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「……どなた?」

 静子は眉根に皺を寄せて、胡散臭そうにじろじろと青年を見る。

「僕、渡辺と言います。覚えていらっしゃいますでしょうか、渡辺修一郎の孫です」

「わたなべ……しゅういちろう……さん?」

 静子の動きが固まったように止まり、う~んと唸りながら難しい顔をする。

「あの、七十年ほど前ですけど、近くの下宿屋に住んでいた……」

 静子はう~んと唸り続けている。

「七福堂さんの常連で、いっつも仕事帰りに大福買って帰っていた……」

「……渡辺……修一郎さん? 渡辺さん……って、あの、背の高い、なんやどっかの会社の経理の仕事してはって……、あの、渡辺さん?」

「はい! 多分!」

「渡辺さん! あ~、はいはいはいはいはいはい!」

 静子はいきなり素っ頓狂な声を張り上げた。

「思い出しましたわ! 渡辺さん。せやせや、うちの常連さんで、男の人やのにお酒がさっぱりあかん言うて、毎日大福買うて! いやあ、あんた、渡辺さんのお孫さん? いやあ、ほんまに? いやあ、まあ、それは……」

 思わず目の前の渡辺青年の腕をばしばしとひっぱたく。

「そう言われれば、あんさん、渡辺さんによう似てはるわ!」

「おじいちゃん似だとよく言われます」

「いやあ、ほんまに、よう訪ねてくれはりましたなぁ……」

 静子は目をしょぼしょぼさせながら、眩しそうに渡辺青年を見上げた。

「まあ、とにかく座ったら」

 厳ちゃんはテーブルの椅子を一つ引きずって、静子に勧めた。静子はよっこらしょっと腰をかけると、

「厳ちゃん、コーヒー入れてぇな。渡辺さんにも」

「いや、僕はもう頂きましたんで」

「そんなん言わんと、まあ、もう一杯。うちがおごりまっさかい」

 厳ちゃんは苦笑いしながらカウンターに戻る。

 静子は改めて渡辺を見た。

「ほんまに、えらいよう来てくれはりましたなぁ。お孫さんがおるっちゅうことは、渡辺さんはお元気やったんですなぁ。出征して、北支ほくしに行かはったちゅう話は聞いてたんですけど。ご無事で帰ってきてはったんですなぁ……」

 いつになくしみじみとした口調である。

「はい。満州で終戦を迎えて、その後はシベリアに抑留されてたそうです。帰ってきたのは戦争が終わって五年後だったと聞いてます」

「そうだっか。そうだっか。えらい御苦労されたんですなぁ……」

 静子は何度も頷くと、節くれだった指で目頭を押さえる。

「そうだっか……ご無事で帰ってきてはったんですなぁ。こんな立派な孫さんまでいてはったとは……。良かったですわ。今はどちらに?」

「横浜です」

「そうだっか、横浜ですか。えらい遠いとこや……大阪に帰って来てくれはったら良かったのに……」

「祖父もよく言ってます。大阪は良かった。楽しかったって」

「そうだっか、楽しかったって」

 静子は涙ぐみながら何度も何度も頷いている。

 厳ちゃんはふと目の前の静子と、七十年近く前の若かったころの静子の残像とが重なったように見えた。そう言えば、静子にだって娘時代はあったのだ。自分とは歳が離れているから、静子はいつも大人であり、最近はただのけたたましい、無駄に元気なばあさんだが、静子にも若くて瑞々しかった時代が確かにあったのだ。

「渡辺さんは……どないしてはるんでっか? まだ……?」

 生きてはるんでっか、と言いたかったが途中で言葉を飲み込む。

「はい。でもさすがに歳が歳ですから。十年程前に脳梗塞もしてまして、身体の動きも悪いし。それに最近は物忘れもひどくなってきていて……少し認知症も出てきたかなって。……九十ですからね。自然と言えば自然ですけど」

 静子は小さく首を横に振った。あんまり続きは聞きたくない。静子の記憶の中にある渡辺修一郎の姿とはとても一致しないのだ。

「歳を取るっちゅうのはそういう事やとはわかってますねんけどな」

 そう言いながら苦笑いするしかない。自分だって七十年前の姿からは想像もできないような老いさらばえた姿なのだから……。

「大阪の話をする時、いつも静子さんの話が出てたんですよ。近くの饅頭屋の看板娘の話が」

「ほんまに?」

「はい。静子さん目当てで大福を毎日買いに行ったって、楽しそうに笑うんです」

「そうだっか……」

「……不思議ですよ。大阪の時代の記憶はすごく鮮明みたいで。最近の事はすぐ忘れるけど、昔の記憶は残るって本当なんですね」

「そうだっか……」

 静子はポケットからくしゃくしゃのティッシュペーパーを取りだすと、鼻を拭いた。

「たまたま僕が大阪に出張に来てて、こないだのテレビを見たんです。一目でわかりました。ああ、この人がおじいちゃんの青春の象徴なんだって」

「……東京の若いもんは気障な事、平気で言いまんな」

 静子は泣きべそをかきながら笑いだす。

「ようそんなこそばい事、言いはるわ」

 渡辺青年はつられて笑いながら鞄の中から一枚の紙を取りだした。

「これ、祖父の連絡先です。もしもおいやでなかったら、手紙の一枚でも祖父のために書いていただけたら……。とても喜ぶと思います」

 静子は差し出された紙をおそるおそる受け取った。

「……シルバーライフ ひだまり……」

「老人ホームです。祖母はだいぶ前に亡くなって、祖父一人なので。うちの両親が介護をすると言ったんですけど、祖父は自分から老人ホームに行くと言いだして……。僕達の手は煩わせたくない、どこにいてもシベリアよりは天国だって、その一点張りです」

「しっかりしたはりますなぁ。と言うか、頑固でんなぁ。……まあ、うちも人の事は言われしませんけどな」

 ようわかってるがな……と厳ちゃんが横から口を挟む。珍しくそれには取り合わず、

「おおきに。最近字もあんまりよう書かんけど、がんばって書いてみましょかな……」

 静子は手元の紙をじいっと見つめながら呟く。

「良かった。これでなんだか安心して帰れます」

 渡辺青年はにっこりと笑って目の前の冷めかけたコーヒーを飲んだ。

 渡辺青年はそれから三十分ほど新しい静子のおごりのコーヒーを飲みながら、厳ちゃんと他愛のない世間話をしていた。その間静子は別人のように黙りこくってうんうんと頷きながら二人の会話を聞いていた。時々手元の紙を眺め、隣の席の渡辺青年を眺め、またぼんやりと二人の話を聞いている。いや、聞いているというよりは、何か違うところへと心が飛んでいるような様子だった。

 渡辺青年が店を出る時、静子は店先まで出て手を振った。渡辺青年はしばらく歩いてから振り返って改めてお時儀をしてから、また手を振る。手を振り返しながら静子は長い溜息を吐いた。

「……あの時もこうやって、手、振ったんや……」

 その声の切なさに隣に立っていた厳ちゃんは思わず静子を見る。静子の横顔がいつになく寂しげに見えた。


<続く>

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