前編
『夏空』
俺は占いというものに興味がなかった。手相、星座、血液型、その他いろいろ。とにかく占いというものは胡散臭いという印象しかなく、そんな怪しげなものの為に、自分の行動を左右されるのはとても馬鹿らしい。それに占いというものが結局は統計学だってのも知っていた。
勿論、信じてる奴は信じてるで構わない。占い師が詐欺師だというように言うつもりもない。それで救われる人がいるなら結構なことだ。占いが流行ってるということはそれだけ需要があるってことだし。ただ、俺が信じていないというだけ。まぁ、何が言いたいのかというと、俺個人としては占いっていう胡散臭いもの信じる気はないし好きにもなれないということだ。
『今日のおうし座は残念だけど十二位! 今日は今年一番のアンラッキーデー、何をやっても失敗してしまう予感。外出やイベントへの参加はできるだけ控えて。トラブルにも巻き込まれやすいのでとにかく、今日一日はいろんなことに注意して過ごしましょう! ラッキーアイテムはトムヤムクンです! それじゃぁ今日も頑張って!』
この占いの末、財布を落とし、何度も何もないところですっころび、自転車のチェーンが急に外れて、挙句にパンクして、朝学校に遅刻したとしても、俺は断じて占いを信じるつもりはない。なんだ、ラッキーアイテムがトムヤムクンって。日常的にそんなもん食べる機会なんて滅多に無いだろ。
まぁ、何にせよ、俺は例え今後どんだけ不運なことが起きても、占いなんて信じるつもりはない。
=
夏場特有の生ぬるい風が身体をなぞっていく。普段だったらまだ日も落ち始めの頃だというのに辺りは薄暗く、空いっぱいに幅を利かせる厚く鉛色の空と時折、遠くに低く響く雷音が人々に夕立の襲来を予感させていた。
海沿いにあるというだけの大きくもなく小さくもない、どこにでもあるような街。観光で栄えているわけでもなく、多少なり古臭い風景が残るもののコンビニもあればファミレスもある。都会とは言えないけど田舎でもない。生活に不便はないけれど、かといって華のあるわけでもない。そんな平凡な街。
そんな街にある小さな高校の小さなグラウンドでは、それぞれの部活がお互いに活動範囲を決め、細々と活動を行っていた。
「雨降り出しそうだな」
グラウンドの端。部活の締めとして学校の外周を走り終えた柊皐はそう呟き、その曇天を見上げた。そして、その百八十センチをゆうに超える大きな体をくの字に曲げてその場に屈むと、ずるずると地べたに座り込んだ。長距離を走って来た直後の火照った体を包むこの気温。おかげでどれだけ、ジャージの袖口で汗を拭いてもすぐに身体から汗がにじみ出る。おかげで、もともとワックスでしっかりとセットされていた筈の髪の毛は、すっかり力なく垂れ下がってしまっていた。
とりあえず、その場で休んで呼吸を整える。と、不意に皐の隣に息を切らした少年が、どかっと腰を下ろした。少年は近くにおいてあった陸上部用の青いボトルから水を浴びるように飲む。が、その勢いで着ている体操着の胸にまで、水が掛かってしまっていた。元より体操着が汗でびしょびしょになってきてしまっているのであまり関係はなさそうではあるが。
「お前、早すぎだよ。外周5週で十五分っておかしいだろ」
一頻り水を飲み終え口周りを体操着の袖口の水を拭き取ると、息もかれがれに、彼は言った。この彼の名は椿勝也、柊皐と同級生でお互いに今年高校二年の十六歳である。しかし、同じ年齢でありながらも、二人の容姿はあまりにもかけ離れたものがあった。平均よりもずっと身長の高く、若干ふけ顔で実年齢よりも年上に見られる皐と、平均以下の身長しかなく未だに中学生にしか見てもらえない程に童顔な勝也。入学当初から同じクラスで一緒に陸上部に入ったので二人はわりと一緒にいることが多かったが兄弟に見られることがほとんどだった。一度は親子だと言われたことすらある。それほどまでに外見的には対照的な二人だったが、性格に関しても対照的と言えた。皐は、わりとぼーっとしていることが多く、それ程口数も多いほうではない。暗いというワケではないのだが、何を考えてるのかイマイチわからないタイプというのが、彼を取り巻く人たちの意見。一方の勝也はというと、お喋りでどんなグループにでもすぐに馴染むことのできる、底なしに明るい男。クラスのムードメーカーで女子からの人気もs上々だ。ついでに言うのならばすでに勝也には彼女もいる。
