、慣れてるって」
精神状態などお構いなしに、一真は梨紅を問い詰める。すると、
「……偶に内緒で添い寝してる」
「おい」
梨紅は意外にも、素直に白状する。対する一真は、予想外の返答に驚きつつ言った。
(添い寝……)
「何? してほしいの?」
「な! え? ”通話中”……?」
慌てる一真を、梨紅はジト目で見つめる。カマをかけたのか、本当に通話中だったのか、定かではない。しかし、
「……エロ一真」
梨紅の言葉に、一真は返す言葉が無かった。
(しかし、梨紅が夜な夜な布団に潜り込んでいたとは、驚きだったな)
夕飯のビーフシチューを口に運びながら、一真は頭の中で呟いた。ちなみにテーブルには、親と親、子と子が向かい合って座っている。
(……ねぇ、もうその話やめない?)
親同士は会話を弾ませているが、一真と梨紅は一言も話さず、黙々とビーフシチューを食べ続けている――ように見えるのだが、心の中での会話は絶えず続いていた。
(いつから忍び込んでたんだ?)
(無視しないでよ! 聞こえてるんでしょ!?)
梨紅の顔が、恥ずかしさで紅くなっていく。すると、
「あ、そうそう、梨紅?」
美由希との会話に夢中になっていた、梨紅の母親――今城華子が、思い出したように梨紅に言った。
「何? お母さん」
「今夜のお仕事、ちょっと大変だって話だから、気をつけてね?」
お仕事とは、退魔のことである。町の見回りで済む時もあれば、魔物を倒す必要がある時もある。どちらかと言えば後者が多いのだが、今回は事前に言われる辺り、複数の魔物を倒すか、強い魔物を倒すような仕事だと思われる。
「うん、わかった」
「北海道から戻ったばっかりなのに、幸太郎さんも居なくて、心配だわ。顔も紅いし」
(!……)
(……?)
華子が言うと、一真の心に、梨紅の動揺が伝わる。通話中だと、具体的な言葉ではなくても、精神状態も少なからず伝わるのだ。
「……大丈夫だよ、一真も来てくれるし。あと、顔が紅いのも全然大丈夫だから」
「そうね……一真君、よろしくね?」
「……え? あ、あぁ。はい、大丈夫です」
一真は梨紅のことを気にしつつ、華子に返事をする。梨紅の顔は紅いままだが、表情がどこか暗いのが、少し心配になった。
「準備してくるね」
夕食後、一真の部屋に戻った2人だったが、梨紅は一真の返事も待たずに窓から出て行った。残された一真はベッドに横になると、一段落した時のように長く息を吐いた。
(……)
考えるのは、梨紅のことだ。華子から言われた際の動揺、それ以降の一真へのよそよそしい態度、さすがに気になる。
「やっぱり、北海道の件なのか……?」
一真は呟きつつ、梨紅の出て行った窓を眺める。
ゴールデンウィークのことだ。長い休みを利用し、一真と梨紅は北海道に退魔をしに出掛けた。これは珍しい――というか、初めてのことだった。自分たちの住む町の外で退魔をしたことなど、今までになかったのだ。そもそも、この貴ノ葉町の外で魔物が出現したという報告が来ることすら無かった。それも、考えてみれば不思議な話だ。この町にだけ、魔物が出現するように仕組まれてでもいるのだろうか。
話を戻す。一真が学校の宿題を出来なかった原因であり、華子が言った北海道のこと、それが出張退魔というわけだ。
2人はそこで、ある白熊の親子に出会ったのだ。日本の北の果て――魔物が出たと報告があった現場でのことだった。
「ただいま」
一真がぼんやりと、北海道での出来事を思い返していると、梨紅が再び、窓から戻って来た。その手には、布袋に入った長い筒状の何かと、靴が握られていた。服装も、動きやすい物に変わっている。急いで着替えたのだろう。
「おかえり」
一真はそう言って、身体を起こす。そして、梨紅に視線を向けた。2人の視線が交わると、一真の中に、映像が流れ込んでくる。
