鏡の中の俺
「ああ、クソ怠ぃ……」
毎日繰り返される代わり映えのない日常のとある昼休み、飯を食い終えた俺は足を投げ出してお決まりの言葉を吐いた。
毎日まいにち、学校に来て授業を受けて、帰って飯食ってテレビ見て風呂入って寝る。
同じ事を繰り返して十七年、いい加減飽きたぜ……。
「またでた。柊の『クソ怠ぃ』手持ち無沙汰になるとすぅぐ言うよねぇ? どうせなら周りを笑わせるようなジョークとか言えないの?」
一緒に昼飯を食っていた梨々香が、うんざりとした口調で溜め息と一緒に吐き捨てる。
切れぬ腐れ縁を持った幼馴染みで、小学校に入る前からずっと同じ学校に通っている。中学の時は殆ど口も聞かなかったが、今は特に理由もないが、良く一緒に行動していた。
「なんで俺が人を笑わせなきゃならねぇんだよ。クソ面倒クセェ……」
梨々香の戯れ言を溜め息と一緒に一蹴すると、窓の外に視線を投げた。キャンキャン吠えるだけのこいつとの会話は正直疲れる。
「そんなんだから誰も寄り付かないのよ!?
誰が話し掛けても、関係ねぇみたいな態度でさ。もっとちゃんと生きろっつーのっ!!」
「いいだろうが、別に……。
ちゃんと生きても適当に生きても大差ねぇよ」
なぜか急にキレた梨々香が面倒になって、俺は適当にあしらうと購買で買ったパンの袋をビニール袋に押し込んだ。
「意識が変わるわ。気の持ち方一つで結構変わるのよ。
あんたが下らないってバカにして来たものも、物凄く素晴らしい物に見えてくるかもよ?
それが判らないなんて可哀想ね」
「わざわざ、なんの変哲もないものを特別視して有り難がって生きて行かなくても、それなりにやってるぜ」
「ああ、そう!!」
梨々香は机を両手で勢い良く叩くと、そのまま立ち上がり俺を睨んで言い放つと踵を返して苛立たしそうに歩き出して教室から出ていった。
これだから、ヒステリーな奴は相手にすると疲れる。
何事も見解の違いだ。これまで築き上げて来た物はそうそう変えられない。
どんなに頑張ったところで俺は俺でしかないのだ。
午後の授業も適当にやり過ごして漸く放課後になった。
俺は帰ろうと鞄を持って、昇降口に向かい廊下を歩いていた。
学校になんていても不特定多数しかいない。早く精神はしていない。
「ああ。別にいいぜ。がんばれよ」
確かオカ研の部長だった男に一声掛ける、ヘンテコな訳の分からないものを持って何処かへ行く男を目で見送った。
誰もいなくなったオカ研の部室は、不用心にも扉を開けっ放しで放置されている。
他にどんな物があるのか興味が沸いた。さっきのヤツが戻ってくるまで、留守番でもしてやるか……。
俺は気軽にオカ研の部室に足を踏みいれた。
部室の中は、窓と入り口を塞がないように棚が置かれて、なんだか良く判らないものがごちゃごちゃに並べられている。もっと薄気味の悪い黒魔術的な物を想像していたが、これじゃあオカ研の部室と言うより、ただの物置だ。
その上、並んでいる物はどれも用途も判らないものばかり、俺は三秒で興味を無くして部室を出ようとした。
その時、視界の隅でなにかが動いた気がして、俺はハッっなって振り返った。
気のせいか……? いや、ほらまた!
