後編
『夏空』
その日の昼も普段同様、空条とともに扉の窓から差し込む陽光を背に弁当箱を広げていた。
初めて一緒に食事をしてからすでに一週間もたとうとしていたが、相変わらず、俺ばかりが喋っているという構図は変らない。けれど、なんとなく打ち解けているような気もしつつあった。
一週間の間、学校のある日は毎日、空条と昼食を食べている。意識するようになったからかはわからないが、校舎内でも彼女を見かけることが多くなった気がする。が、話したりするわけではないので、空条と会話できる時間は、この昼休みの一時間程度だ。まぁ、それでもわかったことはいろいろあった。明らかな空条のイジメを認識するようになったことも含めて。かと言って何かができたわけでもない。
それとあの時以来、妙に勝也とは疎遠になった。昼飯を一緒に食べなくなったのが主な原因なのだろうが、なんとなくそれだけが理由でないのはわかる。ただ、その他の理由というのはわからない。
なんとも言えない暖かさの光。もとより人が少なくどこから吹いてくるのか隙間風もあり、夏だというのに妙に涼しい。食事をするにはちょうどいい、穴場というには最適な、実に快適な場所である。にもかかわらず、光が窓からのもののみなせいか、その空間には言い表せない寂しさがも混じっていた。太陽が雲に隠れてしまうと一瞬にして暖かさも消え、薄暗く冷たい空間へと変わる。
いつも通り食事を終えていつも通りのお話タイム。あいも変らず他愛もない話ばっかりだったが、
「そういや、どうしてこんなとこで飯を食べ始めたの?」
すっかり、忘れていたのだろう。我ながらあまりにも頭の悪い、相手に対する思いやりのかけらもない軽率な発言をしてしまった。言った瞬間にハッとなる。そんなもの当たり前じゃないか。なぜ、そんな相手の心を抉るような発言をしたのか、自分の思慮の無さに憤りさえ感じた。空条のほうもその質問に一瞬黙り込んでしまう。
「あの、ごめっ……」
「あのさ」
言いかけたところで空条に言葉を被せられる。
「空、好きなんだよね」
息を吐き出すのと同時に紡がれる。静かな声。
「本当は屋上にでれればよかったんだけど、鍵開けられないし。だから一番近いところにいようと思って。ほら、海もそうなんだけど、なんか空とかってどうしようもないくらい大きいじゃん? それを見てるとなんか嫌なこととかも、なんかちっぽけだなーって思えて気にならなくなるんだよね。だから」
声が震えていた、と思う。多分一週間毎日のように話したけど今まででこんなに長いこと空条が連続で話していた記憶はない。いつも質問の答えとかに簡単に答えたり同じように、質問したり、その程度だった。そして、この空条の言葉を聞いて気付いた。
あぁ、このたった一つの質問が馬鹿なワケじゃなかったのか、と。そう、初めて昼食を一緒に食べたあの日から俺は重大な勘違いをしていた。
本音を聞いたわけではない。それは当たり前のことだった。俺は空条がとても強い人間でイジメとかそういうのが気にならないんだと思っていた。弱音を吐くこともなく、そういう素振りも見せないから、勝手にそう思い込んでいた。だけど、そんなわけ、ない。他人から敵意を持って接しられるのは誰だってつらい。当然、空条だってそれに漏れない。まるで存在しない人間みたいに扱われて、つらくないわけがない。つらくないのならば、クラスで普通に食事をしていればいい。つらいからわざわざこんな人気のない、人の近寄らないところで食事をしているのだ。
自分の馬鹿さ加減に気が滅入る。
その日、俺は部活を休み、放課後ぼんやり、屋上前のホールに一人座り込んでただ考えていた。いつもと違いオレンジ色の太陽がホール全体を自分の色に染め上げている。どれだけ、自分が馬鹿だったか、自分はこれからどうしたらいいのかと、ただ考えていた。思考がぐるぐる回って一向に考えがまとまらない。イジメをやめさせるとしてもどうやったらいいのかわからない。どうしたら、空条の気持ちは楽になる? どうしたら、どうしたら。
