三
「えらい静子はん、元気ないがな」
朝の常連客が声を潜めて厳ちゃんに囁く。新聞を読んでいた厳ちゃんは窓際の席に座ってぼ~っと外を眺めている静子を見た。
「なんや、ぼ~っとしてるがな。大丈夫か? 風邪でもひいたんか? それとも、ついに、ボケてきたんか? 何言うても全然反応ないで……。そや、昨日は休みやったし」
常連客は心配そうにちらちらと静子を見る。いつもは静子に「梅干しメイドさん」やら「ドライフラワー」やら、ケチョンケチョンに言う男で、静子と歳の差漫才を繰り広げるのが楽しみなのだが、今日は何を言っても「さよか」とあっけなくスルーされる事が続いていた。
「うちの婆さんのボケ始めも、なんやしらんけど、一日ぼ~っとして、どこ見てんのかわからん目して テレビ見とったで……。静子はんも……か?」
「昨日の休みはアレや。週一のいきいきサロンってやっちゃ。元気やで、多分。体調も悪いって事はないやろ……とは思うけど」
厳ちゃんはごにょごにょとお茶を濁す。昨日のいきいきサロンでも別人のように大人しかったようだ。静子が同居している息子、厳ちゃんの甥が、わざわざ夜遅くに厳ちゃんに電話をかけてきた。施設からの連絡帳には「少しお疲れだったのでしょうか。カラオケもリハビリもされず、お一人で過ごしておられました」と書いてあったらしい。食欲もあまりないようだと随分心配している様子だった。
「オカンも歳やからなぁ……。なんか変わった事あったら、おっちゃん、言うてや」
静子の息子も心配しているようだった。厳ちゃんは、一応気をつけて様子を見ておくと答えておいた。
静子の消沈の理由はわかっている。時々ポケットから小さい紙きれを出しては眺めているのを厳ちゃんは気がついていた。渡辺修一郎の住所を書いた紙だ。連絡を取るか取るまいか、悩んでいるのだろう。
午後になって笑子が店に入ってきた時、静子は笑子を店の隅っこの席に呼びつけた。
「あんた、渡辺修一郎さんて覚えてるか?」
笑子はきょとんとした後、目をしばしばさせた。
「渡辺、誰やて?」
「修一郎さんや。ほら、中居の下宿屋の二階におった、どっかの経理事務所におる言うてはった、うちらよりもちょっと年上の」
「中居の下宿屋……えらいまた古い話やな。さて、渡辺さん」
「背ぇの高い、しゅうとした……」
「……渡辺さん。……はいはい。わかったわかった!」
笑子が膝を叩いて叫ぶ。
「あんたが好っきゃ言うとった、渡辺さんかいな!」
「でかい声で言いなはんな!」
静子は慌てて笑子の腕をばしばしと叩く。そしてカウンターの中で接客している厳ちゃんと明恵を見た。幸い二人とも客との会話に気が入っているのか、振り向きもしない。
「えらい懐かしい人の名前を……」
「せやがな。うちかてそんなんすっかり忘れとったんやけどな」
静子はポケットから例の紙を出した。
「こないだ、渡辺さんの孫さん言う子が訪ねてきはってな。こないだのうちらの出たテレビ、見たんやて」
「ひゃあ、えらいまた酔狂な」
「せや。なんでも渡辺さんからここの話をよう聞いてたて」
「渡辺さんて、出征しはったんやな? 生きてはったんか?」
「せやがな! 帰ってきた言う噂はいっこも聞かんかったやろ。うちもてっきり戦死しやはったんやと思とったわ……」
「生きてはったんかいな」
「せや」
二人はほうっと大きな溜息をついた。
「……なんや、不思議なモンやな」
しばらく二人は黙りこむ。静子は手元の紙を指先でいじり、笑子は自分の指の爪を親指で弾く。長い長い時間がまるで川の流れのように、自分達の周りを一気に渦を巻いて流れ、そして去っていったような気がした。
「今まで思いだす事もなかったけど、こうやって久しぶりに名前を聞いたら、昨日の事みたいに思いだすわ」
静子がぼそっと呟く。
「渡辺さんに赤紙が来たんや……言うて、二人でえらい泣いたわ」
「泣いたんはアンタやがな。うちはもらい泣きや」
笑子がしみじみと突っ込む。
静子は自分の手の甲を眺めた。あの頃はつきたての餅みたいにぱーんとした肌が、今では熟した柿みたいになっている。歳はホンマに取りたない……。こんなになるまで生きるとは、思いもよらなかった。
