悪魔惚れ
「おっ、エリス。もう大丈夫なのか?」
「ああ。昨夜は少し飲みすぎただけだ」
エリスが王城の地下にある図書館で調べ物をしていると、ジャックが軽い足取りで近づいて来た。
「何だ?調べ物か?」
「ああ。少し気になることがあってな」
ジャックの言葉に頷きつつ、本から顔を上げる。
「なあジャック。普通の人間が悪魔の降臨儀式を行わずして魔女になる事はあると思うか?」
エリスが興味深げに尋ねると、
「うーん、基本的にはないだろうなぁ」
ジャックが少し考える素振りを見せてから答えた。
「基本的には?という事は例外もあるのか?」
「ああ、一応……信憑性はないが」
前のめりになるエリスにジャックが気押されたように一歩下がる。
「噂によると、悪魔が人間の女に惚れた時、降臨の儀式なしでも魔女が生まれるらしい。……ほら?悪魔はみんな男だろ?奴らも女性が好きなんだ」
ジャックの言葉を聞いたエリスはガクリと肩を落とした。
「いや、それは都市伝説だろ……。その話なら私も昔から何度も聞いたことがあるぞ?」
「だろうな。だから、最初に信憑性はないと言っておいたんだ」
ジャックが飄々と言ってのける。
悪魔惚れの話はとても有名な話だ。
美しい女性に惚れた悪魔は、その力を勧んで差し出すという。
エリスが女性らしい格好や言葉遣いを避ける様になったのはこの話の影響が大きいかもしれない。
「そんな御伽噺を魔女化の方法の一つとして数えるな。くだらない」
「そうか?案外、こういう話も馬鹿にならないかもしれないぞ?悪魔が全員男なのは事実だしな」
エリスの言葉にジャックが大きく肩を竦めた。
そのまま、エリスの方を指差して笑う。
「少なくとも俺が悪魔なら、昨日のお前のドレス姿で惚れてる」
◇◆◇◆
『そうだよエリス。君に惚れたんだ』
夢の中で青肌の悪魔が流麗な声で話した。
「ふざけるな!今すぐ私の中から出て行け!」
鋭く言い放つエリスを見て、足元のエイルが首を振る。
『エリス、それは無理よ。一度現界した悪魔や精霊は主人が死ぬまで帰れないの』
「いや、探せばきっと何か方法があるはずだ」
頑なに認めようとしないエリスの元に悪魔が近づいてきた。
『エリス、何が不満なんだい?とっても素晴らしい力をあげたのに』
酷く悲しそうな顔で呟く。
「私は力なんて望んでいなかった」
『でも、本当に素敵な力だよ?』
「黙れ。お前みたいなクズの力は死んでも借りん」
エリスがはっきりと言い切ると、それまで優しい顔をしていた悪魔が突然怒ったように詰め寄ってきた。
『エリス、あんまり僕を怒らせるなよ?』
流麗な声が一気に低くなり、両腕で思い切り体を締め付けてくる。
肺が圧迫され、上手く息ができない。
もう少しで背骨が折れそうだ。
精神世界の死は則ち現実世界の死を意味する。
「やめろ……はなせ……」
必死で足掻くエリスを見て悪魔が薄く笑った。
『時空の魔女エリス・ナナトス。それが君の新しい名前だよ』
◇◆◇◆
聖騎士は基本的に王城勤めである。
魔女や魔物の被害報告があれば、地方へと出向いて討伐する。
それ以外は日がな一日戦闘訓練だ。
「なんだこの騒ぎは?」
エリスが木剣片手に王城の中庭を訪れると、部下の聖騎士達が大騒ぎしていた。
「エリス様!大型の魔物が現れました!ご助力お願いします!」
中庭の真ん中で体長3メートルほどの一つ目鬼が暴れていた。
右手に巨大な棍棒を持ち、真っ赤な肌からは絶え間なく炎が吹き出している。
フレイムオーガ。
かなり強力な部類に入る魔物だ。
「武器を寄越せ……」
近くの部下から長剣を奪い取り、赤鬼の元へと向かった。