考えてる間に綺麗なオレンジ色は群青に染まり、そして暗くかわりつつあった。イジメは辞めさせる。どうやって? 他学科で、彼女の世界をここしか知らない俺は、どうして、彼女を取り巻く環境を変えられる。じゃぁ、どうしたら、彼女の気持ちは楽になるのか。
ふと、思い出した。そういえば空条の誕生日はもうすぐだ。数日前にそんな会話をした。確か、今日から計算して5日後だったか。ふと、屋上の扉を見て閃く。
こんなもので彼女の気持ちが完璧に楽になるとは言えない。根本的な解決になるとはいえないし。だけど、すこしでも彼女の気持ちが紛れるのであれば、これは今までの自分の馬鹿さ加減への彼女に対する多少なりの償いにはなりえるかもしれない。そう思い、俺は駐輪場まで走り、自分の自転車にいつも挿してある傘を地面に叩きつけた。
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「昨日はどうしたんだ? 大会だって近いんだぞ」
登校早々、勝也に声を掛けられた。部活以外ではだいぶ久々な気がする。どうやら昨日の無断欠席で先輩やらが怒っていたらしい。当然、自分が休んだのが原因であれば、一番親しかった勝也にその怒りの矛先が向く。
「ごめん」
素直に頭を下げる。「まぁ、いいよ」と勝也は踵を返して自分の席に向かおうとしたが、俺は咄嗟に勝也の手を掴んだ。不機嫌そうに、こちらを振り向く。その目は不機嫌というよりは侮蔑の意を含んでいる。今まで同じようだったのに今日初めて気がついた。そして、その理由には昨日気がついたばかりだ。
「俺は馬鹿だったみたいだ」
そう言う時、俺は勝也に目を合わせる事ができなかった。勝也は何を思って俺に空条の場所を示したのか。それを思えば目を合わせることなんてできない。勝也はその口調や行動から軽く見られがちだが、それは勝也の本質じゃない。無駄に正義感が強くて、困っている奴を放っとけない奴だ。だからこそ、皆から慕われている。そんな、勝也が空条のイジメを知っていて、それに対して何も思わない訳が無かっただろう。だけど、俺が偶然、空条と話すきっかけを得た。それで、すこしでも空条の手助けになればと思ったんだ。にもかかわらず、俺が空条に対しての評価を最初どう言ったか。イジメなんて気にしていないみたいだ、だ。そりゃぁ、俺に対して絶望するのも無理はない。
「そうか」
勝也はそう言って、身体全体をこちらに向け、その場にしゃがみ込んだ。腕を俺の机の上に置き、目をしっかりと見つめてくる。
「んで、どうすんだ?」
さっきの俺の言葉で全てを悟ったのだろう。そう尋ねてきた。先ほどまでのネガティブな感情のカケラものこってはない。真剣な表情だ。
「とりあえずは気晴らしでもさせてあげられたらとは思っているけど。とりあえず今はまだ」
それに対して俺の答えは実に情けないこと。具体的には何もできませんと言ってるようなもの。しかし、勝也の方はにっこりと微笑むと「そうか」といって、満足げに立ち上がった。
「まぁ、とりあえず気付けたならいいさ」
「あのさっ、度々で悪いんだけど頼みがあるっ」
俺は勝也の言葉を吟味することなくそう口に出した。頼ってばかりではあるものの今のうちに頼れるのは勝也だけである。勝也に対しては既に充分に醜態を晒した。ならばもう、開き直って恥も外聞も捨ててできる限りのことをしよう。
「今日の部活、いや下手したら2、3日部活休むかもしれない。だから先輩に言い訳頼むっ!」
それを聞いた勝也は一瞬、考えたがあっさりと「了解」と快くこの無茶な頼みを承諾する。そして、自分の席へと歩いていってしまった。
部活を休む準備はできた。後は残り四日で準備をするだけ。そうして、俺は放課後になる度に屋上前ホールへと足を運んだ。
