春と大好きと卒業と。
卒業したい。
27歳、春───
───彼への愛から卒業したい。
▶▶▶
できるものなら。
この夜、今日も今日とてコンビニへと続く道を歩く私の足を、できるものなら止めてみろ、と思うのだ。
足を切り落とされでもしない限り、止まることはないのだろうが。
それほどまでに、私の彼への愛情は深い。
自負するほどに。
夜の喧騒が心地よく耳を揺らす。
うっとりするような春の涼しさが身を包み、私の心を優しくクールダウンさせてくれる。
なにせ彼と会うのだ。
今から、愛しく、愛しく、愛しく、愛しい、彼と会うのだ。
どれだけ腐ったって女は女。彼の100000分の1くらいは可愛くいなければ。
荒ぶる鼻息を抑えるくらいの努力もするというものだ。
緑の看板が見えてくる頃には、その努力も水泡に帰す1歩手前になるのだが。
うぃん、と。
心構えの間もなく、実に呆気なく開く自動ドアをくぐると、正面に位置するレジの横っ面、麗しい彼の麗しい笑顔。
────あぁ、好きだ。
高鳴る心臓は正にハートの形になっているだろう。
柔らかなピンクに染まってときゅんときゅんと脈打っているに違いない。
「いらっしゃいませ」
らっしゃっせー、なんて雑な挨拶でなし、慎ましやかで可愛らしい声が丁寧な言葉を運んでくるのをうずまき管でしかと受け止め、私はつとめて無反応を貫いた。
いくら愛で動いているといえど、その愛情を悟られて気持ち悪がられたいとは思わないのだ。
いちコンビニ店員の挨拶に過剰に反応する客はいない。これは常識。
レジ前を通ってスイーツコーナーへ行くその道すがら、彼の匂いをすんすんと嗅いでおくのも忘れない。いつもフルーツのような甘い香りがする彼が大好きだ。それ以外ももちろん大好きだけれど。
スイーツコーナーについて素早く、2種類のクリームをたっぷり挟み込んだふわふわのエクレア、黄味の色が濃い濃厚プリン、生地がサクサクで香ばしいシュークリームをカゴに入れる。この3点はお決まりだ。
この3つを買ってしまえば用などない。とはいえ彼と同じ空間から出るというのも惜しく、雑誌を読むふりで時間をつぶしたのちにレジに行くのが常だった。
レジに着いてカゴを乗せる、注視しつつの行為は禁止。必ず視線は斜め下、上げるのは話しかけられてから。
「カードはお持ちですか?」
来た。
蜂蜜みたいに甘い、可愛い声。
すぐさま顔を上げて、カードを差し出す。
白魚のように白くて長い指がカードを摘み、丁寧にスキャンして返してくる。
商品は3つ。
会計の間、彼の視線はスイーツに向けられているので隙があるのだ。
この隙に、伏し目がちの大きな目、縁どる長くて艶やかな睫毛、栗色のつむじを見つめる。
ああ、好きだ。
しっかりと再確認する。彼への愛情をしっかりと。
スイーツを丁寧に袋に詰め、私へと渡す彼の目は幸せそうだ。
私の選んだスイーツは彼の好きなものばかりなのだから、当然といえば当然のこと。
彼の喜ぶ顔を見るためなら、クリームだらけの胸焼けしそうなスイーツだって買うというもの。
「どうぞ」
私は鷹揚に頷く振りをする。本当はレジを跨いで彼をぎゅっと抱きしめて、胸に顔を埋めてすんすんしたい。温かな体温を感じてはふはふしたい。
だがしかし、彼を煩わせることはしてはいけないのだ。これは信条。
私はこっそりと、この胸を焦がす熱いマグマのような恋情を吐息で逃がした。
好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ。
好きなのだ。
それはもうどうしようもない程に。
胸がいっぱいで苦しい。
彼の「ありがとうございました」を背中に受けて、言葉を声を吸い込むように、そっと静かに深呼吸して店を出た。
こんな恋を、毎日毎日。
