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初恋はアンコ味

「うち、横浜に行こか思うねん」

 朝になって静子は食卓でそう高らかに宣言した。ご飯を食べていた武男は口に運ぼうとしていた卵焼きを落っことし、文子は持っていた湯呑を倒しかけた。

「ばあちゃん、何言い出すねん、急に」

 武男は目をぱちぱちさせる。洗面所から茜が飛び出してきた。

「おばあちゃん! もしかして渡辺さんに会いに行くん?」

「なんや、あんた。ハブラシくわえたままで。嫁入り前の娘のする事ちゃうで」

 静子はしかめっ面で茜を見た。

「明恵おばちゃんから聞いててん。そうか~、行くんか。手紙ではとどまらんトコが、うちのおばあちゃんやなぁ。いやあ、一足飛びやなぁ。さすがナンギーズ」

 茜はうんうん頷きながら両手で静子の肩をぽんぽんと叩き、ハグした。

「気持ち悪いねん、ひっつきな。よだれつけんとってや」

 静子は顔をしかめて茜を引き離す。

「ばあちゃん、茜。何の話や? 横浜て、一人でそんなもん行けるかいな。あかんで、そんなん。もし新幹線の中で死んだらどないすんねん。JR西日本に申し訳ないやろ。はた迷惑な」

 むすっとした顔で武男が口を挟む。

「ほんまに難儀なばあちゃんやで。歳考え、歳」

「親に向かって歳歳言いな」

 静子は唇を尖らせる。

「ほんまや。失礼やで、お父さん。ええで、うちがついて行くから」

 茜が鼻の頭に皺をよせながら言う。

「お、おい、茜。何言うてんねん」

 武男は慌てたが茜は全く取り合わなかった。うるさそうにしっしっと手で払う真似をすると静子の顔を覗きこむ。

「週末でええやんな? うちにまかせといて」

「それは……おおきに。えらい親切やな」

 静子はじろりと横目で茜を見る。

「あんた、うちにたかろうと思てるやろ」

 茜はてへっと舌を出した。どうやら図星らしい。

「まあ、ええわ。タダより高いもんはないっちゅうしな。アルバイトや思うて手間賃弾むで」

「さすがおばあちゃん。話がわかるわ。あ、でも新幹線で死ぬのはほんまにやめてや。それは契約外という事で」

「ほんまにちゃっかりした孫やな。親の顔が見たいわ」

 静子の言葉に武男と文子が声を揃えた。

「こんな顔ですわ。すんまへんな」


 横浜行きを決定した茜はすばやかった。その日の夜には静子がもらった老人ホームの住所から早速行き方を検索して、静子の元に持ってきた。

「新大阪から新幹線に乗って、新横浜や。そんでそこから地下鉄に乗って三十分か四十分ってとこやね。駅からは徒歩五分。所要時間は三時間とちょっとってとこかな」

 茜がプリントアウトした地図を見ながら静子は目をぱちぱちさせた。

「三時間ちょっとってか。ふうん。案外近いもんやなぁ。もっとかかるかと思てたわ」

「おばあちゃんらの若い頃と違ってね。おばあちゃんの若い頃ってば、カゴやったんちゃうん」

「アホ。どんな時代や」

 静子がじろりと横目で孫を睨んだ。

「江戸時代生まれとちゃうで。妖怪やがな」

「わかってるわ。冗談やん、冗談」

 茜がげらげら笑い出した。静子は首をかしげる。最近の大学生はどうも信用がならない。本気で戦前は江戸時代と思っているのではないかと心配になる。

「日帰りっちゅうのはあまりにもキツイやろうから、一泊しよう。さ~、どこがいいかな。中華街の近くがいいな~。実はさ、友達がおるんよ、横浜に。久しぶりやから連絡して会いに行ってもいい?」

「アンタ、人をダシにしてからに……」

 なんと敬老精神の旺盛な孫かと感心したが、なんの事はない。そっちがお目当てであるらしい。まったくちゃっかり者の孫だ。さすがに自分の血を引いているだけの事はある。財布の中身の算段をしなくては……と静子は苦笑いした。

 次の土曜日の朝早く、静子と茜は横浜へ向かった。

「おばあちゃん、荷物持つで」

 茜は静子の背中にぶら下がっている大きなデイバッグを見て手を伸ばした。いつもはサロンに行く時に使っていて、連絡帳とタオルが入っているくらいだ。が、今日は着替えと土産が入っている。肩ひもが骨ばった肩に食い込んでいる。

「大丈夫や。これくらい持てるわ」

 静子はきっぱりと断った。

「ほんまか? なんか重そうな土産入れとったやん」

「大丈夫やて」

「知らんで、途中で腰抜けても」

 茜はジト目になって静子を見る。頑固ババアめ……とでも言いたげな様子だ。静子は見ないふりをした。


 新大阪駅まではタクシーで向かった。

 大阪に住んでいる人間にとって、新大阪なんて新幹線に乗って旅行にでも行かない限りは用のない場所である。大阪の中心である梅田もしくは大阪駅から少し外れている。買い物などは梅田で事が足りるのだ。まして年寄りの生活圏内に新大阪という選択はまずない。

 今回の横浜行きは静子にとって久しぶりの旅行だ。五年前に老人会の旅行で熱海に行って以来である。そんなだから、新大阪駅はほとんど知らない場所のようなものだった。改築もされているようで、全く見覚えのない風景の中どこになにがあるのかさっぱりわからず、きょろきょろおたおたする静子を茜が引きずるように連れて歩く。

「新幹線に乗るまでに力尽きたわ……」

 静子は新幹線の座席に座るや否やすっぽりと背もたれに埋もれる。

「荷物持ったるでって言うてんのに頑張って自分で持つからや」 イヤホンを耳に突っ込んでi-podで音楽を聴いていた茜は少々あきれ気味だ。

「そういうの年寄りのナントカって言うねんやんな? お冷?」

「冷や水!」

 最近の若いモンはことわざも満足に知らんのかいな……と静子はしかめっ面になる。

「お冷でも冷や水でも一緒やん。新横浜に着いたら起こしたるからちょっと寝てたら?」

「こんな明るい時分から寝られるかいな」

 普段ならメイドさんをしている時間だ。静子はぶつぶつと抗議したが、茜はもう相手にしてくれず、音楽を聞きながら目を閉じた。

 仕方なく静子は座席にもたれたまま窓の外を見た。景色が飛ぶように流れていく。

 横浜と言えば何があっただろう。横浜、黄昏、ホテルの小部屋……なんて歌を歌ってたのは誰だったか。そう言えば随分昔に、流行った歌があった。港が見える丘とかなんとか言う歌だ。歌碑が横浜の公園にあるというのを聞いた事がある。


 あなたと二人できた丘

 港が見える丘

 色あせた桜ただ一つ

 さびしく咲いていた

 船の汽笛むせびなけば

 ちらりほらりと花びら

 あなたと私に降りかかる

 春の午後でした


 静子は古い歌謡曲を口の中で転がしていたが、やがてうとうとし始めた。新幹線の中の静けさと振動が眠りを誘う。昨日は緊張していたのか実はあまり眠れなかったのだ。なんだか怖いような楽しみなような、複雑な思いが悶々と渦巻いていた。

心地よくまどろみながら、桜吹雪の向こうで渡辺が手を振っている夢を見た。


<続く>

歌詞引用:「港が見える丘」 作詞・作曲 東辰三 1947年

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