ピッキング。一時期問題になった合鍵もなく鍵を開ける技術のこと。俺は屋上とホールの間にある扉のドアノブ。それに付いている鍵穴に、元はクリップだった針金と傘から取り出した金具をがちゃがちゃとつっこんでいる。入学したばかりのころに俺は自転車の鍵をなくしたことあった。自転車が無ければ帰宅には時間が掛かるし、鍵は見つからないし。そう途方にくれている時に偶然通りかかった勝也にこのピッキングで鍵を開けてもらったことがあった。それが初めての勝也との出会い。助けてもらったにもかかわらず、悪い奴だなーなんて、思っていた。
見よう見まねであるが、まさかあの時のことがこんなことに役立つとは思わなかった。自転車の鍵とはものが違うし、本当に開くのかわからなかったが。やるだけの価値はあると思った。
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皐が何をしているのかはわからないけども。
俺はエナメルバッグを肩にかけて部室へと向かう。片手には携帯電話。受信メール一件。相手の名前はつい、この間、空条の情報をいろいろ教えてもらった相手であり、俺の、彼女。
携帯電話にでているショートカットを押して受信メールを確認する。
『私も頑張るね』
そのメールを見て自分でも表情が綻んでいるのに気がついた。
きっと、いい方向に進んでんじゃねぇかな。皐はきっと空条を助けてやるだろう。
俺は今回の件に関してはほぼノータッチ。周りからつっついているだけだ。傍観者気取って事態をこねくり回しているだけ。これがいいことか悪いことなのかはわからないけれども。きっとこれで皆のもやもやは少しでも治まってくれれば。ただ、問題が一つ。
挨拶をしながら部室の扉を開ける。早い時間ではあったがちらほらと他の部員の姿があった。そして、後藤先輩の姿も。後藤先輩は大袈裟な手振りと口ぶりで携帯ゲーム機で遊んでる。
大嫌いな先輩。いろいろな話を聞いた。そして出た結論がそれだ。人のことを平気で傷つけてそれをなんとも思わない人間。
まったく、どういう風な家庭で育てばこう育つのだろうか。
ふと、後藤先輩は携帯ゲーム機を鞄の中に仕舞い込むと、立ち上がり後輩に声をかけた。「ジュース買いに行くぞ」と。相手も俺が嫌いなことはわかった。まぁ、露骨に俺が嫌いアピールしてるんだから九割九分九厘俺が悪い。
にしても、どうしたって、空条のことはイジメの原因をどうにかしなきゃ、根本的な解決にならない。ただ、その解決方法がわからない。原因こそわかっているのに。
怒鳴り声が響いてきた。遠い。多分は校舎側からだろう。しかし、俺が何よりも驚いたのはその声に聞き覚えがあったからだ。
「皐……?」
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放課後になると、部活にもいかず、ただただ、このドアノブと格闘していた。時折熱中して帰りが遅くなって、怒られることもあったものの、必ず扉を開けられると信じてただ針金をいじり続ける。
そして気がつけば空条の誕生日を翌日に控えていた。掃除当番でもなく、いつもより早くドアノブに向かいものの数分、かちゃっという軽い音とともに鍵穴が回ったのがわかった。それまで何かがつっかかったかのように回らなかったドアノブはいとも簡単に回り、ゆっくりと前にずれる。今までの苦労がなんだったのか。それはいとも簡単に成されてしまった。
「開いた」
その喜びは一入。なんというか、今までこれほど集中して何かを遂げたことはなかった気がする。部活を真面目にやっていなかったわけではないのだが。俺はドアノブにもう一度手をかけた。が、俺はその扉を開けなかった。あくまでも個人的な気持ちの問題ではあったが一番最初にこの扉の外の風景を見せる人物は俺の中で決まっているからだ。
空条はこれをよろこんでくれるだろうか。
その場から立ち上がり鞄を背負い俺は立ち上がりグラウンドの方へと向かった。そんなに行ってないわけでもないのだが、久々に部活に行くという気持ちからか、足早に階段を降りる。
