隣人は月に似ている
思い出1
‘失くしたモノはしょうがない。’私はいつもそう思っていた。
世の中にはモノが溢れている。換えはいくらでも利くのだ。
今の私には物や人に固執することがみっともないことのように思える。気がつけばこの手には小さな刀と鮮やかな血の赤以外何もないのだ。
あの頃の私の日課は、隣人との会話だった。
本当は3ヶ月も居座る気のなかったその部屋で私は冬を迎えていた。
理由は単純だった。その部屋の隣に住んでいた男に私は初めて固執したのだ。
携帯を開くと21時9分だった。
自分の部屋の主も、隣人も、その日は帰宅が遅かった。
何度も携帯を見ては、時刻表示だけが変わっていく様を追っていた。
携帯を充電器につないだ所で、くぐもったガラっという音がした。条件反射のように私はベランダへ駆け込む。
明かりを漏らした隣のベランダで、隣人はビールを傍らにライターの石を弾く所だった。
窓を開ける音で私に気づいた隣人は、火のついたタバコを持った手を軽く上げた。
「おにいさん、お疲れ様です。」
私は柵へ両手を組んで、前へもたれるようにして話しかけた。
「ちーちゃん、今日も自宅警備ご苦労様だね。・・お兄さんはまだ帰っていないの?」
「うん、今日は忙しいみたい。おにいさんもいつもより遅いね。」
この時の私の名前はチヒロ。隣人はいつの間にか、私をちーちゃんと呼んでいた。
そして、部屋の主である縁もゆかりも愛着もない男の事を、隣人には兄だと言っていた。それを嘘と知っていたのか、いつも隣人は‘兄’に気をつかってくれていた。
「チーヒーロー!どこいんのー?」
当たり障りのない会話をした所で、‘兄’が帰宅したようだ。
私は返事をせずに右を向いて、姿の見えない声の主を睨んだ。
それを見てか、大きな声のせいか、隣人はクスっと笑った。
「ちーちゃん愛されてるね。おかえりを言ってあげな」
私は黙って隣人を見つめた。数秒目を合わせた所で、隣人が先に逸らした。
ふぅーっと息を吐いて、口にタバコを持ってくると、やはり反対の手でネクタイを引く。
スルりと解かれた紺色のそれが、隣人の襟元をすり抜ける瞬間に、私は踵を返した。
「またね。」
窓を閉める瞬間に入り込んだのは、香ばしいバニラの香りと優しい挨拶だった。
「チヒロ!お前そこにいたのかぁ・・携帯に連絡したのに。」
部屋へ入るのは、ほぼ同時だった。男は私を一見してから、鞄を置いて近づいた。
「寒いだろ。てか、この匂い・・タバコ?」
「タバコ臭い?結構前なんだけど・・ごめんごめん。遅かったから寂しくて、ベランダから帰ってくるのが見えるかなってね」
私は自分を嗅ぐように腕に鼻を寄せる。この部屋ではバニラの香りはしないのだ。
ジャケットも脱がないまま、男は私を抱き寄せる。
頬を掴むその手が冷たい。
同様に冷えていた唇は、私の熱を奪うようにして重なる。絡みつく舌で、男が私を求めるのが分かる。そのまま、押し倒す形でソファーに沈んだ。
男はじれったいと言わんばかりにジャケットを脱ぎ捨てて、左手でネクタイを引く。
隣人と同じはずなのに、その仕草は色気とは無縁に思えた。
解かれたそれを引き抜こうとする男の手に、私はなぜか自分の手を重ねた。
男が動きを止めた瞬間に、私は勢いよくそれを引き抜いた。
カーンという音と共にタイピンが遠くへ飛んだ。
「あ、ごめ・・」
男が反射的に上体を起こしかけた私の手を掴んだ。
私はバランスを崩して再び沈む。
「今日は積極的なの?俺、あんまり余裕ないんだけど・・」
そう言って、男は何度も私を求めた。
「吸っていい?」
散らばった服の中から男のタバコを取り出して、ソファーを占領する主に問いかける。
「・・あぁ・・」よほど満足したのか、珍しいくらい返事が曖昧だった。
私は部屋干ししてあった適当な服を着て、電気を消すと素足のままベランダへ出た。
「さむ・・」窓を閉めて、タバコを咥えた。
「・・ライター・・」
反射的に自分の服を下から辿るが、分かっていた結果に思わず舌打ちする。
「ちーちゃん、パス!」
慌てて向きを変えると、驚きよりも先に目と身体が動いた。
腹部の鈍い痛みを忘れて集中した。
月の光を映した何かがキラリと光って、弧を描くように飛んでくる。
それはまるでスローモーションのように近づいて、しっかりと私の手の中に届いた。
安堵して大きく息をする。
見ると、それは銀色のZIPPOだった。
「ナイス!意外と反射神経いいんだね」隣人はからかう様に笑った。
それを見て、私は動揺した自分を落ち着けるようにため息をついた。
「火、探してたでしょ?」
隣人の嬉しそうな笑顔につられそうになりながら、表情を消して会釈した。
蓋を開けた所で、咥えっぱなしだったタバコに目が入った。
左手で口から離すと、フィルターは前歯で潰れ、大量の涎が染込んでいた。
「もう!おにいさんのせいで1本無駄にしたじゃないですか!!」
「はは・・ごめんなー。でも、火・・舌打ちしてたし。」
私は新しいタバコを取り出して口に咥えると、ライターの石を弾いた。
一瞬だったが、目の前で飛んだ火花は線香花火のようだった。
そして大きく揺らめく炎は、私の心に似ていた。
大きく吸い込んで、ふぅーっと吐き出すと、肩の力も一緒に抜けていくような気がした。
「ZIPPOっていいね。」
キンっという独特の音を弄んで、ふと我に返る。
視線を感じて隣人を見ると、私がしていたように腕を組んでこちら側にもたれながら、笑顔を向けていた。
その安心するような優しい眼差しは私の好きな月明かりに似ていた。
それは太陽のように熱く主張する光ではなく、トーンを落としたような温かくささやかな光。
「おにいさんは・・月みたい」
「え?・・それは・・満ち欠けしてるってこと?」
「違うよ。」
「難しいな。キミは自分を何だと思うの?」
「私?人形・・かな」
隣人は考えこむように黙った。
二人の煙たい呼吸音だけが響いた後、私はタバコの火を消した。
「俺はキミを猫だと思った。」
「猫?・・気まぐれって意味?」
「違うよ。」
「スノーライオンって知っている?」
「知らない。雪猫的な・・?」
私は見当のつかない単語を考えながら、再びZIPPOの蓋を弄んだ。
ふいに何かが視界の端で赤色く光ったように感じて、視線を落とした。
角度を変えながら見れば、すぐにそれが銀に映った月だと分かった。
考えていることも吹き飛んで、私は目を見開いたまま硬直した。
見上げると、血に染まったような真っ赤な満月だった。
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