第1章・誕生
『先生、さようなら。 皆さん、さようなら。』
通常保育の時間も終わり、子供達は帰り支度を始め、お父さん、お母さんのお迎えを待っている。
希美もその中に混じり、一人、また一人とお母さんや、お父さんが迎えに来て、お友達が帰って行く姿を見ては「お父さん、早く来ないかなぁ」と、心の中で呟いた。
しかし、園庭のお迎え用の入り口を見ても、お友達のお父さん、お母さんは来るのに、父の真の姿はなかった。
次第に時は過ぎ、延長保育に入る4時を過ぎても真は現れなかった。
希美は保育園の教室から、何度も何度も、外を眺めてはタメ息をついた。
『はぁ~ぁ、お父さん遅いなぁ。』
新緑の美しい5月、GWも開け、この時間でも、寒さを感じない日々になった、午後4時半。
希美は、同じ延長保育の子供達とは少し離れて、窓際でソワソワしている。
『希美ちゃん、お父さんね、もう少しで迎えに来るって、さっきお電話あったから、もう少し頑張って待ってよ?!』
希美の担任の中居は、希美の目線に合わせるように、両膝を少し床から離した位置で曲げ、優しく希美に微笑みかけた。
この時間、いつもならお父さんは仕事で、希美を迎えに来る時間には、まだ早い。
しかし、今日は「特別な日」
朝から希美は、お父さんが早めに迎えに来る事を告げらていたので、余計に逸る気持ちを抑えられないでいる。
『先生、今日はね、希美に弟か、妹が出来るんだよ。』
先生は、朝から何度も聞いているセリフだったが、また微笑みを浮かべる。
『ホントに~? 希美ちゃん、良いなぁ~、今日からお姉さんだね?!』
『うん、私は今日から、お姉さんなの。』
満面の笑顔で、切り返す希美。
『じゃあ、希美お姉ちゃん! もう少しで、お父さん来ると思うから、みんなと一緒にテレビ観て待ってよ?』
中居が立ち上がり、希美の背中に手を添えて、他の子供達の方へ、連れて行こうとした時だった。
『あっ、お父さんだぁ。』
その声と同時に、希美は教室の戸を開けて廊下に飛び出した。そのままの勢いで、廊下の戸も開けて飛び出すと『お父さ~ん。』と叫びながら、ちょうどたどり着いた父に駆け寄った。
真は、膝を曲げ、駆け寄って来た希美を両腕で抱き上げ『希美、お待たせ。 ごめんなぁ、遅くなって。』と囁き、希美を追って、廊下の出入口まで来ていた、担任の中居にも会釈をした。
『先生、すみません。 遅くなりました。』
中居は、真に抱かれている希美と、真を交互に見ながら、笑顔で返事を返す。
『いえいえ、良いんですよ。 それより、楽しみですね? お子さん。 希美ちゃんは、朝から嬉しそうに、何度も私や、他の先生、お友達に話をしていたんですよ。』
『えへへへ。』と照れる希美を見てから、真は中居に視線を戻して言った。
『はい。 いや、先ほど、生まれました。 男の子です。 本当はもう少し、早く生まれる予定でしたが、出てくるのが恥ずかしかったのか、予定より時間がかかってしまいました。 すみません。』
『まぁ、本当ですか? それはおめでとうございます。』
『あ、ありがとうございます。』
『ホントに~?! 生まれたの?』と希美は、照れくさそうに話す真の顔を覗いた。
『うん、生まれたよ。 希美に弟が出来たんだよ。』
『うわぁ、やったぁ。 希美に弟が出来た~。』
その声に、真はおもわず顔をのけ反らす。
『希美、ごめん、耳元でそんなに大きな声を出さないで。』
『あ、ごめんね、お父さん。 でもね、希美ね、嬉しいから。 ねぇ、おとうさん、早く会いに行こう。』
『あっ、そうだね。 お母さんも待ってるから、行こう。 じゃあ、先生に「さようなら」して。』