魔物から子熊を守るために命を落とした母熊の姿が、脳裏を過ぎった。
(やっぱり……)
一真は少しだけ、理解することが出来た。具体的に梨紅がどのように考えたかはまだわからないが、行動を起こすに至った原因が何かということが、わかった。
「もう、出るのか?」
「うん。そろそろ時間だから」
一真にそう答え、梨紅は布袋から鞘に入った刀を取り出した。
退魔刀――華颶夜――退魔刀とは、退魔士の持つ刀であり、魔物との戦いにおいて最も有効な武器だ。その刀身は魔を吸い、退魔の力に変える。梨紅の持つ華颶夜は、彼女が10歳の時、退魔士の仕事を始めた梨紅の為に作られた刀だ。
「こっちに向けるのは止せよ?」
顔をしかめながら、一真は言った。鞘に触れただけでも、一真自身の魔力まで吸われてしまうのだ。
「わかってるわよ。さぁ、行きましょ」
梨紅はそう言って、華颶夜を鞘ごと腰のベルトに下げる。一真もベッドから降り、梨紅に続いて歩き出すのだが、
「あ、窓閉めないと」
「おまっ……」
梨紅が不意に立ち止まると、華颶夜の鞘が一真の膝に当たる。一真は咄嗟に華颶夜をはねのけるが、時既に遅し……先述の通り、退魔刀は魔を吸うのだ。それは、一真達魔法使いの持つ魔力も、例外ではない。
「あ、ごめん」
一真は、梨紅が華颶夜を手にとった瞬間から約6年、何度も魔力を吸われているのだが……それは決して、意図的に吸われるばかりではない。
「『ごめん』じゃねぇよ!」
魔力を吸われてしまった一真は、膝から崩れ落ちつつ怒る。今回のような事故も、数多く発生しているのだ。
「これから退魔に行くってのに、味方を弱らせてどうすんだ! 気を付けろよ!」
「ほんと、ごめん。……んじゃ、そろそろ行きますか」
「状況わかってんのか!? 魔力吸われて弱ってんだよ! ちょっとぐらい待て!」
華颶夜に魔力を吸われ、グッタリしつつ叫ぶ一真を、梨紅は少しだけ申し訳なさそうに見つめ、苦笑した。
一真は梨紅に支えられながら、階段を降りて行く。しかし、現状のまま退魔に出掛けるわけにもいかず、魔力が補給できそうな物を摂取しに、まずはリビングに向かった。そこではまだ、美由希と華子が談笑を続けていた。
「母さん、栄養ドリンクある?」
今にも倒れそうな様子で、一真は美由希に言った。
「冷蔵庫の扉にある……けど、大丈夫?」
「大丈夫」
美由希の心配を他所に、一真は冷蔵庫を開け、栄養ドリンクを手に取る。魔力を回復するなどの特別な効果は期待できない、至極普通の栄養ドリンクに見えるが、一真はそれを開封すると、一気に飲み干した。
「……よし、行くぞ、梨紅」
「ねぇ、絶対に効果無いよね、それ」
飲む前と後で何も変化が起こっていないように見えた梨紅は、一真に聞く。起こっていないように見えたというか、実際に何も起こっていないのだが……
「完全回復だよ。エ〇クサーだぞ」
「違うよ、リ〇Dだよ」
強がる一真と、冷静に否定する梨紅。そんな2人を見て大丈夫と判断したようで、美由希は再び、華子との談笑に戻っていった。
玄関から外へ出ると、一真は深呼吸を始める。大気中の魔力を吸い込み、少しでも回復に充てるためだ。
「……梨紅、準備は良いか?」
「いや、私は良いけど……」
むしろそっちは? と、言いたげな梨紅だが、一真はそれを無視して話を続ける。
「で、今日はどこへ?」
「えっと……貴ノ葉北小学校の校庭だよ」
「北小……母校か!」
「母校です」
梨紅の言葉に、一真は少し安堵した。徒歩20分の距離だ、魔法で移動する必要はない。
「なら、"フライ"は使わなくても良いな、近いし」
「えぇー、飛んで速く行こうよ」
「おい、『魔法で』飛んでじゃねぇだろうな?」
大丈夫とは言ったが、空気を読め! と言わんばかりに、一真は梨紅に鋭い視線を送る。
「仕方ないなぁ……じゃ、歩いて行こうか」
