8
あれから数日後、出社していた私あてに小包みが届いた。
差出人は紫雲だった。私は中を確かめもせずに、それを他の社員に渡して早退し、翌日、会社に辞表を提出した。
今、私は誰も知らない僻地の土地を購入して地下シェルターを造り、もぐらのような隠遁生活をしている。保存食料は三十年分は貯えた。シェルターも最上クラスで、空気と水を自己再生でき、核攻撃があっても影響を受けない代物だ。
地面に突き出した特注のアンテナでテレビやラジオ、インターネットは完璧に使える。外界の情報は常に得ておかなければならない。
これだけのものを用意できたのは、紫雲の遺産があったおかげだ。
世間では、黒紫雲の遺稿が発表されていた。例によって大好評。人々は彼が残した最後の恐怖を存分に堪能している。映画化の企画もあるという。
馬鹿な奴らめ!
そこに書かれていることがこれから本当に起こるとも知らずに!
お前達が読んでいる本は、物語ではなく作者の体験談であることも知らずに!
本物の黙示録であることも知らずに!
結局のところ、あの男は本物の黒紫雲ではなかった。ただ、安全な時代で贅沢な生活をするために黒紫雲に成りすましていたのだ。
未来の世界で、紫雲に関係する情報や作品集をメモリーして、それを現代でそのまま書き写していたのだ。売れることがわかっている本を書いているのだから成功するのは当たり前だ。
株の上下や賭け事の勝ち負けも同じようにメモリーしていたのだろう。何にメモリーしたのか。おそらくは火葬炉の前で見た、あの男の頭の部分にあった丸い機械だ。あんなものは見たこともないし、この時代に発明されているとも思えない。他の機械群も同じように、明らかにこの時代のものではなかった。
恵美子が卒倒して病院に運ばれたので、あの機械群は斎場側の判断で遺骨がわりに骨壺に納められた。その後にどうなったかは知らない。
それにしても、あの男が黒紫雲に成りすましていたのならば、では、本物の黒紫雲はどこにいるのか。あの物語を作った者はどこにいる?
奇妙な話だがどこにもいない。黒紫雲など最初から存在していなかったのだ。あの男が言っていたように、黒紫雲の物語は時間が作り出したのだ。
私は黒紫雲の遺稿は読まなかった。その気になればネットを通じても読めるが、絶対に読むつもりはない。
恐ろしくて読めないのだ。あの男がどのくらい先の未来から、どうやって時の壁を越えてきたのかはわからないが、そうせざるを得ない程の、決定的に絶望的な何かが、この世界に起こるのだ。あの男が言っていたではないか。黒紫雲の作品群には自分の経験したことが書かれていると。
私には、それが何かを知る勇気さえない。なんといっても、そこに描かれている主人公は私と恵美子なのだから。
事実を知らない者だけが、黒紫雲の遺稿を読んでも耐えることができるのだ。
恵美子は耐えられなかった。彼女も薄々あの男の正体に気付いていたのだろう。自分と、この世界がどうなってしまうのか、それを知りたいという誘惑に勝てなかったのだ。
黒紫雲の遺稿を読んだ直後、恵美子は神経を患い入院してしまった。恐らく彼女と会うことは二度とない。
私はこの先一生、このシェルターから出るつもりはない。たとえ何が起きようとも、ここにいれば絶対安全だ。
テレビやインターネットで見る限り、この世界はますます紫雲の本に近づいている。もう、間もなくなのだ。黒紫雲の世界が現実化するのは。
それにしても近頃地震が多い。震源地はこの近くであるのが気になる。
あっ、また地震だ!今度は大きいぞ!