今のエリスは鎧すら纏っていない軍服姿だ。しかし、着替えに戻っている時間はない。
既に赤鬼の足元には数多くの死体が転がっていた。どうやら今回の魔物は低位の聖騎士の手に負えるレベルじゃないらしい。
今現在、魔物の足止めをしているのはたった一人のパラディンだ。
アラン・ロラード。
銀髪の長身イケメンで聖騎士一のモテ男だ。そして王族の血縁者でもある。受賞した勲章の数もエリスに次いで多く、実力も折り紙つきだ。
そんな彼が一匹の魔物相手に手こずるのは珍しい。
「ロラード。手を貸すぞ」
エリスが近づいていくと、それまでアラン一人を狙っていた赤鬼がこちらに向かって棍棒を叩きつけてきた。
それを素早く懐に飛び込むことで回避する。
赤鬼から発せられた火の粉がエリスの全身に降りかかるが、そんなこと御構い無しに長剣を振るった。
『ウガァァァ!!!』
右足を斬りつけられた赤鬼が悲鳴を上げる。
しかし、傷は浅く、大したダメージにはなっていないようだ。
次の瞬間にはまるで幻だったかのように切り傷が消えて無くなった。
「ナナトス、そいつは普通のフレイムオーガじゃないぞ。強力な治癒能力を持っている」
背後のアランが落ち着いた声で忠告してきた。
そのまま、エリスと入れ替わるようにして前に出る。
アランの一刀で赤鬼の右腕が吹き飛んだ。しかし、すぐに新しい腕が生えてくる。
ダメージは一切残っていないようだ。
続けてアランが左足を切り落とした。
そのまま、バランスを崩した赤鬼の頭を吹き飛ばす。
しかし、それでも赤鬼は死なない。
数秒後にはまた無傷の状態に戻っていた。
(何だこいつは?まるで不死身じゃないか……)
アランの戦闘の様子を眺め、眉をひそめる。これ程までに生命力の強い生物は未だかつて見たことがない。
「頭を切り落としても心臓を潰してもダメか……ナナトス、こういう敵はどうやって殺せばいい?」
赤鬼の元から素早く飛び退いたアランが、エリスの横に降り立った。
「さぁな。私もこれほど生命力の強い生き物を見るのは初めてだ」
エリスが肩を竦めながら答えると、アランが静かに笑い出した。
彼の所作には常に気品が溢れており、その一挙手一投足が絵になる。
「これほど生命力の強い生き物を見たことないって……君も似たようなものだろう?」
楽しげに話すアランの言葉に思わず眉をひそめた。
(私に似ているだと……?)
魔物は魔素によって穢された空間で生まれる。そして、生みの親である魔女の特性を受け継ぐことが多い。
つまり、
(……こいつの生みの親は私か)
周囲に積み重ねられた死体の山を見て眩暈を起こした。
もし、このフレイムオーガがエリスと同等の力を有しているのならば殺すのはかなり困難だ。
打撃や斬撃で死なないのは勿論のこと、毒や細菌も効かない。
超回復は聖騎士なら誰でも使える法術の一つだが、普通は頭を飛ばせば死ぬし、四肢を切断されれば直ぐには治らない。
とにかく、エリスの回復力が異常なのだ。
そして、この赤鬼はしっかりとエリスの異常性を受け継いでいる。
「……首を締め上げろ。意識を失えばどんな怪物も止まる」
真横のアランに顎で指示を出す。
「なるほど。それが君の攻略法か。覚えておこう」
ゆっくりと頷いたアランが赤鬼に向かって走り出した。
そのまま、一気に距離を詰め、両手を切り落とす。
次の瞬間、アランが怪物の喉元に掴みかかった。
腕の再生まで数秒を要する赤鬼は一切抵抗できない。
アランの手元で苦しそうに呻く怪物を見て不思議と胸が痛んだ。
魔物は生みの親の命令に絶対服従だ。
「眠れ……」
エリスが自分にだけ聞こえるように小さな声で呟くと、それに合わせて赤鬼の動きがピタリと止まった。