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その後、紫雲の持ち込んだ小説は出版され、予想以上に読者の反響を呼んだ。私が受けた衝撃と同じものを、これを読んだ大勢の人々も感じたのだろう。
私はそのまま紫雲の担当となった。処女作を長編化した連載も決まり、あっと言う間に彼は人気作家の仲間入りを果たした。
連載作をまとめた単行本は爆発的なベストセラーになり、社会現象にまでなった。私の勤める三流出版社は、彼のおかげで短期間で見違える程大きくなった。
こうして名前が売れると、他社からも執筆の依頼が入り、彼はそれにも応じたが、相変わらず破滅ものの作品しか書かなかった。
これではマンネリ化して、世間にすぐに飽きられるのではないかと心配する同僚もいたが、彼の描く小説世界はどれも暗い魅力にあふれ、いつまでも人々を引き付けて放さなかった。
「山田さん、お茶いかがですか?」
柔らかい声で我に返った。目の前に座っている喪主の恵美子夫人が急須を持って私の顔を覗き込んでいる。
「あ、ああ。すいません。いただきます」
私が少しうろたえて返事をすると、恵美子は妖艶とも見える笑みを浮かべて茶を注いでくれた。
恵美子は元々は私の同期で、私が担当していたホラー雑誌の編集助手をやっていた。モデルの様な容姿を持った美人で、本当はファッション誌の仕事をやりたがっており、しきりに不満を私に漏らしていた。
若く美しく派手な遊びが好きで、ホラーにも興味がない彼女と紫雲の間には何の接点もなかった。実際、初めの頃、恵美子は彼を敬遠していた。
だが、紫雲が急速に売れ出していき、時代の寵児の様に扱われると、彼女の態度は一変した。彼の担当を申し出て、私と二人で組むようになると、私を差し置いて紫雲と二人きりで打ち合せをするようになった。
そして料亭やホテルでの時間を過ごす内に、恵美子は紫雲と婚約してしまったのだ。
恵美子がこの様な積極的な攻勢に出たのは、その時の彼女がカードを使った浪費のし過ぎで破産寸前だった事と、決して無関係ではなかった。
彼女の経済事情は社内では有名であり、財産目当てだということは誰の目にも明らかだった。紫雲も気付いていた筈だったが、何故かその後すんなり結婚して、恵美子は退社してしまった。
恵美子の色仕掛けに抗しきれなかったか、全てを知った上で彼女を受け入れたか。
何しろ紫雲はどれ程売れっ子になっても、枯れ木の様な、陰気で病的な風貌は変わらず、近寄る女などいなかったのだ。
彼にも男としての欲望はあり、それを持て余していたのかも知れない。あくまでも私の推測だが。
紫雲は都内の一等地に広々とした屋敷を建て、そこで紫雲と同居を始めた恵美子は贅沢三昧の生活を始めた。
「ねえ、これが終わったら、二人で何処かに行かない?」
私にだけ聞こえる小声で、恵美子が甘い声で囁いた。長い栗色の髪をアップにまとめ上げ、黒い喪服に豊満な身体を包み込んだ彼女は、たまらなく艶やかだ。私は息を呑んだが、すぐ真顔に戻った。
「人目がある。四十九日までは、おとなしくしていた方がいい」
私が囁き返すと、恵美子は不満そうに口を尖らせた。
「昨夜だって我慢したのに、二月近くも貞淑な寡婦でいろって言うの?そんなんじゃ、他の男に乗り換えちゃうわよ?」
私は慌てて辺りを見渡した。今になって気付いたが、部屋には私と恵美子しかいない。他の連中はトイレにでも行ったようだ。恵美子が大声で笑いだした。知っていて私をからかったのだ。
「ふざけるのもいい加減にしろ。社内でも俺は色々言われているんだぞ」
恵美子が紫雲と結婚して、私は紫雲の担当に戻り、紫雲の屋敷に出入りするようになった。そして半年も経たない内に、恵美子と私は付き合いだした。
誘ってきたのは恵美子だった。彼女が言うには、自分は妻としての勤めは果たそうとしたし、努力もしたが、夫の方は自らの勤めを放棄したとのことだった。
紫雲が恵美子の身体目当てで結婚したと思っていた私は、彼女の話に驚いた。恵美子のように享楽的な女が、欲求不満にならない訳がない。無論、そんなことが不倫の理由になどなる訳もないが、私の方も断らなかった。