三
静子はあたふたと立ち上がると廊下に出た。じっとやってくる人影を見つめる。
「やあ、お待たせしました」
白髪の老人は静子の前にたどり着くと、穏やかに頭を下げた。静子も頭を下げる。二つ折れになりそうなくらい、深く。
頭を上げると目の前の老人の顔をじっと見た。
髪は真っ白になっていて、記憶の中の姿と比べるとずいぶん量も減っている。頬の肉はたるんでいて、深い皺が刻まれていた。背中も少し丸くなって、しゅうとしていた印象とはまるで違っている。
確かめるように静子は聞いた。
「渡辺さん、でっか?」
「はい。渡辺です」
押しも押されもせぬ、立派なおじいさんだ。長い長い歳月は緩やかな魔法のように人を変えてしまう。それでも静子は一生懸命記憶の引き出しを引っ張りだしながら、目の前の老人に昔の面影を探した。
恐る恐る静子は口を開いた。
「大阪の、田中です。田中静子。猫間川商店街の七福堂の……七福堂で店番しとった静子です。覚えてはりまっしゃろか」
「大阪……猫間川……」
渡辺は目を閉じると動きを止める。しばらくして、ゆっくりと目を開けた。
「ああ。わかりました。七福堂さん。大福が美味しい」
そしてまじまじと静子を見た。
「田中静子……さん。七福堂の静子さん。はい。知ってます。七福堂の……」
オウムのように何度も繰り返しながら、ゆっくりと驚いたような表情に変わっていく。
「七福堂の静子さん! いやあ、なんと懐かしい! 渡辺です。ご無沙汰しておりました」
皺の中に埋もれかけていた瞳が大きく開き、輝きを増したように見えた。そして隣に立っている女子職員に向かって、
「大阪にいた頃のご近所の饅頭屋さんの看板娘さんですよ。大福が美味しくってね!」
と、大声で言った。
「それは良かったですね。懐かしいお友達が来て下さって。さあ、こっちに座って、ゆっくりお話してください」
女子職員はにこやかに渡辺の手を引いた。渡辺は近くのテーブルに誘導され、女子職員に勧められるまま椅子に座った。静子はテーブルをはさんで向かいにあった椅子をむんずとつかむと、ずるずると渡辺の席の隣に置いた。
「ちょっとおばあちゃん、危ないって」
「かまへんかまへん」
渡辺に対して直角の位置を陣取るとそそくさと座った。
「まさか静子さんとまた会えるとは思ってもいませんでしたよ」
渡辺はテーブルの上に手を置くと、静子の方へと身体の向きを変えた。頭の先から足の先まで、ゆっくりと渡辺の視線が動いていく。
「本当に……お久しぶりで。本当に静子さん? 信じられないような気がしますよ」
「ほんまに嘘みたいですなあ。うちもなにやら信じられまへん。お孫さんが来はりましてな。うちもびっくりしましたわ。……生きて帰ってきはりましてんなぁ。ほんまによろしおました。出征するって言うてはったから、あの後、どないしはったんかとずっと思てましてな」
静子は一気に喋る。
「ほんまによろしおましたわ」
しょぼしょぼの目に何故かじんわりと涙が浮かぶ。渡辺もうんうんと頷きながら静子の言葉を聞いていた。
「帰国してからは、ずっと仕事の都合で東京にいました。大阪に行ってみたいと思いながらもなかなか機会がなくて……」
「そうだっか、そうだっか。よう生きて帰ってきはりましたなぁ。ほんまによろしおました。こうしてまたお会い出来るとは、夢にも思わなんだ……」
「びっくりしたでしょう。随分とおじいさんになってしまっているから」
渡辺が穏やかな笑みを浮かべた。
「何言うてはりますのん。うちかてえらい事になってますがな。渡辺さんが大阪にいはった頃はそれこそぴちぴちしてました」
