同じアホなら……
笑子は一週間後に退院した。すぐに店に復帰しようかと思っていたようだが、しばらくは様子を見てくれと娘に泣きつかれてメイドはしばし休業となった。それでもじっとしているのは嫌なようで、ランチタイムが終わる頃にえっちらおっちらとサニーサイドに顔を出し、特等席でコーヒーを飲むのだ。
静子は相変わらずのペースで店に出ていた。どこまでもあっけらかんと、図々しく、若い客と対等に張り合っている。茜の友人である奈々子から新しいカチューシャをプレゼントされ、うきうきとそれを見に着けていた。きらきらのデコ・カチューシャである。それが意外にハマるから不思議だ。奈々子は最近静子にネイルアートまで勧めてくる。静子も興味津津で、次の休みに奈々子にネイルショップに連れて行ってもらう約束までしているようだった。
「どこまで突っ走ったら気がすむんやろ。それにしても、おばあちゃん、最近若返った……よなぁ」
茜は首をかしげる。人前に出るようになると女は綺麗になるが、それは年寄りでも同じらしい。アンタに負けてられへんで~っとうそぶく静子にあきれながらも、ほんまにうっかりしていると負けそうだと思う。そうなると年齢は関係なしに女同士である。ライバル心が芽生えてくるというものだ。
「アホかいな。しょうもない事で何を張り合うてんねん。茜ちゃんと姉ちゃんやったら、歳、四倍以上ちゃうねんで」
厳ちゃんは苦笑した。最近は静子の言動にいちいちハラハラドキドキしなくなってきた。達観したのかあきらめたのか、それとも慣れただけなのか。その辺は自分でもわからないが、なんとなく全てが収まる所に収まっている感があった。もっとも時々静子に店を乗っ取られるのではないかと思う時もあるのだが……。
明恵も相変わらず無愛想だったが、時々静子の言動に鋭い突っ込みをするようになった。その緊張感の満ち溢れたやりとりに周囲が凍りつく事もあったが、二人の間にはなにやら妙な信頼があるようでお互いに本気でかみつくような事はなかった。
横浜行きから一カ月経って、そろそろ笑子もメイド復帰しようかと言う頃、一枚の葉書が届いた。それは渡辺修一郎の孫、渡辺青年からだった。
先日は祖父の見舞いにわざわざ大阪からお越しいただき、誠にありがとうございました。祖父は静子さんとの再会がよほど嬉しかったらしく、ずっとその話をしておりました。
その祖父ですが、先日急変しまして、逝去致しました。本当に安らかに逝きました。亡くなる前に静子さんと会えて本当に良かったと思っています。
本当にありがとうございました。静子さんのますますのご健康とご長寿をお祈りしております。
今時の若い子にしてはしっかりした文面だった。普段手紙なんて書くことはないだろうにきっちりと育てられた子なのだろう。渡辺の真面目そうな顔立ちを思い出しながら、静子は葉書をエプロンのポケットにそっとしまった。
静子は頬杖をつくと窓の外を見る。何度も繰り返し葉書を読んだが、不思議と悲しい気持ちは湧いてこなかった。ただ寂しさだけがしみじみと沁みてくる。また一人、先にアチラに行かはった。コッチに残っている顔ぶれも随分少なくなった。
ふと、子供の頃、夕方遅くなるまで路地裏で遊んでいた頃を思い出す。一人抜け、二人抜け、三人抜け……。最後まで残るのはなんだか寂しくって嫌いだった。
窓の外に笑子の姿が見える。笑子は手にエプロンを持っていた。今日から復帰するつもりらしい。
笑子はいつものようによたよたと扉を開けて入ってくると、静子が座っている席の前に来た。生き残り其の二が来たで、と静子は心の中で呟いた。
「今日から復帰か?」
「せや、ぼちぼちリポビリも始めななぁ……。なんや、どないしたん?」
静子は手で笑子にまあ座り……と椅子を勧めた。笑子は訝しげに椅子に腰をかける。
