はじまり
はじまり
誰かのためならば、人は人を殺めてもいいのだろうか?
血だらけの自分を鏡で見つめながら、そんなことを思っていた。
もしも、これが私自身のためならば、余分なことを考えなかった。
私には時間が無いのだから・・
殺した男の部屋でシャワーを浴びて、何事も無かったかのように、鍵をかけて部屋を出た。
暗い裏道を抜けて大きな商店街の人ごみに紛れた。帰宅の時間と鉢合わせしたお陰で、余計なことを考えることなくその長い雑踏を早足で歩いた。ふと、横目に自分の姿が映り返り足を止めた。
致し方なかったとはいえ、男の匂いのするスウェットをだぼだぼのまま着ている。髪は濡れたまま、ただアップに留めただけだった。すっぴんだったが、先週マツエクをしておいてよかったとだけ思った。
私の心は至って冷静だ。
数分前に人ひとりの命を奪ったにしては、鳥かごから逃げた小鳥のようにまるで自由だ。
これから何をしてやろう?
私はその開放感に満たされた自分を、鏡のように綺麗なガラス越しに見て、笑顔すら浮かべていた。
少しの間、ざわつく人ごみの中で私は存在を消したかのように自らの世界に浸っていた。
ふと視点を移すと、そこには大きな一枚の絵があった。
一瞬だが、心臓がどくんと脈打つ。
その大きな絵には、女神のような姿の女性が優しく描かれていた。私は生来宗教に無縁だった。
けれど、脈打つ瞬間に風が吹き、どこかで見たことのあるような大きなステンドグラスに囲まれて、教会のような場所に立っているような気がした。
慌てて視線を上げると店の名前が目に入る。
私が立ち止まったのはどうやら骨董商だったらしい。趣のある一枚板の看板には、難しい漢字で最もらしい名前が書かれていた。
何気なくもう一度絵に視線を落とす。
しかし、そこにはただの大きな茶色いフレームがあるだけだった。
角度を変えながら見つめても、やはりそこにはフレームしかなかった。
奇妙な気持ちになりながら、再び映った自分の容姿にはっとして、逃げるように顔を伏せて立ち去った。
その夜は、適当な男の元で浴びるように酒を飲んですごした。
私は記憶さえなければ、それでよかった。
適当に選んだにしては、男は優しく、朝食といって行きずりの私のために卵とソーセージにパンを焼いた。
吸い込みの悪い換気扇を漏れた香りが狭い部屋の中に充満している。
それは決していい香りではなかった。
気だるい身体を起こして、男の脱ぎ捨ててあったジーンズのポケットに見慣れた四角い出っ張りを見つけた。
「これ吸っていい?」
男の横へタオルケットを巻いた姿のまま並んだ。男は一瞬視線を向けた後、すっと表情を消した。
「へぇ、君・・吸うんだ?」
皿へ食材を移しながら男はすでに咥えタバコをしていた。
「別に・・見えたから。」
そう言って1本咥えて、男が残してくれたコンロの火に近づけた。
それは目の前で赤黄色く着火する。
「熱くないの?」
火を残したのは自分なのに?小さな疑問も白く立ち上る煙に紛れて消えた。
噎せるような強い香りと細胞を染めるヤニに犯されるのをある種悦びながら、私はそっと目を閉じた。
そのバニラの香りのするタバコは、大好きな人の思い出に似ていた。
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