『うん。 先生、さようなら。』希美は中居に手を振り、真も会釈をする。
『はい、希美ちゃん、さようなら。 また明日ね。』中居も手を振りながら、応えた。
真と希美は病院に着くと、直ぐにエレベーターに乗り「3」のボタンを押した。
ゆっくりとエレベーターの扉が閉まり、上昇しはじめると、希美は真の顔を下から見上げ、嬉しそうに微笑んだ。
真も微笑みを返す。
『お父さん、もうすぐだね?』
去年の11月の半ばを過ぎた頃、希美は、真と、母の佳苗に「来年、希美に弟か、妹が出来るよ。」と言われ、それから、今日までの間、保育園の先生や、お友達、おじいちゃん、おばあちゃん、近所の人など、大勢の人達に、兄弟が出来る事を言って周り、真と佳苗が恥ずかしくなる程だった。
『うん、もうすぐだね。 あっ、そうだ希美。 エレベーターを降りても、静かにしないと、赤ちゃんがビックしちゃうからね。 大きな声を出しちゃダメだよ。』
真は人差し指を顔の前に立て、希美に応えた。
そして顔を上げ、エレベーターの変化する数字に目をやると、ふと、希美が生まれた時の事を思い出した。
約4年半前に生まれた希美は、予定より少しだけ早く生まれ、体重は約2,800gだった。 佳苗の母にも「小さく産んで大きく育てろ」と言われ、さほど心配はないと安心した数日後、血の混じった乳を吐き、便も血の混じった、黒いのが出て、佳苗や真を含めた周囲の大人達を心配させた。
原因は、新生児メレナ (ビタミンK欠乏による消化管出血という事だった。
新生児はビタミンKの蓄積量が少ない為に起こる病気だが、注射でのビタミンKの投与で済むという事で、希美もビタミンKの投与で、症状も順調に回復し、その後は大きな病気やケガもなく育った。
つい最近は、生まれてくる兄弟を意識して、佳苗のお腹に向かって「お~い、赤ちゃ~ん、聞こえる? お姉ちゃんだよ~。」などと声をかけたり、今までは苦手というか、甘えて逃げていたオモチャの片づけを積極的にやるようになった。
真はそんな事を考えていると目頭に熱いものを感じ、両目を右手で揉んで顔を隠した。
すると下の方から声がして、『お父さんどうしたの? 着いたよ、早く行こうよ~。』と希美に急かされた。
慌てて目の前を見ると、エレベーターのドアは既に開いていて、希美が真のズボンをつまみ揺すっている。真は、また、閉ろうとするドアを、慌てて「開」のボタンを押して開いた。
廊下に出ると、ナースステーションの前を過ぎ、一番奥の左側の部屋が、佳苗の病室になっている。
真が病室のドアをスライドさせ開けると、希美は『お母さ~ん』と声に出して駆け寄る。
佳苗はベッドから手を伸ばして『あ、希美、いらっしゃ~い。』と希美の頭を撫でると『希美、おいで。』と佳苗の左側にいる希美を、ベッドの右側に誘った。
『希美、ほら。』と真は、希美の背中に手を添え
、希美をベッドの反対側へ連れて行く。
希美は佳苗に抱かれている、赤ちゃんの顔を覗きこんだ。
『ほ~ら、希美の弟の夢野中だよ~。 さっきね、おっぱいを初めて飲んで、おネンネしちゃったんだけどね。』と佳苗は希美に、にこやかに語りかける。
『わぁ、赤ちゃん。 小っちゃいねぇ。 あ・た・る? 』希美は赤ちゃんの顔を見ながら、佳苗に応える。
『そうだよ、あたる。 ゆめのあたる。』真が希美と同じように、赤ちゃんの顔を覗きこんだ。
『希美は「ゆめののぞみ」、お母さんが「ゆめのかなえ」、お父さんが「ゆめのまこと」で、この赤ちゃんが、希美の弟の「ゆめのあたる」だよ。』
『ふ~ん、中かぁ。 中、お姉ちゃんだよ。
早くお家に帰って、いっぱい遊ばうね。』
佳苗は、声色を変え言う『希美お姉ちゃん、中をよろしくね、仲良くしてね。』