二
「横浜や言うからてっきり海の近くやと思てたのに……」
新幹線から乗り換えた地下鉄の階段を上って、ようやく目の前に現れた光景に静子は憤然とした。
港が見える丘どころか、山の手の、マンションや住宅が広がる宅地のど真ん中である。それも階段の出口はと言えば、思い切り坂の途中に位置していた。
「どっちや。坂の上か、下か」
静子はきょろきょろと左右を見る。茜は手にした携帯電話の画面と周りの景色を指さしながら位置確認をしていたが、ぴっと指を伸ばした。
「上やな」
静子はげんなりした表情になった。
「結構急やで、この坂」
「そんなに長い事歩かへんから大丈夫やて。ほら!押したろか」
茜は静子の背中のデイバッグを軽く押した。
「結構や。こう見えてもデイサービスのリポビリで鍛えてるわ」
「それを言うなら、リハビリやって」
茜がけらけら笑いだす。静子は鼻息荒く坂を登り始めた。
百メートルも歩くと斜めに細い道路が交差していた。
「ここが敷地の入り口らしいよ」
茜は手にしていた施設の地図を指でさしながら静子の背中を軽く押して誘導した。
「……ほんでまた、えらい坂やないの」
静子は口をへの字にした。さらに急こう配の坂が伸びている。距離は二十メートルほどか。資料ではその上に駐車場と建物があるらしいが、坂の下からはわからなかった。
「大丈夫か、ほら、押されるのがいややったら引っ張ったろ」
茜は静子の左手を握り、腰に手をまわした。一瞬嫌そうな顔をした静子だったが、黙ってされるがままになる。
「年寄り預かってる施設やのに、こんなんあかんやろ。年寄りが歩いて出入りでけへんやないか。なっとらんわ」
「……案外それが目的やったりして~。脱走防止や。おばあちゃんみたいなのがいてはるんやろ、きっと」
茜があははと笑う。静子はふんっと鼻息を飛ばした。
ようやく坂を登り切ると、広い駐車場が広がっていた。その奥には明るい茶色の三階建ての建物が静かに建っている。一見するとちょっとおしゃれなマンションのようだ。
「……こんなとこ入ろうと思たら、結構いるんやろなぁ」
茜が感心したように呟いた。
「そらそうやろ。ちょっとしたマンション買うくらいの心づもりしとかなあかんで」
「……なんや、おばあちゃん詳しいやん? 調べた事あるん?」
茜がちらりと横目で見たのがわかったが、静子は気付かないふりをした。
「ほな、行こか」
二人は建物の玄関を目指した。
玄関はガラス張りでこれまた高級マンションのエントランスという言葉がぴったりだ。
一枚目の自動扉が開くと、小窓のついた管理事務室があった。かすかにピンポンピンポンという呼び鈴が響き、小窓から若い女性職員が顔を覗かせる。
「はい?」
「面会に来たんですけど」
茜がよそいきの声で答える。
「渡辺修一郎さんにお会いしたいんですが」
「お約束されてますか?」
「あ、いいえ、ご本人とは……。お孫さんからここの住所を教えていただいて。大阪の田中です」
「少々お待ち下さい」
女子職員は顔をひっこめた。奥でなにやらごそごそ話し声が聞こえる。どうやら電話をかけて確認しようかという話になっているようだ。
「……えらい慎重やなぁ」
静子は顔をしかめた。
「しゃあないんちゃう? 最近どこでもこんなんやで。こないだうちの友達が入院してさ、見舞いに行こうと思って病院行ったら部屋も教えてくれへんねん。なんかさ、『○○さんはいらっしゃいますか』って聞いたらアカンねんて。『いらっしゃるかどうかはお答えできません』やて」
「ほんならどうしたらええんや」
「しょうもない話やで~。『○○さんの見舞いに来ました』て言うたらOKらしいわ」
「どっちも大して変わらんがな。一緒やないか」
