二
店内はしーんと静まりかえり、BGMがやたら大きく聞こえる。
「苦しい……って、なんやったんや?」
厳ちゃんが恐る恐る口を開いた。
「知りまへん。笑子さんの娘さんも病院に行きはったから。近所の人に聞いただけやさかい」
明恵は低い声でそう言いながらエプロンをつける。
静子は黙って突っ立っていたが、ふいにエプロンを外した。エプロンを畳んで明恵に押し付けるように渡す。明恵はそれを受け取るとカウンターに戻った。
「悪いけど、ちょっと行ってくるわ」
「行くって、見舞いかいな」
厳ちゃんがおろおろと静子と明恵を交互に見比べる。それとは対照的に静子も明恵も落ち着いていた。
「寺山病院ですわ」
「厳ちゃん、タクシー呼んで」
静子は出口に向かい扉を開けようとしたが、ふいに踵を返した。部屋の隅に置いてあった紙袋と財布の入ったポーチを手にする。そしてあらためて外に出た。
「タクシー、呼びますわ」
明恵がやっぱりぶっきらぼうに言いながら電話の受話器を取り上げた。
寺山病院はこの辺りの救急搬送の受け入れをしている病院だ。最近建て直して随分綺麗になったが、歴史は結構古く、地元では馴染みの医療機関だった。
静子はホテルのロビーのような病院の玄関に降り立った。医者嫌いの静子はあまり医者にかかる事がない。ましてこんな大きな病院に来る事は滅多にない。自分が大病院にかかる時はあの世に行く時くらいだろうと確信していた。
「最近の病院はどこもかしこもホテルみたいやな」
横浜の老人ホームといい、ここといい、やたら美しい外観だ。昔は古臭くて厳めしくて、消毒液の匂いが充満していて、それはそれで近寄りがたい雰囲気があったものだが、最近は何やら違う質の居心地の悪さ、慇懃無礼というか丁重なよそよそしさを感じる。
静子は中に入るときょろきょろと辺りを見回した。総合受付という文字が書かれたカウンターが目につく。
静子はえっちらおっちらカウンターへと近づいた。制服を着た受付の女の子がにっこりと笑って静子を見た。まるで百貨店の案内所だ。
「お聞きしますけどな……」
静子は口を開きかけて、一瞬言いよどむ。そうだ、確かこういう時には聞き方があった。茜の言葉を思い出し、うんうんと頷いた。慎重に言葉を選ぶ。
「昨夜救急車で運ばれてきた北川笑子さんのお部屋はどこですかいな?」
「どういうご用件ですか?」
「お見舞いですわ」
「少々お待ち下さい」
紋切り型のやり取りの後、受付嬢は手元の端末を軽やかに操作した。
「本館五階の内科病棟です。あちらのエレベーターでどうぞ。ナースステーションでお声をかけてください」
「おおきに」
静子は丁寧に頭を下げると、エレベーターへと向かった。どうやら無事に関所を通過したようだ。
エレベーターに乗り五階のボタンを押すと、エレベーターは静かに動き出した。
まさか笑子が倒れるとは思いもよらなかった。なんやかんやといいながらも結構元気だったのだ。案外自分の方が先に駄目になるのではないかと思っていたくらいだ。そもそも無病息災というよりも一病息災というではないか。ちょこちょこと具合の悪い人の方が、案外長寿だったりする。
エレベーターの扉が開くとナースステーションの前だった。無人のように見えたが、近づいてよくよく見ればパソコンの陰に埋もれるようにして白衣の女性が一人いた。
「すんまへん」
静子はカウンターに身を乗り出しながら小声で呼んだ。白衣の女性は顔を上げた。なにやらきつそうな中年の看護師だ。
「北川笑子さんの部屋はどこだっか?」
「北川さん? ああ、一号室です」
「様子はどないでっか? 会えますかいな?」
「落ち着いてらっしゃいますよ。どうぞ」
丁寧だが事務的だった。静子は意味もなく恐縮しながら静まりかえった廊下を歩き、一号室の前に立った。
小さくノックをすると、重い扉をそっと開ける。
二人部屋になっているようだった。奥のベッドはカーテンが閉まっている。
「すんません、笑子はん?」
静子はこそっと部屋に入るとまず手前のベッドを見た。一瞬ぎくっとする。見た事のない枯れ木のような小さな老婦人がぽっかりと口を開けて眠っていた。
歯のない、乾ききった口元をしばらく眺めていたが、ぷるっと身震いして視線をそらせた。気を取り直して、
「笑子はん?」
静子はカーテン越しに声をかけた。中から、かすれた返事が返って来た。
