5
あの小説というのは、紫雲がうちのホラー雑誌に長期連載している作品だ。これも破滅ものだが、主役の登場人物がサラリーマンの男と大富豪の妻で、二人は不倫をしている。この二人が世界的な災厄に遭遇してさまざまな恐怖と苦闘を経験する筋立てなのだが、これを書き始めたのが私と恵美子の関係が生まれた頃なのだ。よもやと思ったが、作品の出来はすばらしく、読者の評判も上々なので、私は口を挟めなかった。
「面と向かって非難する勇気がないから、私達を物語の中でひどい目に遭わせて欝憤を晴らしていたのよ。本当に陰険!」
恵美子は天井を睨み付けた。昇天した紫雲に毒づいているのだろう。そんな資格が彼女にあるとは思えないが。
「人気のあるシリーズだったが、彼が死んだ今となっては未完になってしまったな……」
「最後がどうなるのか、気になるでしょう?あの人が私達をどうしたかったのか」
「よしてくれ、知りたくもない。どうせバッドエンドさ。それだけのことをやっているんだから」
恵美子は再び高笑いをした。
「何びびっているのよ!あいつはもういないのよ。もう誰の目も気にしないで、好き勝手できるのよ!この世の天国だわ!」
あまりの恵美子の浮かれように、私の肝は冷えた。
「まさか、君……」
一瞬の静寂が周囲を支配する。恵美子は高笑いを中断したが 、完全に成功したとは言えず、奇妙に顔を歪ませて答えた。
「何馬鹿な想像しているのよ。健康にだけは大金をつぎこんでいたって言ったでしょう。専属の名医だっていたのよ。私がどうにかできる訳ないじゃない。あれは自然死だったのよ」
確かにそうだ。紫雲は三日前、特に用もないのに、唐突に我が社に来訪し、受付前で突然倒れた。彼を迎えようと私が出てきたその瞬間に。
まるで糸が切れた操り人形のように、唐突に床に崩れ落ちた。社員達が慌てて救急車を呼び、近くにある大学病院に運んだが、その時には既に息を引き取っていた。
医者達は頭を捻っていた。はっきりとした死因が見つからないと言っていた。結局、高齢による突然死ということで片付けられた。
「こんな風にいきなり死なれて、原因もわからないだなんて、迷惑な話よ。今みたいに私が疑われるんだから」
恵美子は吐き捨てるように言い、ハンドバッグから煙草を取りだすと、口紅で彩られた形のよい唇にくわえて火を点けた。一息で半分ほどを吸いきり、勢いよく煙を吹く。
その際に彼女の眼の端に涙が一粒浮かんだ。それを見た私は、この女は本当は紫雲のことを愛していたのではないかと思った。
煙草の煙は天井に向かってゆっくりと立ち上ぼり、薄くなり、そして消えた。この煙のように存在感の希薄だった紫雲はもうどこにもいない。私と恵美子にとって、まさしく煙のように消え失せてしまった。