梨紅は渋々、一真と一緒に歩いて行くことを了承した。
「……ねぇ、一真」
北小への道中、梨紅は隣を歩く一真に声を掛ける。一真は出発してからずっと、深呼吸を続けて魔力の回復に努めていたのだが、呼ばれたことでそれを一度中断し、梨紅に視線を向けた。
「どうした?」
「いや……私がさ、夜中に一真の部屋に行く理由なんだけど」
「唐突だな、ここに来てカミングアウト?」
自分から話し始めるとは思っておらず、一真は少し驚いたが、気になっていたこともあり、梨紅の話を聞く態勢に入る。
「その……嫌な夢を見るの。それも毎晩、同じ夢」
「どんな夢?」
子供かよ。とも思ったが、一真は話の腰を折ることはせず、続きを促す。
「えっと、一真が……」
「俺が?」
「死んじゃう夢」
「えぇ……」
一真は顔をしかめる。当然だろう、梨紅の夢の中で毎晩自分が死んでいると言われたのだ、良い気分にはならないだろう。
「魔物と戦ってて、ドジ踏んだ私の代わりに、一真が私をかばって、背中を爪で引っ掻かれて、血だらけで……」
具体的に説明する梨紅の声に、少し嗚咽が混じりだす。話を聞いている一真も、泣き出したいくらいだ。
「それでさ、私……血だらけの一真を抱き抱えて、必死に一真、一真って呼ぶの」
「……」
正直、これ以上聞きたくない。一真はそんなことを考えながら、なるべく遠くを見つめながら話を聞いていた。梨紅の声は、次第に小さくなって行く。どうやら、話も終盤のようだ。
「そしたら一真、死ぬ前に――キスしてくれって言うの」
「……」
キスと言われても、恥ずかしさを感じられる状態では無い。一真には”フラグが立った”としか思えなかった。
「でも、キスする前に目が覚める……それで、不安になるの、一真が死んじゃったんじゃないかって」
「だから毎晩、確認に来てたのか」
「うん」
梨紅の目には、涙が溜まっている。ずっと、堪えていたのだろう。一方、一真の中で、腑に落ちた感覚はあった。一真自身が考えていたことと、概ね繋がったからだろう。
「夢を見始めたのは、北海道から帰って来てから……だろ?」
「? どうしてわかるの?」
梨紅は驚き、目を見開く。同時に、溜まっていた涙が零れ落ちた。
「2人で北海道に行って、退魔は成功したけど……白熊のお母さん、助けられなかったからな」
梨紅の中の、”母熊を助けられなかった”という、自責の念――自分もいつか、失ってしまうかもしれないという恐怖が、夢に現れたのだと一真は考えたのだ。
「あれは、梨紅のせいじゃない。だって、少なくとも退魔はしただろ?」
「でも……」
「そんなこと言ったら、俺の方が責任は重いはずだぞ?」
一真は視線を空に向けながら、話を続ける。
「退魔の後、子熊が母熊にすがって泣いてるの見て……自分は無力だと思った。魔法使いのくせに、1匹の熊を助けることもできない。退魔士の梨紅がいなければ、魔物に傷一つ付けられない。俺だけじゃ、誰も、何も守れない。そんな俺に価値なんて……」
「あるよ!」
梨紅が一真の手を強く握り、一真の言葉を止める。
「だって私……一真が居ないと、嫌だよ」
「……あぁ、お前はそう言ってくれると思ってるよ」
一真だって、北海道での出来事で思うところはあった。まだ完全に考えが纏まったわけでは無いが、その悩みの大半のことは、梨紅の存在が解決してくれているのだ。
「少なくとも、俺は誰かに必要とされていて、大切に想われている」
「うん……」
「で、それはお前も同じなんだよ」
一真の返答に、梨紅は首を傾げた。
「梨紅が俺に『価値がある』と言ってくれたように、俺はお前に『価値がある』と言える」
一真は言いながら、梨紅が握って来た手を優しく握り返す。
「話がずれてきたけど、とにかく北海道でのことは、少なくとも梨紅だけの責任じゃない。それだけは覚えておけよ?」
「……わかった」