まずは、勝也にお礼を言わなければいけない。言い訳の内容もまかせっぱなしで。今回はいろいろ迷惑をかけまくった。本当に感謝しなければならない。
と、不意に目の前に見覚えのある二人の後姿が見えた。陸上部の後輩と先輩、後藤先輩だった。声をかけようと悩んだが、後藤先輩に会えばまたくだらない自慢話を聞かされるな、と、とりあえず数メートル後ろをのんびり歩いていくことにした。あっちはこっちに気付いていないのか大きな声で何かを話していた。その内容は嫌でも耳に入ってきたのだが、それはあまりにも予想外のもの。
「馬鹿だよなぁ空条。せっかく俺が声をかけてやったのにさ。断るからイジメられたりすんだよ。女子も女子でさ、俺が空条にしつこく言い寄られてんだって言っただけであんなえぐいことすんだもんな。ほんとあったまわりぃ」
後藤先輩の笑い。一瞬耳に入ってきた言葉が現実か疑わしかった。しかし、何度反芻してみてもその言葉の持つ意味は決して変ることがない。持っていた鞄を落とした。手の震えが止まらない。
「先輩」
声は震えていた。その理由は一つ。そして頭の中もそれ一色に染まっている。
「おう皐か。どうした最近部活きてなかったじゃねぇか」
そう、後藤が振り返った。その顔は今までみた全ての顔の中で最も憎らしく思える。マイナスの感情。その何も考えてないような表情には怒り、いや、それすらも超える殺意にも近い感情が芽生えていた。
「今の話、本当ですか」
必死に感情を抑える。感情でつっぱしっちゃだめだ。そう言い聞かせ手の震えを止めようとする。きっと聞き間違いに違いない。いくら後藤先輩が嫌いだからってそんな風に、濡れ衣を、着せちゃ、いけない。
言い聞かせる。
「あ、空条の話し? そうだよ。まったく、馬鹿な奴だよな。ホント」
再び笑い声が響く。握られた拳が震える。必死に抑えた。
「そういえば、柊は二年だったもんな」
殴ったところでどうにかなるような問題ではない。状況は好転しない。
「お前も気をつけた方がいいぜ」
歯を痛いほど噛み締める。が、
「女って怖いからさ」
ムリだった。
咆哮。何を叫んだのか、怒鳴ったのか。
気付けば握り締めた拳の先に柔らかい感触が伝いその後にそれが固い感触に変り、そして、その後に衝撃と焼けそうなほどの熱だけが残った。俺は先輩を全力で殴り飛ばしていた。全力で振りぬいたせいで肩にも拳にも痛みが残っている。顔面を殴ったせいだろう。歯が刺さったのか拳には真赤な自分の血が滴っている。荒い呼吸。自分の心臓の音だけが耳に響く。足りない。こんなもんじゃ。
「柊ぃっ!! てめぇどういうつもりだっ!!」
倒れこんでいた後藤は立ち上がり拳を握り締め肉薄してきた。頬に熱い痛みが響く。口の中にはじんわりと鉄の味が広がる。だけど、そんなものは気にならなかった。
「お前のせいでっ!」
両手で握りこんだ拳を振り上げてそのまま振り下ろした。背中へとめり込み、低く鈍い音が空気を揺らす。先輩が肺の中の空気を一気に吐き出すのがわかった。後藤は体勢を崩し俺へとシがみついてくる。俺はすぐさまそれをふりはらった。
「空条がどんな思いだったかっ!」
ふらつく先輩の腹に俺の脚がめり込む。そして、すぐさま、それを追う。
「わかってるかっ!!」
「やめろっ!」
振り出した右拳。しかしそれは空を切り、俺は後ろへと強く引っ張られる。気がつけば俺は羽交い絞めにされていた。低い位置。微妙に膝を曲げなければその高さには合わせられない。そして、聞き覚えのある声。それは勝也のものだ。
直後に先輩も立ち上がり殴りかかろうとしてきたが、後輩に押さえ込まれていた。さっきまで呆然と見ているばかりだったが、勝也が来たことでわれに返ったのだろう」
「お前がくだらない理由でっ! 空条をっ! 」
「あぁわかってるよ。とりあえず、すぐに教師がくっから。大人しくしとけ」