「そうそう、大福餅みたいにぷっくりしてらした」
「そうでんがな! それが今ではこの通り、大福どころか、つるし柿ですわ」
横で聞いていた茜がぷっと吹き出し、静子の耳元で囁く。
「七十年ぶりに会ってなんとも色気のない話やな」
「やかましわ。あ、これ、うちの孫です。ここまで連れてきてくれまして」
静子は慌てて茜を紹介した。渡辺はにこやかに頭を下げ、茜もよそいきの笑みを浮かべながら頭を下げる。
「美人のお孫さんですね。若い頃のあなたによく似ていらっしゃる」
「そうですか?」
静子と茜は同時にそう言いながら、お互いを横目で見た。
「ま、それはとにかくとして、ゆっくりしゃべっとき。お茶でももらってくるわ」
茜は小声で静子にそう言うと、渡辺に軽く会釈し、詰所の方へと向かった。
茜の姿が遠ざかるのを見計らうと、静子は自分のデイバッグのファスナーを開け、袱紗で包んだ包みを出した。そしてテーブルの上に大切そうにそっと置く。
「久しぶりにお会いするのに、なんや手ぶらちゅうのもなぁと思いまして。せやけど、何がええもんやら、さっぱりわからへんで……」
と、少し小声になりながら袱紗の結び目を解く。中から紙包みが現れた。
「これは……」
渡辺が目を細めて包みを手に取る。
白い包装紙に茶色い文字で『七福堂』と書いてあった。
丁寧に包みを開いていくと、透明なプラスチックケースが現れた。
「……ああ、これは」
渡辺の顔がくしゃっと崩れた。憧れていた懐かしい笑顔だった。
ケースの中には白い大福餅が行儀よく並んでいた。
「七福堂は十年前に廃業してしまいましたんやけど、包装紙がまだ残ってましてな。大福は弟に頼んで作ってもらいましたんや。弟が店を継いでましたよって」
渡辺はケースにかかっている輪ゴムを外した。ふたが勢いよくぱかっと開く。
「年寄りに餅なんか食べさしたら、喉詰めてえらい事になるってさんざん言われましてんけどな。そんなん、うちかて年寄りやさかい、ようわかってます。せやけどなぁ……」
静子はごそごそとズボンのポケットを探ってハンカチを出した。目を拭いて、鼻を拭いて、ハンカチを手の中でごちょごちょともてあそぶ。
「……心残りでしたんや。最後にお売りした大福があんまりお粗末でしたさかい……」
「いやあ、これは、なんて懐かしいんだろう……」
渡辺は少し震える指で大福をつまみ、そうっと手に持った。白い餅の下にうっすらと餡の存在が見える。餡子でぱんぱんに膨れた大福だ。取り粉がぱらぱらと膝の上に落ちたので、静子は慌てて自分のハンカチを渡辺の膝の上に広げた。
「確かに残り福でしたよ、あの大福は」
渡辺はじっと大福を見つめていたが、やがて口元に持っていくぱくっと齧った。
「あんまり大口で食べたらほんまに喉詰めまっせ。気ぃつけてくださいや」
静子ははらはらしながら白い粉のついた渡辺の口元を見つめた。渡辺は目を閉じて一心不乱に口を動かしている。
もぐもぐもぐもぐもぐ。
長い時間口の中で餅が転がっていたが、やがてゆっくりと喉が動き、餅が落ちて行くのがわかった。
渡辺の閉じた目からつうっと涙が一筋流れ、皺の間にまぎれていく。じわじわと渡辺の顔に幸せそうなほほ笑みが浮かび、そしてゆっくりと目を開けて叫んだ。
「ああ、この味だ。この味ですよ、静子さん!」
そしてまた一口大福を齧る。幸せそうなほほ笑みを浮かべながら、もぐもぐと口を動かす渡辺を見つめながら静子はうんうんと頷いた。
おかえりなさい。待ってましたんやで、帰ってきはるのを……。
<続く>