梨紅は少し迷った様子だったが、了承する。迷うのも当然だ、梨紅の不安を取り除いたわけではないのだ。つまり、根本的な解決にはなっていない。
「……どちらかと言えば、俺の方の不安の話になっちゃってたな」
一真はそう言って、苦笑する。自分でも気付いているのだ。梨紅の話を、自分の話にすり替えてしまったことに。
「一真の不安?」
「俺たちは互いに、別々の不安を抱えていたんだ。北海道から帰る道中からな」
梨紅とは違う不安。一真の考えていたことは、自身の『価値』――存在意義とも言える物についてだ。
「『自分が生きている理由とか意味があるのか』って、ずっと考えてた。簡単に言えば、梨紅が『失うことを不安に思っている』としたら、俺は『不安に思われる程の価値が自分にあるか』って考えてた」
1人で退魔をする力も無く、何かを救える力も無い。俺はいったい、何なんだ。自分だけでは、自身の価値を見つけられそうになかった。
「でも、梨紅がさっき言ってくれたことで、結論が出た」
「……どんな結論、だったの?」
梨紅はその場に立ち止まり、一真に問う。一真は真っ直ぐに梨紅を見つめ、答えた。
「梨紅が、『俺が居ないと嫌だ』と言う。生きる理由はそれで十分だ」
そう言って、一真は微笑んだ。自身を承認してくれる人がいる。認めてくれる人がいる。大切に想ってくれる人がいる。それ以上、何を望む必要があるのか。
もちろんこれは、万人共通の答えなどは無い。しかし、誰もがいずれは考えることのはずだ……それに自分なりの答えを見つけることで、人は人として成長するのだ。もちろん、一真もそうだ。
しかし、成長の先には新たな苦悩が待っているのかもしれない。
人として、男として、そして……
魔法使いとして。
真っ暗な校庭……いや、月明かりに照らされた灰色の世界が広がっている。
貴ノ葉北小学校――一真と梨紅の母校は、静まり返っていた。職員室に微かな明かりが見えるのは、残業中の先生方だろう。だが、退魔を行うという連絡は届いているはずなので、問題は無い。
2人は堂々と校門から敷地内に入り、そのまま校庭に向かう。魔物の出現まで少し時間があるので、遊具のブランコに座って待つことにした。
「……私も、同じだよ」
「ん?」
「自分が生きている理由とか、意味」
話は、先ほどからの続きだった。今度は梨紅が、ゆっくりと話し始める。
「退魔ができるって一真は言うけど、1人でやれてるわけじゃないし、それこそ一真に助けてもらってるから、『ダメダメじゃん』って思うことも多いの」
自分のつま先を見つめながら、梨紅は更に続ける。
「北海道でも――さっきは『わかった』って言ったけど、やっぱり『もう少し速く駆け付けられていれば』とは思うよ」
そう言うと、梨紅は少しだけ顔を上げ、校庭に視線を向ける。
「……自分の価値については、北海道から帰ってくる飛行機の中で考えてた。でも、答えは割とすぐに出たの」
一度言葉を切ると、梨紅は一真の方を向く。
「ちょうど今みたいに、一真が隣に居たから」
「……そっか」
そう言って、一真は少しだけ、ブランコを揺らす。自分だけが長い事考えていたようで、少し恥ずかしくなったのだ。
「それに、私の場合はね、一真がいつも大事にしてくれてるって自覚があるから早かっただけで……」
「……は!?」
梨紅の言葉に、一真は自身の顔が火照るのを感じる。
「何、恥ずかしいこと言ってんだよ……」
「照れすぎでしょ……でも、それこそ私も同じだから」
梨紅の頬も、少し紅くなっている。言うかどうか、僅かに逡巡した様子だったが、梨紅は続ける。
「私も、一真のこと、大事だし」
梨紅はブランコから降りて、一真から顔が見えないよう、背を向ける。一真はそんな梨紅を見て、少し驚いた様子だったが、次の瞬間には、別のことを考えていた。
(……告白するなら、今か?)