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こうなるとは予想もしなかった。
イジメの原因。それは後藤先輩とその彼女が原因だ。
入学したての頃。当時、美少女として空条は上級生からも騒がれたりしていたらしい。まぁ、実際、空条は昔から人の目を惹くほどの美人だった。皐が一度も見かけたことが無かったのは偶然としかいえないが。ともかく、それを見た後藤が俺なら落とせると空条に声をかけた。まぁ、確かに顔もいいし、それなりの自信があったのだろう。が、多くの後輩や同級生の前であっさりとひとこと。「すみません、興味ないので」と断られてしまう。大勢の前で恥をかかされた先輩はそれに腹を立て、自分の彼女に耳打ちしたのだ。「空条がしつこく言い寄ってきて大変だ」と。それでその話しは部活を通じて空条のクラスにも伝わりいじめに発展した。まったくもって馬鹿らしい話しだ。ちなみにこの話しは陸上部周辺の男子なら殆ど知ってることでもある。
俺はそれを耳にしたときはどうしようもないほどの怒りがわいたが。結局どうすることもできなかった。どうすれば穏便にイジメを中止させられるのかが思いつかなかったからだ。口で言ったところで聞くような相手ではなかった。その話しをしたことも一度や二度じゃなかったが、先輩はただただ、俺には関係の無い話だととぼけ続けた。
俺は教師に連れられて生徒指導室に行く皐、そして保健室へと連れて行かれる先輩を見送っている最中、先ほどの騒ぎの野次馬の中に空条の姿を見つけた。皐が階段の上に消えるのを見届けると、すぐに空条に駆け寄る。そして声をかけた。
「空条さんっ」
「え、どなたですか?」
一瞬、驚いた様子だったが、俺が慌てて「皐の友達です」というと目を伏せて小さく「すみません」と申し訳なさそうに空条は呟いた。
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先生の方も驚いたのだろう。言われてみれば確かに自分は問題を起こしたことが無かった。見つけたときの先生の計らいか、担任は勿論、陸上部の顧問までもが生徒指導室にきており、いろんなことを質問された。担任のほうは、妙にテンパっていろんなことを捲くし立てられたが顧問の先生はいろんなことをフォローしてくれた。とりあえず、俺はその時どうしようか悩んでいたが結局全てを話したのは顧問の先生が二人きりで話させてくれ、と担任に申し出て、二人きりになってからだ。顧問の先生は俺が話している間ずっと黙って話を聞いてくれ、今後のことはいったん先生に任せなさいと言って、生徒指導室から帰してくれた。
「失礼しました」
あれだけのことをしたにもかかわらず、随分と呆気なく帰してくれた。実際はこんなものなのだろうか。生徒指導室から出て扉を閉め、振り向く。と、そこには勝也と空条の二人がいた。
二人は俺がでてきたことに気付くとすぐに駆け寄ってくる。
平手打ち。一瞬何が起きたのかわからなかった。ただ後からびりびりと痺れにもにた痛みが頬をじんわりと熱くさせた。
「下手したら退学だってありあんだよっ!?」
空条の言葉は語尾に向かうにつれどんどん感情的になっていった。それに対して弁明はできた。後藤先輩のことが原因だって言えば。イジメの原因はあいつだったんだって。ただ、その言い訳がいかに愚かしいことかも同様にわかっていた。だってそうだろう。そうするように頼まれたわけでもない、復讐するつもりでもなかた。ただ腹が立ったから殴ったのだ。結局は自分の都合で相手を殴った。言い訳はできてもあくまで言い訳であり、本意とは違う。それを言っても自分の価値が下がることだけなのはわかっている。
「もし、柊君がいなくなったら。」
そこまで言って、彼女は俯いた。そして、唐突にその場から走り去った。
俺は自分の頬を撫で、状況を確認する。そして、視線のみが彼女の後姿を追った。
「まさか、お前があそこまでやるたぁなぁ」