笑子が小さく笑う。
「何年前の話やな……古すぎてわからんわ」
二人で顔を見合わせる。
「おとろしな、ほんま」
うんうんと納得しあう。
少し気を取り直した静子は、
「ほんでな、その子が渡辺さんの住所、置いていったんや」
と、言いながら手元の紙を笑子に渡した。笑子は眉間にしわを寄せながら、紙を受け取り、近づけたり遠ざけたりしながら目を走らせた。
「……横浜? シルバーライフ……ひまわり?」
「老人ホームやて」
「横浜か……えらい遠いがな」
「せや」
笑子から紙を返してもらいながら静子はまた溜息をつく。
「ほんで、どないするん。会いに行くんかいな」
「遠いやろ、いくらなんでも。せいぜい手紙や。せやけど、今さら手紙書いて言われても、何書くねんな」
「せやなあ」
笑子も溜息をついた。
八十を超えた年寄りには何をするのも億劫だ。大阪と横浜という距離は二人にとっては海外並みだし、なによりも七十年という歳月はそれよりさらに遠い隔たりを作っていた。
静子の憂鬱は笑子にもすぐ感染する。二人のメイドはすっかりしょぼくれて、店の隅でぼ~っと外を眺め、そして時々溜息をつくという状態になってしまった。開店休業である。
「あれは要するに、恋わずらいやな」
厳ちゃんが流しに向かっている明恵にぼやく。
「八十超えたばあさんの恋わずらいか……。なんや気持ち悪いで、なあ?」
「そんなん言うたらあきません」
珍しく明恵がきっぱりとした口調で静子をかばう。
「八十超えたかて、女は女や。うちにはわかるような気がしますわ」
「そうか? 俺にはさっぱりわからんわ」
厳ちゃんは肩をすくめてカウンターに戻る。
明恵は不服そうに口をとがらせながら皿についた泡を水で洗いながした。
夕方になりそろそろ店じまいという時間になった。厳ちゃんが表の看板をしまいに外に出る。
笑子と交代の時間が過ぎてもなんとなく帰る気がしなかった静子はずっと店に出ていたが、結局あんまり働かなかった。窓際の置き物みたいに向かい合って、ぼんやりして過ごす時間の方が長かったような気がする。
笑子の方が先に帰り、残された静子はしばらくぼんやりと窓際に座っていたが、やがて、はあああっと長い溜息をつくと重い腰を上げた。
「ぼちぼち帰るわ……」
よたよたと戸口に向かおうとすると、
「お姉さん」
ぶっきらぼうに明恵が声をかけた。
静子は立ち止まるとカウンターの中の明恵を見た。
「コーヒー残ってるから、飲んで帰って」
明恵はカップにコーヒーを注ぐと、カウンターに置いた。
「さよか? ほんなら頂いて帰るわ」
静子はカウンターの椅子に腰を下ろした。
「お姉さん、連絡取りはったらよろしいやん」
唐突に明恵が切り出す。
「なんや、急に」
「渡辺さんのこと、迷てはるんやろ? お姉さんらしないわ」
ぽっちゃりした顔の中の小さな目が真剣に静子を見ている。静子はまじまじと明恵を見かえした。
「どないしたんや、一体」
「お姉さん、こんなん言うたらなんですけど……、歳やねんから、後はありませんで」
「……えらいはっきり言うやないの」
静子は明恵から目をそらし、コーヒーを見た。
「珍しくおせっかいやないか……。明日雨降るで」
皿の上のティースプーンをコーヒーの中に突っ込み、くるくると回す。コーヒーの上に立ち上っている薄い白い湯気がふわりと消えた。
「今さら連絡とってどないするん。こんな梅干し婆さんから連絡もうても、あっちもびっくりしはるやろ。……書くのもなあ、字、下手になってしもうたし、恥ずかしわ」
「何言うてますのん。書くのもボケ防止のリハビリになりますねんで」
静子はがははっと笑った。
「まさかあんたにそんなん言われるとは思てもなかったわ」
明恵は自分の分のコーヒーを入れた。
「連絡、取った方がエエんやろか……」
「そらそうですやろ」
「なんでや」
「そら……」
明恵はちょっと考え込む。
「お姉さん、このまま死んだら、きっと成仏でけしませんで」
「なんやねん、それ」
「若い頃の好きや~っちゅう想いは、歳とっても枯れませんねん。ずーっと後引きますねん。この世に未練残して化けてでてこられたら、かなわんし」