こんな感情を、毎夜毎夜。
届けるはずもないこの愛が、ハートの心臓を破って暴走する前に、解放されたい────
────この時期にあてて言うならば、
卒業したい。
と、そう思うのだった。
▶▶▶
────可愛い。
ウィーン、と自動ドアが開いて、彼女が出ていく。
春らしいピンクのスプリングコートがひらひらと街に消えていくのを見送って、また正面に向き直りながら。
「可愛い」と、今度は小声で言ってみるのだった。
俺は彼女が好きだ。
誤解のないように言っておくと、たった今、2種類のクリームをたっぷり挟み込んだふわふわのエクレア、黄味の色が濃い濃厚プリン、生地がサクサクで香ばしいシュークリームを買っていった、ピンクのスプリングコートの彼女。
俺は彼女に対して、少々偏執的な、変態的な愛情を抱いている───と。
自負している。
といっても、コンビニでの付き合いだ───
長期的な、短い付き合いだ。
彼女のことが何でもわかる訳では無い、が、何にもわからない訳でも無い。
例えばあのスイーツ3種とってみても。
あんな生クリームだらけの、胸焼けしそうなスイーツを彼女が好まないことは知っている。このコンビニでの最初の数日、彼女の買い物は缶ビールやスナック中心だったのだから。
一度きり。
一度きり───彼女の買い物カゴの中に、ようやく好みが一致するものがあって、思わず笑ってしまったときがあった。
こんなにも愛らしい見た目なのにも関わらず、男勝りな好みの彼女と唯一噛み合ったお菓子の存在に、ほぼ不可抗力でにやけてしまったのだが、そのときに食い入るように見つめてきた彼女のアーモンド型の瞳を未だに覚えている。
それから、彼女はちまちまと買い物カゴに甘ったるいスイーツを混ぜるようになり、ちらちらと、俺の反応を気にしだした。
その健気な様子が可愛くて、愛しくて、誘導するように微笑んでみせたりした───彼女に食べてほしいと思うスイーツをピンポイントで。
いわばこれは調教だ。
彼女の好みを自分好みに。
ゆっくりじっくりこっそりと──染め上げていく、遠距離で遠隔な調教だ。
彼女は俺に、その小さな胸に宿る好意を悟られまいと、必死にクールを装う。レジで俺の顔を見過ぎないように目線は斜め下、俺の作業中は堂々とガン見。
わかり易すぎる──だからこそ愛しい。
わかりにくいからと嫌いになることもないが、わかりやすいというのはある種の美徳だ。
可愛らしくて素直で愛しい。
あの日、一目見て恋に落ちてから──否、そんなに綺麗な感情じゃない。
歪んだ愛に堕ちてから。
俺は、愛しているのだ───きっと永遠に、彼女だけを。
彼女は俺に愛を伝えないつもりらしい。
あんなにきらきらしい瞳でひとのことを見ておいて、隠せている気になっているのも可愛らしい話だが。
そのまま隠し通して、いつか俺か彼女がこの場を去るまで───その後、彼女は他の誰かにその愛情を向けるのだろうか。
そんなことは許さない──
胸の中にどろりとした黒い独占欲が渦巻く。想像だけでこうなるのだから、実際に起きたらどうなってしまうのだろう、と少し自嘲気味に考えた。
そんなことより、彼女をこの手の中に閉じ込めて、心を通い合わせた後のことでも考えよう。
華奢な体を抱きしめて、桜色の唇にキスして、手を繋いだりなんかして、それから────
▶▶▶
23歳、春。
俺は彼女への愛を失うことも、忘れることも、消してしまうこともない。ありえない。
彼女は俺への好意に苦しんで、忘れたいなんておもっているのかもしれないが。
とにかく、俺は彼女への愛を解かない。
この時期にあてていうならば、
─────卒業しない。
彼女のことだって、卒業させてあげない。
拙い文章ですが一生懸命書いたので、楽しんでいただけたなら嬉しいです。