空条が見えなくなった頃にやっと勝也が口を開く。そして、促すように指で部室の方へを指差すと部室のほうへと歩き出した。俺もその後を付いていく。無言。部室に入ると、勝也が救急箱から湿布を取り出し俺に投げた。
「ほらよ。冷たくて気持ちいいぜ」
俺は受けとった湿布を叩かれた頬に張る。そして、部室に入ると、力が抜けるようにその場に座り込んだ。
「はぁ」
俺は大きな溜息を付き、俯く。急に自分のしたことに対する後悔の念が強くなってきた。退学だってありうる、というその言葉がずっと頭をぐるぐる回る。そして、何よりも空条に嫌われたかもしれないというのもどんどんと背中を丸くさせる原因だった。
「心配なのはわかるけど、きっと井上ちゃんがなんとかしてくれるからそんな落ち込むな」
井上ちゃんとは先ほどの陸上部の顧問のことである。直接本人の前ではいえないが陸上部の面々はみなそう呼んでいた。
「今回はやりすぎだけど、そういう風に素直に腹をたてんのも大事だと思うぜ」
「知ってたのか?」
「あたりまでしょう。俺を誰だと思ってはるんですか」
そう勝也は笑う。確かにあんなとこで自慢げに語ってるんだ。そりゃぁいろんな奴の耳に入っているのかもしれない。
「まぁお前の場合は空条のことの方が心配なんだろうけどな」
図星です。心が読まれているんじゃないかと思うほどにがっつりと考えを的中させられてしまう。また、今の考えがそのまま表情に出ていたのか、「やっぱりな」とまた勝也は笑って見せた。
「俺がどうにかフォローしてやるよ。明日は空条の誕生日だ。その為に部活も休んでたんだろ?」
まったく、敵わない。完璧に見透かされている。まぁ、今に始まったことじゃないのだけれども。ただ、この申し出はとてもありがたかった。もしかしたら、仲直りのきっかけになるかもしれないし。
「俺は本当にお前に頼りきりだな」
「そうでもねぇさ」
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翌日。とりあえず、俺の処遇は次の休日明けからの一週間の間の停学ということになった。すでに、短縮授業に入っていたのだから、実質的には、ほとんどお咎めなしと変らない。あれだけ派手にやっておきながらその程度に済んだのは顧問の井上先生のおかげと言えるだろう。正直出来すぎなくらい。まぁ、クラスの中での評判がすこぶる落ちたのはどうしようもないが。特に一部の女子からはだいぶな扱いを受けている。一方で例の後藤先輩を嫌っていた人間も存外少なくなかったらしく、その手の人たちには「良くやった」などと本当ならばあまりよろしくない言葉をいただいたりもした。とりあえず、俺の処遇に対しては勝也曰く羨ましい、の一言に尽きるらしいのだが。
放課後、担当の先生方々から停学中の課題を受け取り、俺は屋上前ホールへと向かった。あれ以来空条にはあっていない。勝也はきちんと空条に来るように伝えたというのだが、実際あの時のままだからいまいち会いづらい気もする。というか嫌われていたりでもしたら最悪なのだが。
とりあえず、は来てくれたらしい。逆行の中、空条の姿をみつけた。
「「あのっ」」
お互いに口を開き、そして同時に黙り込む。そしてもう一度も
「「先にどうぞ」」
完璧なタイミングだ。二回ともはもってしまう。それから、一瞬の沈黙を置き、どちらともなく笑い出した。ホールに二人の笑い声がこだまする。その時初めて俺は空条の本当に楽しげな笑い声をきいた気がした。
どれだけ笑っていたか、どうにか、呼吸を落ち着かせ、目じりに溜まった涙を拭うと、先に口を開いたのは俺のほうだった。
「お誕生日おめでとう」
一瞬、おどろいた様子だったが、「あぁ」と思い出したように空条は頷く。そして、「ありがとう」とにっこりと微笑んだ。やっぱり可愛い。その笑顔にせっかく呼吸を整えたというのに今度は動機が激しくなってきた。とりあえず、今度こそ顔が赤くならないようにおさえつけようとしつつ、とりあえず空条を扉の前まで誘導した。
