役割
思い出2
「ちーちゃん!?」隣人の声が耳元で聞こえた気がした。
真っ赤な月なんて見なきゃよかったと思った。
暗闇の中、私は一人で立ち尽くす。
一応に見回すが自分の存在以外何も感じない。
「自分の存在を分かっている?」 頭の中に声が響く。
-分かっているよ。私は存在価値のないモノ。価値を持たぬモノ。いや、価値を持ってはならぬモノ。
「そう、それでいい。」
-わざわざ言われなくてもわかってる。
「今の行動はあまり利口とは言えないよ。私の愛しい子。」
-分かっている。捕らえられたあの日に私はもう、私ではない。存在価値のない殺人人形となる。
すべては貴方の望むままに。
「チヒロ?」
目を開けると、眩しい光が鬱陶しかった。
上体を起こそうとしたが、身体に男の体重がかかっていた。
「私・・」
視線を迷わせる私の頬を男は震える手で掴む。
「ごめん、俺があんなにしなきゃ良かったんだ。チヒロごめん。」
男は顔から手を離すと、私の手首に残る跡をさするように触れてきた。
それをやんわりどけて布団の中へ腕を隠した。
「別に・・もう大丈夫。それより私どうなってたの?」
「その窓の所に倒れてたんだよ。外だったら死んでたかもしれないよ・・」
男の指差すのは、ベランダに続く大きな窓だった。
隣人はどうしたのだろうか?私の記憶が正しければ倒れたのはベランダだ。
「仕事は?」
いろいろと確かめたいことがあった。
男には早く居なくなって欲しかった。
「心配しないで、午前半休にしたんだ。」
-嗚呼、鬱陶しい。そんな顔しても貴方には何も感じない。
「わざわざありがとう。私もう少し寝るね。」
わざと男に背を向けたのに、男は安堵したようにため息をついて私の頭をなでた。
-私にこれ以上触らないで。殺しちゃうよ
それから少しして男は心配しながらも仕事へ出かけていった。
施錠と共に私は起き上がる。
すぐに自分の衣服に驚いた。
見慣れない薄緑色の大きなニットのカーディガンに男物の靴下。
昨晩の隣人の服だ。
慌ててベランダに飛び出る。
当然いるはずもないのだけれど、ため息が漏れた。
寒空の下、閉じられた窓とカーテンが寒さを助長させた。
「さむ・・」
両手を口元に寄せて、しばらくの間隣人の香りのするニットに包まれていた。
バニラの匂いがするそれは、隣人そのものだった。
何かを期待するようにもう一度だけ隣人のベランダを覗いて、ちょっとだけ柵にもたれた。窓は閉じられたままだった。
鳥が何羽飛んで行ったのだろう。
寒さにも慣れてしまって、暮れ始めた太陽を見送るような気持ちで見ていた。
「私も、去らないといけないんだった。」
同情するように太陽に向かって呟くと、再び視線を隣人のベランダへ向ける。
1.5m。
隣人のベランダとの距離はわりと近い。
しかし、ここは5F。
移るにはきっと勇気がいる。
けれど、私が倒れた時、確実に彼はこっちへ来てくれた。
口元へ両手を寄せた後、身を包む隣人のニットをそっと脱いだ。
用意していた袋へツナ缶とそれを入れて、隣人のベランダへ向かって投げた。
ボスっと鈍い音がして、無事に着地したのを確認し、踵を返す。
しかし、足が動くのを止めた。
足元に落ちている銀色。
あの時、弧を描くように飛んできたのは銀色のZIPPO。
しゃがみこんで左手で拾うと、すぐにそれを抱きしめるように両手で包んだ。
「さよなら、おにいさん」
私はその後、すぐに鞄を持ってその部屋を開けっ放しで飛び出した。
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