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メイド・デビュウ! 一

 年寄りの朝は早い。というか、今時の小学生よりも早い時間に布団に入るものだから、当然目が覚めるのも早いのだ。八時前にベッドに潜り込んでテレビを眺めながら寝てしまうとして、そこから八時間寝たとしても朝の四時にはお目覚めだ。そこからもう一度寝直そうと思ったところで、若い頃と違って仕事でくたくたになっている訳でもなく、毎日嫌というほど睡眠時間を取っているものだから、それ以上連続で眠りにつけるはずがないのである。

「だからね、あんたの悩みは悩みやないの」

 静子は訳知り顔で厳かにそう言い放ち、コーヒーを一口飲むと、目の前でしょぼくれている幼馴染の笑子の顔を見た。彼女の不眠の悩みはもう数えきれないくらいに聞いていて、耳に出来たタコは既に海坊主サイズのオオダコに成長している。だが、しわに埋もれそうになっている目をしょぼしょぼと瞬かせているのを見ているとやっぱり可哀そうに思えてくるところが自分でも不思議だ。まあ、ここいらで少し弁護をしておいてやらなくてはなるまい。静子はうんうんとうなずいて見せた。

「まあな、あんたは昔っから神経質やさかい。しょうもない事をくどくど考えてるから余計に寝られへんねんな」

「しょうもないて、えらい言われようやな……」

 先ほどから静子にやられっぱなしの笑子はますますしょぼくれて目の前のコーヒーカップに入れっぱなしになっているスプーンを指先でいじくった。ただでさえ丸い背中がますます丸く小さくなる。

 静子は自分のコーヒーを指さしながら言った。

「そんなん言うてるくせに毎日ここに来て、コーヒーなんか飲んでるからますます寝られへんねん。せやけど、ここのコーヒー、薄いで。水臭いコーヒーや。あ、コーヒー臭い水か? このコーヒーで寝られへんというのはありえへんやろ。なあ、厳ちゃん」

 カウンターの中で新聞を読んでいたマスターの厳ちゃんは渋い顔で静子を見た。

「姉ちゃん、他の客の前でそんな事言わんといてや。なんも混ぜてへんで。それに姉ちゃんら、いつもアメリカンやから水臭いねん。たまにはエスプレッソでも入れたろか」

 静子はがははと笑いだした。

「そんな訳のわからん横文字のコーヒー飲んだら口腫れるわ」

 厳ちゃんは「訳のわからんのはあんたやがな」と口の中で呟きながら新聞に再び目を落とした。

「ああ、それにしても、なんやしんどいわ……」

 笑子はふうっとため息をついた。


 ここは猫間川商店街の端っこにある喫茶店サニーサイドである。猫間川商店街は大阪の下町に戦前からある古い商店街で、戦災を間逃れ、奇跡的に平成の世までその姿を残していた。昭和の五十年代までは活気あふれる下町の空気に満ち溢れていたが、バブル期にさしかかると周辺地域の再開発が進み、だんだん客足が遠のいていった。そして、平成のご時世になるとその店舗数は昭和の時代からは比べ物にならないくらいに激減していて、数える程になっている。いわゆるシャッター通りというヤツだ。暗いアーケードの通りを覗きこむと、ぽつんぽつんと灯りが見える。そういう店はたいがい他所に別の店舗を構えていて、元の店を倉庫代わりに使っているか、隠居した年寄りが長年の習慣でとりあえず店を開けているというような店ばかりだった。

 そんな中でこの喫茶店サニーサイドは稀有な存在だ。商店街の一番入口に構えているため、表の通りを歩く客を呼び込む事に成功していた。そのお陰で開店から十年になるがなんとか潰れることなく回っている。

 そのサニーサイドで毎日「水臭い」コーヒー一杯で何時間も粘るこの二人の常連客、静子と笑子はこの近所に住む後期高齢者、平たく言えば、おばあちゃん達だ。猫間川商店街も古いが、この二人も大概古い。そして生まれも育ちも猫間川商店街の近所という極め付けだ。

 真っ白になった髪を孫に選んでもらったカチューシャでまとめている、やたら元気な老婦人が静子だ。名前とは正反対に、威勢が良くてあっけらかんとした物言いは周りの人間を閉口させるのに十分だった。何を言っても堪えないおばあちゃんに静子の息子夫婦や孫達はさんざん振り回されているらしい。本人は全く自覚がないのだが、少々おせっかいで、あちらこちらに顔を突っ込んではとんでもない事をやらかすのだ。よく言えば、責任感と面倒見がいいという事なのだが、悪く言えば「おせっかいのいっちょかみ(なんにでも顔を突っ込んでくるという大阪弁)」だ。孫達からは密かに「ナンギーズの四番バッター」などという称号を頂戴している。もっとも本人はどこ吹く風で、週一回通っているいきいきサロンという高齢者のコミュニティーでは自称「超がつくほどの人気者」などとのたまっている。どこまで本当だかよくわからないが、全く人見知りしない大らかな、悪く言えば図々しく厚かましい性格は人好きするには違いない。身体の方はと言うと、これまたすこぶる元気なようで、少々足元がふらつく事はあるが、気がつけばその辺をうろついている。近所でも評判の名物ばあちゃんだ。

