凍てつく戦場
「それならお前は死罪だ」
冷たい声音で呟いたノアが後ろ手に扉を閉めた。
店内の温度は既に氷点下に達している。
まるで、冷凍庫の中にいるようだ。
両手をロングコートのポケットから出したノアが頭上に右手を掲げる。
すると、
ピキピキ。
その周囲に氷屑が集まってきた。
空気中の水分が凍って表に現れたのだ。
数秒後、彼女の右手に氷製の見事な長剣が収まる。
次の瞬間、
「……地獄に堕ちろ」
ドスの効いた声で呟いたノアが、一気に体勢を低くした。
そのまま、氷上を滑るような足運びでこちらに向かって突進してくる。
互いの間の距離は約10メートル。
「遅いな」
一瞬で懐に飛び込んで来たノア。
その姿を眼球の動きだけで追ったエリスは、斜め下から繰り出された一撃をゆらりと躱した。
眼前スレスレを氷刃が通り過ぎて行く。
しかし、何一つ恐怖を感じなかった。
(遅い。遅過ぎる)
袈裟斬りに続いて繰り出された突きも難なく躱し、後方に飛び退く。
まるで、児戯に付き合っているような感覚だ。
相手の動きがスローモーションに見える。
「所詮は魔女か。口ほどにもない」
霞むような速さで相手の懐に飛び込み返したエリスは、コンマ数秒の間に5回斬りつけた。
手元のナイフで急所を順々に刺して行く。
肺、喉元、眼球、腹部、そして心臓。
矢継ぎ早に繰り出される攻撃にノアが堪らずよろめいた。
しかし、その傷口からは血が一滴も出ていない。
「何だこれは……?」
再び距離を取ったエリスが傷口を訝しげに眺めると、その周辺が氷に変化しているのが分かった。
氷像が欠けるように穴だけ空いている。
「私にダメージを与えることは不可能だ」
ノアがそう言った瞬間、空気から水滴が染み出し、傷口を覆った。
そのまま、氷へと変化し、穴を塞ぐ。
気づくと、目の前に立っているノアが数秒前までの姿に戻っていた。
「これはまた厄介な能力だな……」
一瞬で全快した相手を見て、手元のナイフを放り捨てる。
空いた右手を胸の前で掲げると、改めて相手に向き直った。
「厄介な能力?そんな悠長な事を抜かしていると死ぬぞ?」
カッと目を見開いたノアが両手を大きく広げる。
「アイスアロー!!!」
彼女の言葉に合わせて、虚空から幾千もの氷の矢が生み出された。
その全てがエリスに向かって高速で打ち出される。
(この数を全て避け切るのは不可能か)
瞬間的にそう判断したエリスは、迷いなく時空魔術を行使した。
「……ズレろ」
自らの体を五次元方向へと移動させる事で、全ての攻撃を無効化する。
標的を失った氷の矢がカウンター裏の壁に突き刺さった。
バキバキバキ。
物凄い音を立ててレンガの壁が凍りつく。
その余りの威力に目を見開いた。
(あんなのを諸に喰らったら、生きたまま氷漬けだな。流石の私でも無事でいられるかどうか……)
しかし、それと同様にノアもポカンと口を開ける。
「貴様……一体、何をした?」
何故自分の魔術が回避されたのか理解できていないらしい。
「さて、何をしたのかな?」
ハッと我に返ったエリスがゆっくり正面に向き直ると、怯んだようにノアが一歩下がった。
そこにすかさず魔術を打ち込む。
「……切れろ!」
エリスが右手で宙空を凪ぐと、ノアの頭が首元からスパリと切断された。
しかし、又しても流血はない。
次の瞬間には、空気中の水滴を掻き集め、氷像として再生する。
数瞬後には、氷でできた彼女の頭に色が戻っていた。
「分からん。貴様の魔術が分からん。分からんが……どうやら私を傷つける事は出来ないようだな」
完全に調子を取り戻した様子のノアがニヤリと笑みを浮かべる。
「それなら一方的になぶるだけさ!今度はどんな小細工でも避けられない大技をお見舞いしてやる!」
再び両手を大きく広げたノアの口元に青白い光が収縮していった。
やがて、光球が直視できないほどの輝きを持つ。
(来る!?︎ )