「俺が早すぎるんじゃないだろ。お前は最初っから飛ばしすぎなんだよ」
皐は勝也の方をみることもなくそう普段通りの低い声で言うと、ゆっくりと立ち上がり部室のほうへと歩き始めた。勝也も立ち上がり、早足でそれに付いていく。
「うっせぇなぁ、しょうがねぇだろー。スプリンターなんだからペース配分なんてわかんねぇもん。走りきった後に体力残ってたらもったいねぇじゃん。これが俺の走り方なの」
そう、勝也は嘯く。それに対して「はいはい」と皐はめんどくさそうに手を振って彼の言葉を聞き流した。それは、いつも通りのやりとりだ。しかし、それを遮るように、ぶちっという何かが引きちぎれ音が響く。それとともに皐が足を止めた。
「どったの?」
急に皐が止まったので、先ほどの音のことを含めて勝也も立ち止まり、しゃがみこんでいる皐の方を覗き込んだ。
「あらら、きれいにいったねぇ」
皐がしゃがみこんで確認しているその視線の先には皐の右足があった。そして、彼の履いている靴。その紐が真ん中辺りできれいに千切れている。何かが引っかかって切れた、というよりはいかにも紐が痛んで耐えられずに切れましたという感じだった。
「……絶対信じないぞ」
そのままの体勢で皐がぼそっと呟く。勝也はその言葉が聞こえていない様子だったが、皐の今日の不運の程を知っていたためか、皐の機嫌を気にした様子で「まぁ、そんな時もあるだろ」と、苦笑しながらも皐の肩を叩いた。
皐と勝也が部室に戻ると二人よりも先に外周を終えた数名の先輩が既に着替えを始めていた。狭苦しい部室ではあるものの、部員が少ないため下級生も上級生と同様に部室で着替えることができる。この学校に関して言えば元より生徒総数が少ないためどこの部活でも似たようなものだったが。
皐と勝也は靴を脱いで部室に上がると投げ捨てられた自身のエナメルバッグから着替えを取り出し、先輩達と同様に着替えを始めた。新年度が始まってまだ二ヶ月半。部員数が少ないためかこの短い期間しか付き合っていない後輩も含めて、部員同士の仲はそれなりによく、勝也も着替えながら学年関係なく楽しげに他の部員と話している。普段は皐もその輪の中に入っているのだが、未だに自分の不幸っぷりから立ち直れない皐は、先輩から話を振られても軽く頷くばかりだった。
「どうした元気ねぇな。振られたのか」
先輩の内の一人である後藤という男がそう言ってへらへらと笑う。あまり爽やかとはいえない感じの笑い。普段からわりとちゃらちゃらしており、傲慢な感じがあり、あまり柊が得意なタイプの人間ではない男である。時折後輩に無茶なことを命令したりするために他の後輩からもそれほど好かれている様子はないのも事実である。ただ、顔だけはいいので女性からやたらもてる節はあったが。何にせよ、皆一様にあまり波風をたてないようにとそういう素振りをみせることなく接していた。
「いや、そんなんじゃないですけど」
が、皐は汗で湿っている練習着を片手に真顔でそう否定してしまった。とっさに笑ってどうにか、その場を取り繕う。そして、そのフォローに入るように隣でYシャツのボタンを締め終えた勝也が、皐がなんで不機嫌かを、今日の皐の不幸っぷりを話し始めた。特に言われて困るようなことはないのだが、自分が忘れているようなことまで話されると自分の不運を再確認させられ余計に落ち込む。
勝也が最後まで話し終わると「そいつはひでぇ」と先輩達はもう一度笑った。とりあえずはそれほど気にされなかったようである。