雰囲気は良い。シチュエーションは……小学校の校庭というのは些か微妙だが、何より幸太郎が近くに居ない。流れとしてはギリギリ許容してもらえるだろうか……
「梨紅、あの……」
一真が緊張の混じった声で梨紅を呼んだ、その時……
「きゃっ!」
「うぉ!」
震度の高い地震のような地響きが、校庭に響いた。
「魔物!?」
「マジか!」
梨紅は鞘から華颶夜を抜き、校庭の中心に向かって身構える。一真は違う意味での衝撃を受けたようだが、素早く意識を切り替える。一真もブランコから降りて、梨紅の脇に立った。
「……っし! 早いとこ退魔を済ませて帰りますか!」
「うん!」
気合いを入れた一真に、梨紅は大きく頷く。2人は校庭の中心に向かって、走り出した。
一真たちが話している最中のことだ。空中に、黒い球体が発生した。球体は一真たちが気付く前に地面に落ちていき、そのまま地中に吸い込まれるように入っていく。
数秒後、一真たちが驚いた揺れが発生し、地響きは次第に大きくなっていく。彼らが駆け出した時には既に、球体が入った地面が盛り上がり始めていた。
「”黒穴”の気配あったか?」
「気付かなかった……」
一真の問いに、梨紅は顔をしかめる。本来ならば、もっと早くに気付けるはずだった。いつもならば梨紅は、魔物が出現する黒い球体――黒穴を察知できるのだ。しかし、今回は集中していなかったようで、気付くことができなかった。
盛り上がった地面から余分な砂が落ちていくと、中から岩の巨人が現れた。
『ゴォォォォォォ』
巨人は、2人を威嚇するように野太い叫び声をあげる。
「来るよ!」
梨紅は鞘から華颶夜を抜くと、刃先を下に向け、下段に構えた。どのような攻撃が来るかわからない現状では、動き回ることを想定すべきという判断だろう。
「あのデカさで突進されるのは嫌だな……」
呟きながらも、一真は軽く前傾姿勢を取り、自身も駆け出せるように身構える。大きい岩の巨人だから、動きも緩やかだろう……などと安易に考えない所が、少なからず魔物と戦ってきた経験を感じる。
案の定、巨人はその巨体に似合わぬスピードで、2人と距離を詰めてきた。
「ブゥゥゥゥゥ!」
間合いに入るや否や、巨人は一真達に向かって左腕を降り下ろした。
「左右に別れるぞ!」
「はい!」
一真の指示を聞き、梨紅は右に跳躍する。一真は左に走りながら、右手を巨人に向けた。
「土属性には、"ウォータ"!」
巨人の腕が地面に当たると同時に、一真の右手から水の球体が放たれる。巻き上げられた土埃が目くらましとなったようで、球体は巨人の左腕に直撃する。しかし、目に見えたダメージは無さそうだ。
「せやぁ!」
一方の梨紅は、巨人の後方に向かって走りながら、一瞬だけ振り向き、巨人の左膝裏に斬りかかる。しかし、キン……! と、金属音が響いた所を見ると、巨人に弾かれたらしい。体重の乗らない軽い一撃ということもあり、こちらもダメージは無さそうだ。
「一真! こいつ、堅いよ!」
「この見た目で硬くなかったら笑うわ!」
巨人の後ろで合流した2人は、そのまま走り、距離を取る。互いにダメージが通らないのであれば、何か手段を考えるしかない。その為の時間を、何とか作り出す必要があった。
「私が時間を……」
「いや、俺が稼ぐ。機動力なら、自信あるからな」
梨紅の言葉を制し、一真は巨人の視界に入るように移動する。後ろを振り向こうとしていた巨人は、その途中で一真を見つけ、走り始めた。
「"フライ"じゃ間に合わないか……"スカイ!"」
巨人が両腕を振り上げ、一真を叩き潰そうとする刹那、一真は急激に加速し、その一撃を避ける。
飛翔魔法第二段階”スカイ”
”フライ”の倍以上のスピードで飛行することが出来る魔法である。
一真は加速を維持したまま空へ舞い上がり、巨人から一定の距離を取ったまま飛び回る。
「"ウォータ"!」
一真は更に、巨人に水の球体を放つ。なるべく死角から撃つことで、狙った部分に着弾させることは出来た。しかし、依然としてダメージは薄そうだ。巨人も腕を振り回して対抗するが、一真には当たらない。
「……!」
一真と巨人の攻防を見ていた梨紅は、あることに気付く。一真が放った魔法が当たった部分――巨人の左腕と背中が、変色しているのだ。
(一真! 魔法が当たった所の色が変わってるよ!)