静子はポケットから葉書を出すと、笑子に渡した。笑子は葉書を読んでいたが、ほうっと溜息をつきながらそれを黙って静子に返した。そのまま頬杖をついて、窓の外を見る。
「……なんや、ばあさんが二人で窓辺で黄昏てるで」
厳ちゃんが不審そうに明恵に囁く。キャベツの千切りを作っていた明恵はちらっとその様子を見たが、すぐに視線を手元に戻した。
「……色々ありますんや、女は」
静子は窓の外を見ながら横浜から帰る新幹線の暗い窓を思い出していた。
暗い車窓に映るのは白髪頭のしわしわの自分の顔だけだった。若い頃はぱっちりしていた目は力なく垂れてきた瞼のせいで随分と小さくなっている。目尻の皺はカラスの足跡どころか、ゆるやかに頬の上にまで伸びていた。長い指のカラスがあったものだ。このしわくちゃのババの中に、娘時代の面影を渡辺は見つけてくれただろうか。自分が渡辺にそれを探したように……。
随分と長く生きたものだ。
昭和という時代と一緒に生まれて、山も谷も、いい時も悪い時も、全部見てきた。戦争という嵐や、高度成長期という激流にも翻弄された。たくさんの人と出会って別れた。多くの友人が先に旅立ったし、自分の親も、舅も姑も、そして夫も送りだした。
思いのほか長生きしてしまっている。身体はすっかり萎びてしまって、頭の中身もすっかり干からびて、あとはお迎えが来るだけだ、次こそは自分の番だろうかと、いつも心のどこかで思っている。
やり残したことはない。多分。でも……ほんまに全部やったんかいな。口の周りを粉で白くしながら大福をほおばる渡辺を見つめていると、心の奥深くで眠っていたお下げの自分がちょっとだけ窓を開けて覗いているような気がした。このままお迎えのバスが来るのを、バス停のベンチでじーっと座って待つだけでエエのだろうか。いやいや、なんか忘れもんしたような気もせんでもない……。
「逝きはったんやなぁ。……やっぱりうちも会うてみたかったわ」
笑子がぽそっと呟く。
「渡辺さんかぁ。格好良かったもんなぁ……。背ぇ高かったな」
「まさか、アンタも渡辺さんが好きやったんか?」
「いーや、うちは別の人が好きやったんや」
「ほお……。そんな話、聞いた事ないで」
「そらそうや、言うたことないもん」
笑子はおどけて肩をすくめる。
サニーサイドの窓は光で溢れていた。昼前の通りは車がきらきらと太陽の光を反射させながら通りすぎて行く。時々、主婦らしき女性や小さい子供を補助シートに乗せた若いお母さんが前を横切って行く。もう少ししたらランチを食べに、近くの専門学校の学生やサラリーマンなんかも町の中に出てくる。昼間の時間を生きる人達だ。何十年前は自分達もそうだった。輝く時間はあっという間に過ぎ去ってしまう。若い頃はそんな事、考えもしなかったが。
「誰? 誰?」
「……内緒。墓まで持っていく事に決めてます」
静子はまじまじと笑子を見た。笑子はすました顔で外を見ていたが、やがてくすくす笑い出す。
「命短し恋せよ乙女……ええなぁ。うちも、もう一回会いたかったわ」
「だれが『命短し』やねん。もうじき九十やがな、ド厚かましい。それに考えてもみいな」
静子はぴっと右手の人差指で天を指す。
「誰の事かは知らんけど、言うてる間に会えるがな」
笑子は一瞬ぽかんとしたが、大声で笑い出した。
「ほんまや。こないだは死に損ねたからなぁ……って、アホな事言うてからに」
「アッチ行ったら、仰山、色んな人が待ってるんやろな。歓迎会でもしてくれるやろか」
「せやなあ、それは楽しみ……やな。あ、えらいこっちゃ。アッチ行ったら、渡辺さんもおるけど、アンタのご主人もおるがな。怒られるんとちゃうか」
「いや、えらいこっちゃ。喧嘩になるわ」
「なるかいな。あほらし」
二人でがははと笑い転げる。
