隣人
過去の出会い
私は自分の居場所を持たない。
いつからそうなっていたかは忘れた。今の私につけられた名前はアイ。自分の事で知っている事といえば、雨が嫌い。運転が好き。暑いのが嫌い。アイスが好き。太陽が嫌い。月が好き。鏡が嫌い。青が好き。写真が嫌い。それくらい。
私の嫌いな蒸し暑い夏の日、私はいつものように適当な男の元で1ヶ月半暮らしていた。
「あつ・・」必要以上に言葉を出すことすら鬱陶しいと思いながら、ベランダの日陰に避難する。私の転がり込んだその部屋は、お金がないわけではないのにクーラーが無かった。そんな現状では、窓が換気扇であり温度調節の要だった。コンビニから食べ続けているカキ氷を食べきって、じわじわ襲う頭痛に悩まされながら、陰ったタイルの上へしゃがみこんだ。
何をするでもなくただ、男のいない部屋の中をぼーっと見ていた。ふいにふわりとバニラの香りが鼻をつく。クンっと鼻へ神経を集中させるように中腰になって、どこから流れる香りなのかを探った。バニラと同時に香る焦げた匂い。
タバコだ。すぐにそう思った。隣人がタバコを吸うのは知っていた。こんな生活をしている内に、私もいつしか覚えてしまったその呪縛。身体は気まぐれにそれを求めるのだ。衝動的に身体を乗り出して、隣人の様子を伺った。
!!
私は無意識にそれを狙ったのかもしれない。当然のように、香りの主と目が合った。見つめあったまま、しばしの沈黙とラジオのような蝉の声。
「・・こん、にちは?」先に口を開いたのは、隣人だった。
暑いというのに、ネクタイを締めスーツを着ている20代半ばの男。
会釈程度に首を揺らして、逸らすことなくただ見つめていた。特質すべき特長はないけれど、なんだか安心させるような笑顔をする男だった。少なくともこの部屋の男より、モテそうだ。
「暑そう・・ですね。」
男は目を細めて小さく笑った。足元の灰皿へタバコを押し付けて、反対の手で斜めに引いてネクタイを緩める。シュルっと解けて滑る、その薄いブルーのネクタイは空の色に似ていた。男の仕草が妙に色っぽくて、覗き込んだ体勢のまま見とれてしまった。
「あんまり見られると恥ずかしいんだけど・・」そう言って視線を伏せて男は新しいタバコを咥える。
「あっ・・」ふいに言葉を発した私と再び目が合った男は、上手な間をとってからライターの石を弾いた。ふぅーっと煙を吐いて、その甘くて香ばしい匂いを届かせる。
「いい・・香り」私は届くか分からない声で呟いた。
「バニラ・・好きなの?」
「えぇ・・まぁ・・」
隣人はクスりと笑って、また安心させるような笑顔を作った。
「なんで・・タバコ変えたの?」
灰を弾くのを止めて男が再び目を合わす。表情を消しているが、男の感情は間違いなく‘驚き’だ。
「気まぐれだよ。俺はそーゆー生き方が好きだからね。」
「ふふ・・おにいさん、嘘つきでしょ?」
私は、その見た目と矛盾している発言に思わず笑った。
「どうかな・・キミよりは分かりやすいと思うけど。」
隣人は得意そうに笑って、灰を弾いた。
「キミは・・不思議だね。」
結局私は、無粋にタバコをくれと言えなくなった。
隣人は少し強めに煙を吸って、まるでため息のように煙を吐く。
その長い指先が再び灰を弾いて、甘くて苦いバニラの香るその時間は私にとって忘れられないものとなってしまった。
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