(水が当たって弱体化……可能性はあるな)
「"ウォータ"! ”ウォータ”!」
心の中で情報を共有すると、梨紅は巨人に向かって駆け出し、一真は巨人の顔に向かって水の球体を2発放つ。巨人は両手でそれを防ぐと、一真を視界に捕らえるため、変色した両手を降ろして辺りを見回す。
「梨紅! ぶった切れ!」
「はい!」
一真の叫んだタイミングで、梨紅は巨人に接近する。そして、
「せやぁ!」
巨人の左腕を目掛け、下から上に向かって、華颶夜を振りぬいた。左腕は一撃で切り裂かれ、左腕が地面に落ちた。
「よし! ようやく一撃!」
一真は着地すると、巨人に向き直る。梨紅は華颶夜を振りぬいたまま、肩越しに巨人を見ながら駆ける。
「……駄目、効いてないよ」
巨人が自らの左腕を拾い、斬り口に押し当てるのを見つめながら、梨紅は呟く。次の瞬間には、斬られた後も残らない程に接着されていた。
「マジか」
一真は顔をしかめる。彼の持つ、魔法を使う為の力――魔力も、無尽蔵というわけではないのだ。あと数回使えば限界を迎えるというのが、一真の予想だ。
「……そういえば、お父さんが言ってた。土属性の魔物には土の核があって、真っ赤に輝いてるって」
「親父さんが……」
梨紅の言葉に、一真は一瞬だけ考える。幸太郎の言葉を信じて良いものかどうか……しかし、彼が梨紅に、退魔のことで嘘を教えることはありえないと判断した。
「つまり、巨人の体を削ぎ落とせば核が見えるんだな? それをお前が斬れば終わりってことか!」
「『回復するより速く』ってことも忘れずに!」
作戦が何となく纏まる中、巨人が再び動き始める。
「ゴォォォォォォ」
巨人は2人に向かって走りながら、腕を振り上げ、雄叫びをあげる。
「……じゃ、頑張って! 一真!」
梨紅は一真の肩を軽く叩くと、真横に向かって駆け出した。
「おぉ――はぁ!? 俺がやんの!? 魔力少ないんだけど!」
一真は驚き叫ぶが、梨紅は走るのを止めない。
「だって華颶夜じゃ削れないもん!」
「えぇ……まぁ、そうか……」
走りながら梨紅が言うと、一真は渋々納得した様子で、巨人からバックステップで距離を取る。地響きがどんどん近づいて来る中、至極冷静に思考を続けた。
「削ぎ落とす……水で弱らせ、風で細かく」
「一真、来てるよ!」
その声色からは、梨紅の焦りが感じられた。梨紅から見ると、今にも巨人の拳が一真を捉えそうなのだ。
「大丈夫、遊具の位置はちゃんと覚えてる」
梨紅の言葉に対する返答にはなっていないが、一真はそう呟き、バックステップのまま斜め後方に跳躍する。一真は更に、巨人が振り下ろした右腕の側面を踏み台に、飛び上がる。そのまま空中で回転すると、ジャングルジムの上に着地した。
「2つの魔法を同時に使う! 核が見えたらすぐに斬ってくれよ!」
魔力が心許ない状態だから、早めに決着をつけたい。そういう意図を込めて、一真は梨紅に向かって叫ぶと、巨人に向かって跳躍する。
「了解!」
意図を汲み取ったかはわからないが、梨紅は左足を下げると、身体を左に捻りつつ、華颶夜を左後方に向ける。そのまま、退魔力を込め始めた。
一真は梨紅の動きを確認しつつ、巨人の頭上に到達する。そのまま両手を真下に突き出し、叫んだ。
「"ウォーティ"! "ウィンディ"!」
一真の左手から水流が飛び出し、右手から風が吹き出した。風と水流が混ざりあい、暴風雨となって巨人に襲いかかる。ちなみに、ウィンディは風魔法第二段階、ウォーティは水魔法第二段階である。
「"ストームストライク"!」
水で弱体化しつつ、風で削る。一真が想像した通りに、魔法は巨人の身体から岩を削っていく。巨人はボロボロになっていくが、風で捕らえられており、身動きは取れない様子だ。