「……なんやあの二人。さっきまで黄昏とったのに」
厳ちゃんが首をかしげる。さっきまで物憂げに窓の外を眺めていたのに、今度はげらげらと笑い転げている。女と言う生き物は幾つになってもよくわからない。
「……色々ありますんや、女は」
明恵が頷きながら呟く。
ガラス越しに若い女の子が二人こっちを向いて手を振っている。茜と奈々子だ。まるで同い年の友達にでも手を振っているような笑顔だ。
静子と笑子も笑いながらしわしわの手を同時に振り返した。
「ほんなら、メイドさん。ぼちぼち働きまひょか」
静子はどっこらしょと立ち上がる。笑子もつられて腰を上げると、手にしたエプロンに袖を通した。
「ほんまや。働けるということはありがたいこっちゃな」
「せやせや。お迎えがいつ来るかはわからんけど、死ぬまで生きるねんから、楽しまな、な。娑婆の様子をアッチに報告せなあかんし」
「これがほんまのメイドの土産って?」
静子と笑子は顔を見合わせて、またしてもがははと笑いだした。
確かに昼間の時間は終わってしまっていて、自分達の時間は既に暮れかけ、日没直前かもしれない。それでも夜になるまでには、それなりの美しい時間が残っている。日が沈んでしまっても、紫色の闇が濃くなってきても、それなりの楽しみ方があるものだ。
この歳になって、やり残したことなどありそうもないと思ってはいたが、よくよく考えてみればいくらでもありそうな気がしてきた。恐らく探さなければ見つからない事ばかりで、やらないからと言って困る事でもないのだろう。それでもまだ日の光がほんの少しでも残っている間は、それを一生懸命探すというのも悪くない。
お迎えがくるまであとどのくらいか、そんな事は誰にもわからない。まだまだかかるのか、それとも今晩来るのか、そんな事はどうでもいいことだった。要は、今はまだ生きていて、とにかく死ぬまでは生きているということだ。死んだら死んだで、未知の楽しみが待っているかもしれないし……。
踊る阿呆に観る阿呆
同じ阿呆なら踊らにゃソンソン
そんな歌もあるではないか。
「ついに、メイドさん復活か……」
厳ちゃんは意気揚々と立ち上がり気勢を上げる二人を見て苦笑いを浮かべた。また忙しくやかましい毎日が始まるということだ。
軽やかなベルの音と共に店の扉が開いて、茜と奈々子が勢いよく入って来た。奈々子が大げさに手を広げ、笑子にハグする。
「エミリー! おかえりなさ~い! 静ちゃん、今日も素敵~」
「奈々子、笑子ばあちゃんはうちのおばあちゃんと違って乱暴に扱ったら壊れるで」
茜が笑いながら奈々子を制した。
「アンタ、失礼やな」
静子が手にしたトレイで茜のお尻を軽く叩く。
「姉ちゃん、食べ物乗せるモンで人のお尻を叩くなよ」
厳ちゃんが目を三角にして口を挟む。明恵が仏頂面でじろりとはしゃぐ二人の娘と、二人の昔の娘を睨みつけた。
「明恵はんが睨んどる……」
四人は首をすくめた。
「で、注文はなんやな」
「ランチ、二つお願いしま~す」
茜と奈々子はカウンター席に並んで座った。
「今日は二人とも学校は?」
「午前中だけ」
「ねえねえ、おばさん。私もバイトさせてよ、ここで」
奈々子が身を乗り出す。明恵はちらっと静子と笑子を見た。
「あの二人が元気なうちは、バイトの募集はないわ」
「え~、残念」
奈々子は可愛らしく口をとがらせると、ちらりと二人のメイドさんを見た。
また扉が軽やかな音を立てて開き、お客が入ってきた。
「いらっしゃ~い」
静子と笑子のしわがれた声が店内に響き渡った。
<了>
静子バアサンと笑子バアサンにお付き合い頂きありがとうございました。
「こんなバアサンおるかいな。でも、自分が歳とったら、どんなバアサン(ジイサン)になるんやろか……」
そんな事をちょっと思って頂ければ、成功です(笑)。