エリスが息を飲むと同時に、ノアが白眼をむいた。
「キェェェェェ!!!」
奇声を発すると同時に彼女の口元から収縮された光が解き放たれる。
爆発的に広がった光は、店内を覆い、全ての視界を奪った。
「ぐっ」
突然の出来事に思わず腕で目を庇う。
(何だこれは……目眩しか!?︎ )
強く歯軋りをしたエリスが、恐る恐る目を開くと、周囲の景色が一変していた。
カウンターの上のコップも、天井の照明も、店の隅のテーブルも、全てが氷漬けになっている。
視界を漂うダイヤモンドダストは、空気中の水分すら凍り付いたことを示していた。
(触れたもの全てを凍り付かせる光線か。一歩間違えれば私も氷漬けだったな……)
自らの体を五次元方向へズラしても、音や光は届く。
だから、エリスは物事を知覚できるのだ。
しかし、ノアの魔力はこちらまで届かなかったらしい。
「成る程、大した魔術だな。これだけ強ければ、用心棒を任せられるのも頷ける」
「な、何故だ!何故私の魔術が当たらない!?︎ 」
目に見えて狼狽えるノア。
「規格が違うんだよ。私とお前では」
澄まし顔のエリスがゆっくり歩みを進めて行くと、それに合わせて彼女が一歩ずつ後退した。
しかし、壁際で立ち止まり、深く腰を落とす。
「……だが、私を傷つけられないのはお前も同じだ!」
そう言った次の瞬間、ノアが物凄い速さでこちらに向かって突っ込んで来た。
その手元に再び氷の長剣が顕現する。
(一度通用しなかった魔術を二度も行使するとは……愚かな)
目の前に迫った相手を見据えたエリスは、侮蔑の視線と共に短く言い捨てた。
「私とお前が同じだと?笑わせるな」
そのまま、時空魔術を行使してノアの両足首を切断する。
「なっ!?︎ 」
驚きの表情を浮かべたノアが勢い余ってエリスの胸元に飛び込んで来た。
それに合わせて口元のフェイスベールをたくし上げる。
すると、魔素汚染対策に仕込んでいた別空間への入口が露わになった。
直径5センチ程のゲートが見る見る間に拡大し、2メートル四方まで広がる。
「お前は私に触れられないが、私はお前に触れられる。この差は決定的だ」
エリスがそう言うと同時に、バランスを崩したノアが頭からゲートに吸い込まれた。
シュルルル。
直後に縮小したゲートがフェイスベールの下に収まる。
「……お前が地獄に堕ちろ」
◇◆◇◆
ゴンゴン。ゴンゴン。
魔女達との激闘を終えたエリスは、拾い直したナイフの柄でカウンター奥の戸棚を叩いていた。
魔女平和協会に関する情報が隠されているとしたらここしかないのだが、扉が凍りついており、全く開く気配がない。
元凶であるノアを別空間へ飛ばしたと言うのに、喫茶店内は未だに氷漬けだ。
(くそぉ。あの氷女、やってくれたな!)
苛立ちを募らせたエリスが力任せにナイフを叩きつけると、氷の角で柄が砕けてしまった。
その衝撃でナイフを取り落とす。
「全く。仕方がないな。平時はあまり頼りたくないんだが……」
ブツブツと文句を言いつつ、戸棚の扉を十字になぞった。
時空魔術を使用して直接削り取る。
すると、中から大量の書類が出てきた。
(これは……中々、多くの情報が得られそうだな)
そう思ったエリスが棚の奥へ手を伸ばそうとしたその時、
「おい、そこの魔女!止まれ!」
突然、背後から声を掛けられた。
その言葉を聞き、動きを止める。
(しまった。魔術の使用を見られたか!?︎ )
冷や汗をかいたエリスが恐る恐る後ろを振り返ると、店の入口に小柄な坊主男が立っているのが見えた。
獣のような鋭い眼光に、直視するのを躊躇う程に煌びやかな白金の鎧。
扉から差し込む陽光全てを背負って立つその姿は、まるで神の生まれ変わりのようだ。
やがて、逆光で顔の隠れた男がゆっくりと口を開く。
「俺の前では全てが平等だ。そこに強者も弱者もない。人呼んで《神の子》。リーン王国、第四パラディン、マイク・ピアス……ここに推参」