「何?」
「誕生日プレゼント」
不思議そうに尋ねる空条にそう答えるとドアノブを回し思いっきり扉を蹴り開ける。急に眩しくなったために一瞬視界がホワイトアウトする。そして、その直後に一面の青が目に飛びこんできた。
それは海であり、空であり。そこは立地条件の下、海と空、そしてその果てまで一望できる最高の場所だった。まぁ、当の屋上自体は鳥の糞まみれであまり綺麗と言い難い場所だったが。それを差し引いたって雄大と呼ぶには充分過ぎるほどの景色である。
その風景に、隣にいる空条も目をきらきらと輝かせて見入っている様子だった。そして、突然子供のように走り出すと、屋上でくるくると回り、割かし、綺麗なところにそのまま寝転がる。俺もゆっくりと、空条の隣まで行くとその場に仰向けに寝転がった。綺麗といっても随分と使われてなかったんだから、当然汚い。けど、そんなことはお互いに気にしない。今はただ鼻に入ってくる潮の匂いとどこまでも青い空に夢中だった。風に乗って波の音までが響いてくる。それはとても心が落ち着く音であり、空だった。
「本当に馬鹿みたいに大きくって馬鹿みたいに青い空だ。確かに嫌なこと全部忘れられるわ」
俺はそう言って大きく一つ深呼吸をする。まるで、自分が飛んでいるような錯覚に落ちいる。それ程に底抜けに青い空だった。
「本当に」
空条はそう言ってから間を置いて、皐の方にもう一度向き直ってから口を開く。
「ごめんね、柊君。私、知ってたんだ。どうして柊君があの先輩を殴ったのか」
そっか、知ってたんだ。
「ただ、なんか、私のほうがパニックになっちゃって。わざわざ私のためにしてくれたのに。ごめ……」
「平気」
そう言って微笑みながら空条の言葉を遮る。その言葉は今必要ないだろう。
「そっか。ありがとう」
そう言って空条はもう一度空を眺めた。俺はその空条を横目で見る。
――不意に気がついた。そうか。だからか。あんなに腹が立ったとのも。あんなに気になって仕方が無かったのも
まったく気がついてみれば簡単なことだった。なんで気がつかなかったのか不思議なくらいに。こんなもん小学生だってわかる。こんなにも、こんなにも簡単なこと。
そうか、そうだったんだよな。
やっと気付けたよ。
「あのさ、空条」
つまり、この気持ちは。
「ん?」
――いや、やめておこう。この気持ちはもうちょっと心の中に大事にしまっておくことにする。
「いや、なんでもない」
そう言って、俺は微笑んだ。
「なんだよー」
そうして二人の笑い声はこの間抜なほど青い空にどこまでも飲み込まれていく。
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「つまんねー」
皐は停学中。やっぱりあいつがいないと昼飯を食っててもあんま面白くない。
「まぁ、そんなこと言わないで」
そう言って空条が苦笑する。皐がいない間の変りというんじゃないけども、俺は空条と飯を食ってた。
「だってさぁ」
そう言ってると不意に階段のほうに人影が見える。俺はその人影が誰だか知っていた。今回、空条のことに関していろいろ情報を教えてくれた人物。俺の彼女でありかつて空条の親友だった人だ。
空条はその女性を見て驚いた様子で持っていたパックの牛乳を落とす。俺はおもむろに立ち上がると、すっと、彼女の横を抜け、階段を下りていった。
「俺がいると言いづらいでしょ?」
それだけ言って。
彼女はイジメの矛先が自分にも向かうのが嫌だったから。そんな理由で親友の元を離れた。それに対し空条は何も言わなかったらしいが、そんなものは関係ない。自分の行為によりいかに空条が傷ついたかは誰にでも容易に想像できたし、距離をおいた彼女自身も罪悪感に苛まれ続けた。ずっと謝りたいと思っていた。
階段をおりきる頃、屋上前のホールから大きな声が響く。
「ごめん、夏希!!」
涙声。
それから少しして空条夏希の小さく震えた声が聞こえた。