「入りますで」
そっとカーテンを開ける。
「いやあ、来てくれはったんでっか」
白い布団に埋もれるようにして笑子が横になっていた。点滴の袋が枕元に二つぶら下がっている。思ったよりはしっかりした顔つきだったのでほっとした。
「久ちゃんは? 一緒におるんちゃうんか」
久ちゃんとは笑子が同居している娘だ。確か一緒に病院に行ったと聞いたが。
「さっき一旦帰った。入院の用意してくるて」
「さよか。……案外元気そうやがな」
静子は枕元に寄ると笑子の顔を覗きこんだ。
「ほんでまた、どないしたんや。びっくりするがな」
「うちかてびっくりしたわ。昨夜遅うに、急にお腹が痛くなってなぁ……」
静子はしわしわの顔に苦笑いを浮かべた。
「どないもこないもしょうないくらいの痛みで、今度こそほんまに死ぬかと思うたわ」
「……生きとるがな。結局、なんやったんや?」
「胃痙攣やて」
静子は安堵のため息をついた。よく動悸がするだの息切れがするだの言うものだから、てっきり心臓発作でも起こしたのかと思ったのだ。
「食べつけんモンでも食べたんとちゃうんかいな」
「そんな事せんし」
不服そうな表情になる笑子を見て少し安心する。
「カーテンの後ろに椅子あるで」
笑子の声に静子は足元を見まわした。パイプ椅子を見つけるとそれを広げて腰を下ろす。
笑子は布団から手を伸ばすと、ベッドの柵にぶら下がっていたコントローラーを操作した。微かなモーター音がしてベッドの頭が上がる。
「大丈夫かいな」
「大丈夫大丈夫。で、どないやったんや?」
今度は笑子が尋ねる番だった。静子を覗きこむ。
「どないて、何が?」
「会えたんかいな、渡辺さんに」
「アンタ、しょうもない事聞いてる場合かいな」
静子はあきれ顔になったが、笑子はおかまいなしに身を乗り出す。
「気になってしゃあないねんて。だいたいそのせいで痛うなったんやで」
「嘘言いなはんな。まあ、……会えたで」
「どないやった?」
「どないやった……と言われても。まあ、なんやな、えらい歳取ってはったわ」
「それはお互い様や。人のこと言えますかいな」
笑子は小さく笑った。
「元気にしてはったんかいな」
「せやなぁ。元気にしてはった」
静子は少し目を細める。美味しそうに大福を齧る渡辺を思い出すとなにやら目の奥が熱くなってくる。
「ほんで?」
「ほんで?……って? 一体何を期待してますんや、この病人は」
身を乗り出す笑子の顔を見て、静子は笑い出した。まるで友達の恋の話を聞き出そうとする女学生のようだ。
「別になにも期待なんてしてへんで。渡辺さんがどないしてはったんやろな~って思ただけでやな」
笑子は笑いながら天井を見た。
「良かったやないの。会えて」
「……せやな。なんかこう、やり残してた事がまだあったんやなぁ……って思うたわ」
「そうか。この歳になっても、あるもんかな」
「せやなあ」
「うちも死なへんかったって事は、なんぞやり残したことがあるんやろかな……」
笑子は点滴のつながった自分の細い腕をじっと見つめた。この歳になるまで、何度となく死を覚悟したものだ。戦争での体験もそうだったし、子供を産む時にも難産で、自分も危険な状態に陥った。壮年になってからは子宮癌も患った。交通事故に巻き込まれた事もある。それでもこの歳まで生きているのだから不思議だった。
「せやなあ」
静子が相槌を打つ。
なんとなく物悲しい、しかし不思議に落ち着いた沈黙が続く。生きる事も死ぬ事も、結局はままにならぬもの。長い歳月を生きてきたのではなく、長い歳月を生かされてきたという方が正しいような気がする。
静子は布団の上で自分の手をいじっていたが、ふと顔を上げた。
「せや、土産持って来たんや」
そして足元の紙袋を布団の上に乗せた。
「これ渡しとかんとなぁ、気がかりやがな」
「やり残した事、其の一が土産もらう事かいな。えらいやり残しやな」
笑子が笑いながら紙袋の口を開けた。静子はにやりと笑ってみせた。
「死んだら渡されへんからなぁ。良かったわ。こうやって渡せて」
「そん時は棺桶に入れてもらうからかまへんで」
二人は顔を見合わせてがははと笑う。
考えても仕方ない事は考えない。なにはともあれ、そういうところが長寿の秘訣の一つである事は間違いなさそうだった。
<続く>