間違いなく何かが動いた。
俺はその何かの正体を突き止めようと、動いたものに近付いて行き、思わず笑いが溢した。
なんてことがない。棚と棚の間に立て掛けられるように大きな鏡が置かれていただけだ。
俺はこれに映った自分を見て、一人で勝手にビビってたのだ。下らない。まぁ、種が割れればこんなもんだ。
全く世の中退屈過ぎる。誰か俺の代わりに生きてくれないものか……。
「代わってやろうか?」
俺の胸中を呼んだように、何処からか聞き覚えのある声が聞こえて俺は周囲を見回した。
知っている声なのに、誰の声だったのか思い出せない。
辺りを見回しても誰もいない。俺は気のせいかと小さく失笑を洩らした。
「何処を見てるんだ? ここだよ」
やっぱり声は聞こえてくる。さっきと同じ声だ。
俺はもう一度に視線を這わせて、声の発生源を見つけ、驚愕に瞳を見開いた。
鏡に映った俺が、嫌みな笑みを浮かべて見つめている。
いや鏡なんだから、俺が鏡を見れば当然俺を見返して来る訳なんだが、俺はあんな嫌みな笑みは浮かべていない。
「よぉ、俺。毎日顔を合わせているが、こうして話すのは初めてだな」
鏡の中の俺が、馴れ馴れしく話し掛けて来る。
当然だ。鏡に映った自分が話し掛けて来たら煩くて叶わない。
「モニタリングか?」
思うところは多々あるものの、とりあえず俺は鏡に向けて問い掛けた。
「違ぇよ。と言ったところでお前が信用しねぇのは分かっている。鏡に映った自分が口を聞くわけねぇからな。
だけど、俺は確実にお前を信用させる方法を知っている。絶対に一発で信用するぜ。絶対だ」
鏡に映った俺は、力説してくる。
「別にお前を信じてやる義理はねぇだろう?」
無駄に力説してくる俺の顔をしている奴がうざくなって、俺は適当にあしらうとオカ研の部室を出ようとした。
「まぁ、確かにな。だけどいいのか? このまま行ったらお前はまた憂鬱な日々を過ごすことになるんだぜ?」
俺の心中を見透かすように、鏡の中から男が笑いを含んだ声で囁き掛けてくる。
俺には酷く魅力的な言葉に足が止まった。
「本当に俺の代わりが出来るのかよ?
だいたい、その鏡から出てこれるのか?」
確かに鏡に映った俺なら、なんの問題もなく俺の代わりが務まるだろう。
別に死にたいとは思わないが、生きて大した望みもない。このつまらない日常を俺として過ごしてくれる奴がいるなら、是非とも代わってもらいたいものだ。
だが、あいつにそれが出来るとは思えず、俺は鏡の俺に笑みを向けると皮肉を言ってやった。
立体的な俺を作り出せるほど、今の科学が発展しているとは思えない。
「いつでも代わってやれるぜ?
お前がほんの少しだけ協力してくれればな」
鏡の中の俺は、この先なにもしなくて済むのなら俺が少しくらいの無理は惜しまないのを知っているかのように、口許に笑みを浮かべて俺を誘惑してくる。
いまだに高性能のグラフィックと音声器具で変な実験をしているのだろうが、たまにはバカに付き合ってやるのもいいだろう。
「よし。いいだろう。何をすればいいんだ?」
俺は小さく鼻を鳴らすと鏡を見つめた。
どうせ俺があいつの言うとおりにしたところで、梨々香辺りがビデオ部かなんかを引き連れて現れるのだろう。あのオカ研の奴も一枚噛んでいるのかもな。
「なぁに簡単だ。鏡に触れてくれればいい。
そんくらいならお前にも出来るだろう?」
大した人間でもないくせに、人を小馬鹿にした上から目線。こんなところまで俺と同じだ。
これを仕組んだ奴は本当に俺を知り尽くしてんな。
「ああ。いいぜ。やってやる。
こうか?」
俺は両手を伸ばして鏡に近付けた。当然だが、鏡の俺も両手を近付けてくる。
ゆっくりと両手が鏡に近付いて、鏡に触れてそれで終わり……、の筈だった……。
だが、俺の手は鏡に触れることなく、もっと奥へ進んで行く。まるで、本当に鏡の中に入っていくような感覚だ。
「よし、入れ替わり完了だ。
これからは、俺が杉本柊として生きていく。
お前はそこでボーとしていろ」
俺の声が聞こえてきた。
俺が目の前に立っていた。
それはさっきまでと同じの筈だったが、なにかが違う。
そう、俺は襟を正していたが、俺はそんな事をしていない。襟を正したのは、鏡に映っている奴だ。
奴の行動を、俺はやらされている。
声も出せず、自由に身体を動かすこともできない。
俺が自分の身に起きた事を理解できずに見つめていると、奴は軽く笑うと片手を上げて部屋から出ていった。
「待て!!」
奴がいなくなると身体は自由を取り戻し、追い掛けようとしたが何かにぶつかって前には進めない。
ならばと横に行こうとしたが、やはり見えない壁に激突した。
そこで、バカな俺は漸く理解した。
鏡に、閉じ込められてしまったのだと……。