一頻り笑い終え、ふと思い立ったように後藤が言った。
「そういやぁ、お前おうし座だったよな。今日は運勢最悪らしいぞ」
知ってますけど。と心の中で皐は思いながらも。とりあえず、苦笑するしかなかった。占いとかその手のものを信じないという考えも今日一日で大分折れそうになっている。流石に財布を落としたのは皐にとって痛手だった。バイトもしてないのでキャッシュカードなどは入っておらず、自転車通学のため定期券などもない。金額も大したことのないと言えばそうだったが、残りの小遣い全額が入っていたとなると、まだ半月もある今月をどう過ごそうかと悩まなくてはならなくなる。
「くそぅ」
普段それほど周りに不平不満を訴えない皐だったが、この日ばかりはこう零すのも無理なかった。
=
皐はパンクした自転車を転がしながら海岸沿いの道をとぼとぼと歩く。それ程広くはない道。すぐ横に皐の倍程度の高さの堤防が彼方まで続いているこの光景は海岸沿いならではと言えた。とは言っても、それほどきれいに整備されているわけでもない。歩道がしっかり作られていないために俯き加減に歩く皐のすぐ横を時折すごいスピードで車が駆け抜けていく。
はぁ、と本日何度目かの溜息が皐の口から漏れた。自転車で20分程度しかかからない道も歩くとなると一時間以上はかかる。ましてや部活帰りで疲れていればその時間はより長いものだ。その現実と頭上の灰色の空のおかげで皐の気分はまさに最悪と言ったところ。そして、トドメを指すようにくたびれた頭に水滴が落ちた。その粒が自転車のハンドルを握る手の甲に落ち、その天候に皐が気がついた直後には、叩きつけるような雨粒が辺りを襲った。激しい音とともに視界が霞むほどの雨が降ってくる。
「くそっ」
さっきのように漏らすのとは違い今度ははき捨てるように言う。そして、パンクしてるのもお構いなしに自転車へと飛び乗りペダルを押し込んだ。豪雨というには充分な雨量。髪の毛は充分に水を吸い、制服も同様にたっぷりと水を含んだおかげで身体にぴったりと張り付いてしまっている。さすがにこれはあんまりだろ。パンクしたタイヤのおかげで車輪の、そして道路の凹凸の度に自転車ががたんがたんと小さく揺れる。視界を遮る水滴に目を細めながらも必死にペダルを押し進めた。
どれほど走っていたか、細かい振動で腕が痺れを覚え始めた頃、不意に皐の視界の隅に見覚えのない影が映った。堤防の上。普段通っている道なのにいつもとは違う。違和感。通り過ぎた直後にその影の存在に気がつきブレーキを握り締め、後ろを振り返る。
人影。そこにはこの大雨の中、傘もささずに堤防の上の海側、一番端に立ち尽くす女性の姿があった。腰ほどまで真っ黒い髪とセーラー服から雨水をしたたらせ、髪の隙間から覗かせる漆黒の瞳は瞬きすることもなく遥か向こう側の海の方へ視線を向けていた。
皐と同じ学校の制服。普段見慣れている服装なのにも関わらずその姿は妙に大人びて見える。白い肌と多少釣り目気味の整った横顔。しかし、テレビの中のモデルを見ているようなものとは違う。なんというか、美しい絵画を見ているような妙に現実離れした姿だった。綺麗だな。大雨に打たれずぶ濡れになっているにもかかわらず、一瞬その姿に見とれていることに皐は気がつく。
「幽霊じゃぁ、ないよな。足あるし」
その少女の儚げな姿に皐は呟いた。皐自身そう呟いた後にいかに今の発言が間抜だったと感じる。まさかそんな訳もないだろうと。
じゃぁ、なんであんなところにいるのだろうか。皐の頭の中に一つの疑問が浮かんだ。雨の中、傘もささず、微動だにせず、ただ一心に海を眺める少女。なんのためにそこにいるのか、まるで思いつかない。
――いや、一つだけ思い当たる節があった。それは、『自殺』。