「そういうモンらしいで。個人情報保護ってヤツやねんて」
「ふぅん。なんや、面倒くさいな」
なにやら味気ない時代である。どうも最近の世間と言うやつは、無機質で面白みがないように思えてならない。昔は良かった。もっと人間味があった……などと言うと、また茜に莫迦にされるに違いないと思い、静子はそれ以上言うのはやめた。
小窓が再び開いて、先ほどの女子職員が顔をのぞかせた。
「どうぞ、渡辺修一郎さんでしたら三階です。ご案内しますので、どうぞお入りください」
二人は頭を下げると、もう一枚の自動扉の前に立った。扉がゆっくりと開く。
中は天井が高くて、広々としていた。白い大理石風のフロアには三組ほどテーブルと椅子が置かれている。どれも落ち着いたアンティーク調で高価そうだ。観葉植物の鉢がところどころに置かれていて、各テーブルの仕切りの代わりにもなっている。
「すごいな。ほんまにホテルのロビーみたい……」
茜が囁いた。
先ほどの女性職員が出て来てにこにこと愛想笑いを浮かべる。
「どうぞ、こちらです」
静子と茜は女子職員の後ろをついて歩いた。
エレベーターに乗って三階へ向かう。エレベーターの扉が開くと、やっぱり広々としたロビーが広がっていた。下と少し違うのは、壁にいかにも手作りパッチワークのタペストリーや折り紙で作った飾りが飾られている事と、食べ物の匂いや高齢者特有の匂い、そしてかすかなトイレの臭気が漂っているところか。
「おばあちゃんの部屋の匂いやな」
茜が耳元で囁く。
「そうか?」
静子は鼻をくんくんしてみたがなんの匂いも感じなかった。歳を取ると鼻も鈍くなるようだ。
歩行器にもたれかかるようにしながら廊下を歩く老婦人がちらっと静子を見た。新入りか、客人か? そんな好奇心がちらちら見える。
「こちらでちょっとお待ちいただけますか? 渡辺さんをお呼びしますので」
女子職員に促され、二人はロビーの椅子に腰かけた。人の姿はなくひっそりしていた。大きな窓からは眩しい日差しが差し込んでいる。
「日光消毒や……」
「あんまり当たりすぎたら、余計に干からびるで」
「うるさいわ」
まったく可愛い顔をして口の悪い孫である。一体誰に似たのだか。
「しかし、静かやな」
静子は身を乗り出して、廊下の様子をうかがう。
ロビーの隣は職員の詰め所になっている。カウンターの向こうには職員が三人、パソコンに向かっていたり、書類を書いたりしていた。誰も静子の方を見ることもなく、黙々と仕事をこなしている。 そこを中心に左右に廊下があり居室の扉が並んでいる。いくつかの部屋の扉は開け放たれているが、不思議なくらいに人の気配がしない。耳をすませば、かすかにテレビかラジオの音がこぼれてくるが、笑い声や話し声は聞こえない。いきいきサロンで元気な年寄りばかりを見慣れている静子には信じられないくらいの静けさだ。
茜も同じ事を感じていたらしい。ひそひそ声で囁く。
「信じられへんくらいに静かやなぁ。こんな静かなところに入居したら、おばあちゃんやったら一週間も耐えられへんやろな」
静子は顔をしかめて首を横に振った。
「三日やな。一週間もおったら窒息して死んでまうわ」
「その前に追い出されるかもしれんけどな。やかましいって言われて」
茜がくっくっくっと押し殺した声で笑った。
廊下の一番奥の扉が開いて、先ほどの女子職員が出てきた。その後について一人の白髪の老人がゆっくりと歩いて出てきた。
「あ……」
廊下の手すりを持ち、反対の手で長い杖をつき、女子職員に軽く身体を支えられながらゆったりゆったりとこちらへとやってくる。どことなく頼りなげな足取りだった。
<続く>