「……」
きょとんとしている静子を見て、明恵は唇を尖らせる。
「なんや、忘れましたんか? うちらが結婚反対されてる時、お姉さんがうちの親にそう言いはりましてんで」
静子はあっけにとられて明恵を見た。コーヒーを飲んでいる明恵の小さな目が笑っている。
「そやったかいな。一体、何年前の話や。ようそんな事覚えてるわ。うちはすっかり忘れたわ」
そう言えば、明恵と厳ちゃんは大恋愛の末の結婚だった。厳ちゃんは店を継ぐ事になっていたし、明恵は一人娘だったし、特に明恵の親は大反対だった。店を取るか、明恵を取るか、いっそ駆け落ちするかと、悩みまくっていた厳ちゃんを見かねて静子が両家の間に入ったのだ。明恵の親を説得するのには随分かかったが、ついに静子の押しと粘りに根負けした明恵の両親はついに二人の結婚を許した。
本当のところを言えば、静子は二人がちょっとうらやましかったのだ。夫とは見合い結婚だった。あの時代は恋愛して結婚するなんて話は他人事でしかなかったのだ。
夫と結婚した事を後悔しているのではない。夫はまじめでよく働く人だった。息子も出来たし、ちゃんと家庭をはぐくんだ。夫の事は信頼していたし、尊敬もしていた。
でもそこに熱いモノがあったかと聞かれたら、それはきっぱりない! と言える。情はあったが、熱はなかった。当時は皆そんなものだと思っていたのだ。橋の上で偶然出会ってドラマチックなすれ違いを繰り返すような、胸がときめく恋物語は映画やラジオの世界だけだった。そんな空想の世界を実生活に持ち込んでしまう二人を、ちょっとうらやましいと思っても不思議ではない。幾つになっても女は女だ。
そんな長い人生をあらためて思い返してみて、もし心がときめくような想いがあるとするならば、それも強いて言うならば、それは大福を買いに来る渡辺の姿を見た時だけだった……かもしれない。
とは言え、あまりにも古すぎる記憶だった。総天然色の記憶も今ではすっかり色が抜けてセピア色、いや、それどころか、輪郭がぼやけてしまっているくらいだ。
「せやけどな……。あんた、今でも厳ちゃんの事、好きか?」
奇襲攻撃のような質問に明恵はぶっとコーヒーを吹き出しかけた。口の端からこぼれたコーヒーを慌てて布巾で拭く。
「汚いなあ、もう」
静子はあきれて明恵を見た。
「仮にうちが渡辺さんのことを好きやったとしても、や。何年経ってると思てますんや。熱い想いもちべと~なってるわ。人の事やから言えるんやで。自分が今も昔みたいに厳ちゃん好きかどうか、よう考えてみ」
静子はコーヒーを口に運ぶ。アメリカンなのにいつもより苦いような気がするのは何故だろう。
明恵はちょっと照れた表情を浮かべた。そして、ぶっきらぼうに、でも少し恥ずかしそうに小声で言った。
「今でも好きでっせ。ラブラブですわ」
今度は静子が吹き出す番だった。えらいカウンター攻撃だ。慌てて布巾でカウンターを拭きながら、静子は苦笑いした。
「負けるわ、ほんまに」
その夜、静子はなかなか寝付けなかった。いつもなら布団にもぐりこんだらすぐにがーがーイビキをかきながら眠ってしまうのだが、今日はどうにも目が冴えて寝られない。
天井からぶら下がる電灯のオレンジ色の豆球を見上げながら、とりとめなく色々なことを考えた。
女学校を卒業してから、ずっと家の手伝いをしていた。厳ちゃんがまだよちよち歩きの子供だったので、彼の守りと饅頭屋の店番が自分の仕事だった。陽気に愛想を振りまいていたので、自分で言うのもなんだが近所でも評判の看板娘だった。その頃から見合いの話はあったらしいが、店が忙しかったので父も母もまだ嫁に出す気にはならなかったらしい。勿論静子もまだそんな気はなかった。
店番をしていて、気になるお客さんがいた。そのお客さんが渡辺さんだ。彼がやってくるのはいつも店を閉める少し前だった。背がすらりと高くて、優しそうな渡辺さん。いつも大福を一つだけ買って帰る渡辺さん。甘党ですか? と聞いたら、恥ずかしそうに頷いた渡辺さん。細面で、鼻の線が綺麗だった渡辺さん。いつの頃からか、渡辺さんがやってくるのを心待ちにしていたものだ。