 もっとも頭の中身はと言うと八十五歳という歳に相応して、物忘れがひどくなってきているらしい。本人も自覚は十分にあるらしいのだが、すぐに

「あ~、最近うちもボケてしもて。いやあ、そんな事あったかいな。そんなもん、さっき食べたモンも忘れてまっせ」

などと逆手に取って周囲を煙に巻いてしまおうとする。まさしく「ナンギーズの四番バッター」にふさわしい。

 一方の笑子は静子の幼馴染で、やはりこの界隈に長く住んでいる。もっとも結婚して夫の転勤で一度は大阪を離れたのだが、三十年ほど前に未亡人になったのを機に舞い戻ってきた。五年前から出戻って来た娘と一緒に住んでいる。

 笑子はこれまた名前とは正反対で、地味で控え目な、ついでに言うならば神経質で心配性のため、いつも眉間に縦皺が寄っているようなおばあちゃんだ。小柄で細い体はちょっと強い風が吹けば飛んでいくのではないかと思われそうなくらいに頼りない。あっちが痛い、こっちが痛いと言っては毎日近くの整骨院に行って電気を当て、その後サニーサイドに寄って静子とだらだら喋って過ごすという生活パターンだ。

若い頃から何かにつけポロポロと病気を重ねてきたためか、自分では虚弱体質だと思い込んでいる。もっとも本当に虚弱体質でよれよれなら、八十五歳までも生き永らえるという事もなさそうなものだ。その証拠に整骨院の先生からは、年相応の体の不具合はあるものの、すぐさまアチラに行くような緊急性の高い病は持っていないと断言されている。

「歳やからな、そら、あっちも痛いしこっちも痛い。明日死んでもしゃあないわ。せやけど、ちょっと動いたらここらへんがきゅ~と痛うなって。ちょっと動くとドキドキするやろ? これがまたつらいんや。なんで治らんのやろなぁ。ああ、きっともうじきお迎えが来るわ……」

 と、情けなさそうに言うのが口癖だ。あきらめているのかそうでないのか、悟っているのかいないのか、よくわからない揺れるお年頃なのである。

 そんな二人が毎日のようにサニーサイドに立ち寄っては、毎日のように同じ会話をくりかえすのだから、一番かわいそうなのはそれを毎日のように聞かされ、そして大した売上にもつながらないサニーサイドのマスター、厳ちゃんだろう。

 厳ちゃんは静子の弟で、静子より十五歳年下の七十歳だ。老年と呼ばれるところに足を突っ込んでいるものの、白髪の交じった髪を後ろでちょんとくくり、赤いチェックのカジュアルなシャツとジーンズというアメリカンな格好が似合う男性だ。昔は和菓子職人だったが、実は和風よりアメリカンにずっと憧れていた。サニーサイドは厳ちゃんが長年抱いてきたアメリカンドリームが満ち溢れていて、落ち着いた雰囲気ながらも、アーリーアメリカンのインテリアや古びたジュークボックスが置かれてあり、BGMにはいつもオールディーズが流れている。

 姉弟とは言いながら、静子は厳ちゃんの親代わりと言ってもいい。忙しい両親に代わって赤ちゃんの頃の厳ちゃんの世話をしたのは静子なのだ。おかげでお互いに老人と呼ばれるような歳になっているにも関わらず、厳ちゃんは静子に頭が上がらないと来ている。

 ちなみに二人の実家は饅頭屋で、後を継いでいた厳ちゃんが十年前に一大決心をして廃業し喫茶店サニーサイドを作ったのだ。その時も静子が結構な金額の援助をしたという経緯があり、厳ちゃんは結局いつになっても姉ちゃんに頭が上がらない。そんなこんなで、静子の格好の暇つぶしの場とされても文句も言えないのだ。

 アーリーアメリカンとはまるで縁のなさそうな二人のおばあちゃんはランチの直前までサニーサイドの特等席を乗っ取って時間をつぶし、用事のない日は昼からもやってきてまた朝と同じような話をしながら時間をつぶすというのが、ここ十年の日課となっていた。特等席である窓際の席は、この二人にとっては甲子園の年間予約シートのようなものだろう。

「そう言えば、厳ちゃん」

 笑子がカウンターの中へと目をやった。厳ちゃんは不景気な顔で新聞を読みふけっている。この時間帯は大概この二人の後期高齢者以外に客がいないことが多い。不景気な顔にもなるというものだ。

「あんたも体調悪いって言うてたんちゃうの。病院は行ったんかいな」

「あ? ああ、明日朝から行ってくるよ」

 厳ちゃんは新聞を畳んでカウンターの下に置いた。

「ほんなら明日は休業か?」

 静子と笑子は顔を見合わせた。二人にとっては大問題だ。

「明日は明恵に頼んであるから」

 明恵とは厳ちゃんの嫁である。普段はモーニングとランチの時間帯に調理を手伝いに来る。が、普段から無口で無表情なのでカウンターの中にいても存在感はほとんどない。たまに口を聞いても取りつくしまもないというくらいにぶっきらぼうなので、明恵がいたからと言って会話が弾むこともなければ、場が明るくなるということもない。そもそもあまり接客は好きでないらしい。

「そうかぁ。明恵はんか……」

 静子が声を潜めた。

「うちらの事、うるさそうにしよるからなぁ。長居はでけへんで」

「なんやて?」

 耳が遠くなってきている笑子が聞き返す。

「明恵はすぐにわてらの事をうるさそうにしよるから、長居はでけへんなあ!」

 静子はでかい声で言い直した。せっかく声を潜めて言った意味がない。厳ちゃんは顔をしかめた。うちの嫁やのうても、このばあさん達相手にうるさそうにしない人はおらんやろ……。心の中で呟きながらも、静子には言えないところが悲しい厳ちゃんなのであった。


<続く>

この物語の登場人物・登場する場所は架空のものです。猫間川はかつて実在した川ですが、現在は埋め立てられ地図上には存在しておりません。

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