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うなずき女

作者: 水門うなぎ

 今日も彼女は最前列で私の授業を聴いている。教卓前の一席ぶん廊下寄り、私の心臓に一番近い場所だ。

 私より十は年上に見える。四十半ばだろう。文学部では中年の学生もそう珍しくはないが、やはり教室では浮いた存在だ。

 スウェットシャツにジーンズというラフな格好で髪は束ねている。これを若作りと言ってしまうのは酷だろうが、同じような格好をした若い学生達を背景にすると、苦笑を誘う何かが有るのは否めない。

 服のセレクトの微妙な違いだろうか。きっと若い学生達から見れば一目瞭然なのだろう。私はそれをはっきりと見極めるまではしない。

 彼女は特に熱心な生徒だ。何か問題があるだろうか。

 また頷いている。その瞳は爛爛と輝き、私の顔面をダイレクトに映し続けている。

 授業開始から四十分が過ぎた。九十分で一コマなので、この辺でいつも十分程の休憩を入れることにしている。本題を一旦切り上げて軽く聞き流せるような雑談をするのだ。これは学生の集中力を保つ為でもあるし、私のモチベーションを保つ為でもある。

 意識して表情を緩ませ、私は窓外に視線を逃がした。

 景色は地方キャンパスらしく粗野で雄大だ。

 すぐ隣地に建つ高圧線用の鉄塔は恐ろしい程に巨大で、二階のここからだと一部分しか見えない。電線を辿って次の同形鉄塔からようやく全身の形状が分かる。

 子供が描いたムカデの怪獣が電気で痺れてピンと立ち上がった、といった風情だ。それが、見晴るかす田園の中を奥行き一杯までドミノのように立ち並んでゆく。

 学食のメニューについての愚痴などぼやき狙ったように学生達の失笑をかいながら、私の視点は怪獣を一匹づつ辿って霞み始める山裾まで行き、また辿って戻ってくる。一番大きい怪獣に戻ってきた時、視界の端で何かが動いた。教室の中だ。

 彼女が、頷いている。

 私の他愛ない雑談のセンテンスに、いちいち頷きを入れている。その呼吸は授業本題の時と何ら変わりがない。まるで私の雑談がテストに出るとでもいうかのように、表情も真剣だ。

 何だか悪いような気がして私は雑談を切りやめた。いつもの半分もない「休憩時間」だった。

 若い学生達は一呼吸分の失望を味わって、自由な脳細胞を一粒づつ失ったはずだ。こうして小さな理不尽を繰り返し舐めて、彼等の脳は大人の物へとシェイプされてゆくのだろう。

 一方、シェイクし続ける大人が目の前にいる。彼女の頷きは、単なる相槌ではない強い意思力を感じさせるものだ。一つ一つが深い理解・発見・同意等をあからさまに表現している。「うん。うん。なるほど。あ、なるほどねえー。そっか。はいはい。なるほどー。」見ているだけで、そんな呟きが聞こえてくるようだ。

「…………ウン、ウン」

 いや、実際に聞こえだしたぞ。


 彼女の頷き声の音量は少しづつ強まっていった。

 普段、静かな状態でも授業中の空気には、さわさわとした、形にならない音声の断片が溶け出しているものだ。誰が喋っているのか特定は出来ない。おそらく教室内の全員それぞれが瞬間ごとに吐き出す吐息のようなものだろう。

 それは個々の反応として捕らえるべきではない。「波」だ。

 講師である私は海面を進むボートのようなもので、話のスピードや進行方向を変えれば「波」は反応して小さな変化を起こす。

 また、学生達はこの「波」の中に自我を収める要領を体得している。二十年ほども続けてきた「熟練の現役学生」なら当然の技術だ。

 ときには隣の席の者と雑談をしたり、態度の悪い者の中には、ひっそりと携帯で会話する者さえいる。だが彼等とて、この「波」に潜む技を持っていないわけではない。敢えて海面に飛び出す行為は、実は意識的な甘えの産物である。勿論そういう者は注意する。

「そこ、私語をやめなさい」

 茶髪の男子学生はそそくさと携帯をしまい、波は凪いだ。

 そして彼女は、この類ではなかった。にもかかわらず「波」から頭を出し始めている。中年女性の声に含まれる低音の響きは、まろやかだが確実に存在を主張する。

 喩えるなら、海面すれすれを泳ぎ続け時折その丈夫そうな茶色い表皮を日光に晒すエイのようだ。

 私の視界の底で彼女の頭がまた大きく揺れている。目を向ければ、きっと合わせてくるだろう。

 過剰な頷き、或いは相槌。これは何かと判断しろと言われたら「優等生的態度」だ。こういう態度はやはり、教える者にとっては嬉しい。嬉しいのだが……。

 私は思わず窓外に目を向けた。

 相変わらず長閑な田園風景だ。緑の田園とギラつく鉄塔がこんなにもシンクロして見えるのは、おかしな事だろうか。宇宙人の目から見れば、この辺りの地表は不自然な造形だろうか。

 私は論理の人間だ。それは田園が鉄塔を、鉄塔が田園を、機能的に需要しているからだと考える。

 現代農業に電力は必要だし、大型鉄塔の存在を許しているのは維持する人間の存在だ。

 起源を異にする二つの文明を同時に需要する生活を送る人間たる私の目が、この風景内の需要と供給の構図を感覚的なレベルにまで「受容」しているのだ。シンクロとはそういうものだ。

 「教授」と「優等生」の間にも需要と供給の関係が有り、私にとって感覚的にも美しいシンクロを生み出してしかるべきである。

 例えば教授は相槌をもらうことによって話し易くなり、相槌をうつ優等生はスムーズに求める知識を得られるはずだ。

 だが何だろう、私は彼女の頷きに、受容しきれないものを感じている。

 ……正直に言おう。気に障るのだ。


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