戦争の旗色が悪くなってくるにつれ、砂糖や米がなかなか手に入らなくなってきた。少しずつ店先に並ぶ商品が減って、客足も遠のいた。それでも渡辺さんは毎日のようにやってきては、何かしら甘い物を一つだけ買って帰った。
渡辺さんが最後にお店にやってきた時、偶然大福が一つだけ残っていた。静子はそれをそっと紙に包んで手渡した。
「やあ、文字通り、残り福だ。幸先がいいなぁ」
渡辺さんは嬉しそうに笑った。その笑顔を見て少し胸が痛む。以前に比べると店の大福は半分くらいの大きさだったし、味も落ちていた。仕方がない事とは言え、申し訳ない。
静子は頬を赤らめながら、静子は渡辺さんに謝った。そんな静子を渡辺さんはじっと見つめた。そして、改まった口調で言った。
「戦地へ行ってきます」
「……そうですか。それは……おめでとうございます。武運長久をお祈りしています」
静子は深々と頭を下げた。膝の上に置いた手を固く握りしめながら……。
なにがめでたいものか……。今にして思えばなんて莫迦莫迦しい話だろうと思うが、あの時代はそれが当たり前だったのだ。
渡辺さんの背中を見送りながら、静子は手を振り続けた。渡辺さんがまた大福を買いに来てくれることを祈りながら。次に来てくれた時にはきっと大きな大福をあげよう。餡子がいっぱい詰まった、ぱんぱんの大福を……。
それからは他人ごとではない生活が待っていた。店の職人もほとんどが出征してしまった。大阪も空襲で焼けた。
戦争が終わっても生活は大変だった。父はどこからか材料を仕入れて来て、店とは別に闇市で饅頭を売っていた。綱渡りや、と言いながら必死で毎日を生き抜いた。
少しずつ生活が落ち着き始めた頃には二十歳をいくつか越えていた。結婚したのは二十四歳の時だ。町内の世話役さんが紹介してくれた七つ年上の公務員と結婚することになった。
夫は大人しくて、無口で、真面目で、面白味はなかったけれど、毎日ちゃんと働いて、時計のようにきっちりと帰宅してくる人だった。三人の子供に恵まれて、これまた追いかけまわされるような生活が続いた。
今では子供達もみんな大人になって、それぞれ家庭を築いている。夫が亡くなってからは長男の武男一家と住んでいるが、まずまず平和に毎日過ごしている。
嫁の文子はおおらかでさっぱりした人で、この元気過ぎる姑をかまい過ぎることも邪険にすることもなく、うまい具合に“野放し”にしてくれている。嫁に来た当初、文子は幼稚園の先生だった。子供が小さい頃は文子も働きに出ていたので、孫の面倒を静子がみていた。そのお陰か、静子へは大いに感謝の気持ちがあるようだ。孫も皆、なんやかんや言いながらも静子の事をかまってくれる。末っ子の茜は絵に描いたようなおばあちゃんっ子だ。
ありがたい事にまずまず幸せに生きてきた。勿論、苦労がなかったという訳ではないが、時代が時代だから、皆がそれなりに苦労を味わっている。だから自分の苦労が自慢出来るほど人並み外れているとも思えなかったし、なにより苦労自慢するのは嫌いだ。それに気がつけばなんとか乗り切っていた。苦労を嘆くよりも、目の前の新しい事への好奇心の方が強いという性格もあるだろう。茜などは「ばあちゃんは止まったら死ぬ」などとからかう。人をマグロみたいに言うな……とも思うが、多分事実だ。こういう性格に恵まれた事もありがたい。人生充分に楽しんでいる。悔いはない。
そう思えるからか、あまり昔を思い出したり、こだわったりする事もなかった。まして、若い頃の淡い想いなんて……。あったことすら忘れていた。
今の今までは。
不思議なものである。七十年近い年月が経っても、思い出そうと思えば思い出せるものだ。そして考え始めると、妙に心の奥底がしゅわしゅわと泡立つのだ。まるでビー玉を落とした後のラムネのように。
静子は布団の中で長い大きな息を吐く。胸の中に炭酸がたまっているような気分だった。
明恵の言うとおりかもしれない。若い時の想いというのはしぶとく心の奥底にへっぱりついているらしい。このまま死んだら成仏でけへんで、という明恵の言葉がお寺の鐘のように頭の中で鳴り響いた。
<続く>