「そろそろ、魔力がキツい……」
巨人の腕は小間切れになり、身体も徐々に削れていく。それに伴い、一真の魔力も限界に近づいていく。
「削れろ――!」
一真が気合いを込めると同時、かなりの細さになった巨人の体から、赤い光が漏れ始めた。
「いけぇぇぇぇぇぇ!」
これ以上の魔力消費は、命にかかわる。そのギリギリまで魔力を注ぎ込んだ後、一真は魔法を止め、そのまま巨人の後方に落下を始める。すると、
「退魔流剣術一刃…"白の三日月"」
梨紅の声が、一真の耳に届いた。梨紅が華颶夜を振り抜くと、三日月の形をした白い刃が華颶夜から放たれる。その三日月は巨人の身体を縦に両断し、核は2つに分かれた。
「ナイス!」
一真は拳を握り締めると、空中で体勢を整え、綺麗に着地する。それと同時に、巨人は動きを止め、その身体を形成していた岩の色が真っ白に変わる。そのまま、徐々に砂となって風に乗り、完全に校庭と同化した。
「…ふぅ」
「お疲れぇ梨紅、大丈夫か?」
「…疲れた」
一真は梨紅に駆け寄ると、フラつく身体を支える。
「退魔流剣術…今日は妙に疲れた…なんでかな…」
「…そりゃあれだ、華颶夜で魔力を吸えなかったからだな…」
「カズマのせいだったんだ…」
「いやいや…魔物から吸えよ、オレからじゃなくて…」
「…帰ろう」
「無視かよ…歩けるか?」
「無理よ、見ればわかるでしょ?」
「…その口調はかなり元気っぽいけどな」
一真は梨紅を背負い、布袋に入れた華颶夜を持つ。
「ちゃんと掴まってろよ?"フライ!"」
一真は、月も雲に隠れた漆黒の空へ舞い上がった。
「すぅ…すぅ…」
一真の背中で寝息をたてる梨紅。一真は苦笑しながら、ゆっくりと飛行する。
「…リク、寝てるよな?」
「すぅ…すぅ…」
「…本当に寝てるな?」
「…すぅ…すぅ…」
一真は軽く咳をし、言葉を選びながら話し始めた。
「今日は…その、色々とありがとう…な?」
「すぅ…すぅ…」
「なんて言うか…心配してくれたり、オレを必要だって…言ってくれたりして、嬉しかった」
「…」
「…さっきも言ったけど、オレにはお前が必要だ。それは、お前がいないと魔物を倒せなかったりするからだけじゃなく…その…」
「…」
「…お前がいないと、何かこう…物足りないって言うかさ、寂しいって言うか…よくわかんねぇや」
「…すぅ…」
「とにかく、オレはお前が必要で、オレはオレを必要としてくれる人のために…お前のために生きているってことにしたから…」
「…」
「…これからも、よろしく…」
(…こちらこそ)
「え…?」
「…よろしく」
「…お前、今の聞いて…」
「オレは、お前のために生きて…」
「うわ!ちょっ、言うなよ!恥ずかしい!!」
「…私も、カズマと同じ気持ちだよ?」
「…リク?」
「…すぅ…すぅ…」
再び寝息をたて始める梨紅。
「同じ気持ち…」
それが、一真のために生きていることにした事を指すのか…
それとも一真のように、梨紅にも一真への恋愛感情があるということを指すのか…
「…どっちだ?どっちなんだ?」
こうしてまた一つ、一真の苦悩が増えたのであった。
…しかし、一真は気づかない。
どちらの場合でも、梨紅は一真に好意を抱いていることを…
梨紅もまた、気づかない…
一真が自分に好意を抱いていることに…
二人は、気づかない…
実は、両想いだったりすることに…
二人がそれに気づくのは、まだ先の話…
気づかないでそのままの可能性も否定はできない…
ただ一つ、言えることがあるとすれば
二人が苦悩するかぎり
その答えを見つけずに生きることは不可能である
と、言うことだけである。