斎藤さん家の朝
はらりと。
一切れの布が前方を落下した。
日課である、早朝のランニングの帰りであった。閑静な住宅街で、そこの角を曲がれば我が家である、という位置まで来ていた。
目を向けると、日の光を受けて輝かんばかりのそれは穢れなき純白で、手に取る事をひどく躊躇われた。
――いや、この言い方ではまるで汚したくない故に手に取りたくない、などという誤解を招くであろうから、敢えて訂正させてもらおう。
落ちてきたのは白い布切れであり、またそれとは別の理由から手に取るのを躊躇われた。
うむ、これで良い。
しかし、ここでうだうだと考え込んでいると、傍から見れば白い布切れを凝視している不審者の図になりかねないので、早々に立ち去るべきだ。ランニング直後で息切れもしており、余計にだ。そして俺は何も見なかった事にしよう。
そうして布切れを迂回しようと一歩踏み出した時だった。
「コウちゃーん、それ拾ってくれるぅー?」
全くの不意打ちだった。
片足が地面に浮いた状態、呼吸において息を吐いている途中、勝ったという油断が全身の緊張を解いた瞬間。武道に於いて、攻め込むのに最も理想とされる刹那。所謂、隙というやつである。
一瞬、ほんの一瞬だが、俺はその隙を突かれてパニックに陥り、思考停止してしまった。そして立ち止まってしまったのである。
思えば、それこそ立ち止まらずに走り去れば、気付かなかったと弁明もできたしそっちの方がはるかに楽だったろうが、最早後の祭りである。ランニングの最中で息が上がり、頭が上手く働かないというのもあっただろう。悔やむばかりだ。
コウとは俺の名である。正しくは昂司。
間延びした声の方に目を遣ると、怜悧な相貌を崩した黒髪の女性がいた。名は綾目。姉である。
二階から、にやにやとした顔で見下ろしてくるのが実に腹立たしい。
どうやら、洗濯物の取り込みの最中であるらしい。夜に干せば、ワイシャツや薄いタオル、下着の類は朝には乾いてしまう。空いた場所に別の洗濯物を吊るすのであろう。ここのところ雨が続き、洗濯物が溜まっているのだと嘆いていたのを思い出す。
うむ、現実に目を向けよう。
俺の足元に落ちているそれ。ポリエステルだかシルクだかは知らんが、青白く日の光を照り返すそれは、下着である。
無論、姉のだ。どうするか。決まっている。乞われた以上、拾って、届けるしかあるまい。拾って、そこの角を曲がり、家に入るだけである。実に簡単だ。ただし、男の俺が息を切らせながら女物の下着を手に取る、という要らぬオプションが付いてくるが。
あるいは、干す前のそれであるなら、濡れている上に、くるまっていて傍目からは何か判らなかったであろうが、こいつは綺麗に乾いており、しかも体操選手もかくやと言わせんばかりの見事な着地でもってしてその全貌を露わにしている。
恐らく、遠目から見ても確信をもって何かと言えるだろう。いや、けして口に出したりはしないが。
これが家の中であれば、こんな葛藤はなかった。しかし今は屋外。いつご近所さんの目に留まるとも知れぬ。それは拾うという所作にしても、姉の下着そのものにしてもだ。
いくら本人の悪ふざけとはいっても、身内の下着を他人様に晒すのにはいささか以上に抵抗がある。ならば取るしかあるまい。取るのだ、さっさと取ってしまえ――。
……俺の性別が女であれば、あるいは姉が取りに来れば、あるいは俺がこんな道を通らなければ。
益体も無い思考が脳裏をよぎっては、もうどうしようもないのだと俺を嘲笑う。俺は男だし、リモコンを取るのでさえも人を顎で使うあの姉が、一番下着に近い場所にいる俺を使わないという選択肢は存在しないし、帰宅するためにはこの道を通らざるをえないし、何よりこれは、姉の故意による犯行だ。たとえこれを警戒していたとしても、手を変え品を変え、俺の警戒網を掻い潜ってやってくるだろうというのは疑いようもない。
――ええい、ままよ!
俺はしゃがみ込むと、目にも止まらぬ早業でもって、姉の下着をジャージのポケットに仕舞う。一通り、周囲への警戒はした。目に見える範囲で道の上には誰も居ないし、歩く音もしない。二階のベランダから覗く姉以外、上方にも人の気配はない。
万が一現場を目撃されば場合の言い訳も考えた。
顔を上げる。やはり誰もいない。姉以外の視線は感じない。俺は安堵した。
しかし、だ。
冷静になってみると、利口で隙の無い姉が自分の下着を家族以外に晒すとも考えにくい。俺以外の誰にも見られないという確信を得たからこそ、このような犯行に及んだのだろう。何の事は無い。ぐだぐだ考えずとも、素知らぬ顔で拾って、持って帰れば良かったのだ。俺の思考を含め、今回は完全に姉の手玉に取られた気がする。
俺は敗北感を忌々しく思いながらも、しかし恥ずかしがる事なく、しれっとした顔をして外に下着を落とすなよと指摘してやれば意趣返しになるだろうかと思い、家に帰った。