名所というわけでもない。どこぞの樹海や滝のように年間何人もの自殺者が出るわけではない。しかし、飛び降りれば充分死に足る高さの堤防だ。実際、今までに何人かの子供がこの堤防で遊んで命を落としている。陸側は3メートル程度の高さしかないものの海側の高低差は10メートル以上。下に広がるのは青い海ではなく灰色にざらついたテトラポットの群れである。少女が一歩、足を前に投げ出せば、その細い身体は宙を舞い、落下の過程で加速していき、コンクリートのテトラポット上にその中身をぶちまけるだろう。
なくは、ない。
皐がそう思考した直後。その考えを知ってかしら知らずか、皐の予想を肯定するように、ふと少女が俯き、堤防のはるか下へとその顔が向けられた。
「マジかよ、おいっ……!」
冗談じゃない。目の前で死なれたんじゃ目覚めが悪いにも程があるだろう。
自転車を投げ出し、梯子を探した。少女が使ったものと同じものだろう、幸いすぐ手前側に梯子が設置されていた。普段は人が上れないように金網の扉がしまっているのだが、今日は鍵が開いる。
すぐに梯子を駆け上がり堤防の上部へと出た。
まだ、彼女はいた。飛んでいない。
堤防上部の幅は3メートル半程度。歩くのが難しいという程の狭さではないが、足を滑らせれば簡単に身を投げ出すことになる。足元から視線を海側にずらすだけで正直目がくらむ。
しかし、そんなことを気にしている場合ではなかった。
彼女の片足が浮く。
間に合わない。そう思い、雨に濡れ、黒く染まったコンクリートを蹴った。
「よせっ!!」
気付けば叫んでいた。
少女がはっとこちらを向く。そして、彼女がその小さな口を開く。
「――え?」
少女を止めようと、皐が伸ばした手が空を切った。少女が身体を後ろに一歩ずらし皐の手を避けたのだ。
「え?」
今度は皐の言葉。宙を舞ったのは皐の身体。
少女に避けられ、行き場を無くした皐はその伸ばした腕から順に堅い地面にたたきつけられ、そのまま荒い粒子のコンクリートを滑ると、そのままもう一度、その身を空へ投げた。
咄嗟の判断で一命は取り留めた。というか、今のところは生きているという程度。気がつけば足場はなく、指先とともに皐の全てが、堤防の僅かな段差に引っかかっているだけだった。それでも容赦なく雨は皐の身体へと吹きつけ、じりじりと指先から感覚を奪っていく。足から地面へは最短距離で10メートル近く。地に足つけようと思ったら死ぬ覚悟を決めなければならない。
「冗談じゃない」
涙目になりながらそうつぶやいた。女の子を助けようと思ったら避けられて意味もなく自分が死にました。なんて洒落にもならない。運がないって言ったって程があるだろう。死ぬほど運がないとか冗談じゃないぞ。そう心で叫びながらも、パニック状態の思考、そして並行する半ば諦めにも近い気持ち。
「ちょっと、大丈夫!?」
高く澄んだ女性の声。指先の感覚も麻痺して、皐の脳内に走馬灯が過ぎろうとした直後、皐の腕をつめたいものが掴んだ。
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「自殺なんてしないわよっ!」
俺の前で少女顔を真っ赤にしてそう語気を強めた。
先ほど俺が危うく人生に幕を下ろしそうになった堤防とは車道を挟んで反対側にあるバス停。今どきにしては珍しく、ほったて小屋が設置されているタイプのそこで、俺と先ほどの少女、空条は路線バスが通らない時間になったことをいいことに、相変わらず降り止まない豪雨が過ぎ去るのを待っていた。といっても、既に二人ともこれ以上ないというほどに雨に濡れてしまっているので、今更、雨宿りの意味など無いに等しいが。
俺が堤防から落ちかけたあの時に、空条は咄嗟に皐の腕を掴んだ。無論、女の子にしては多少高い身長の空条だったとしても、俺に比べれば圧倒的に小柄だし、皐を引き上げるだけの力はない。しかし、その空条の力に助けられ、どうにか俺は自分の体を引き上げることができ、一命を取り留めたのだ。
それから少しして、空条の方から雨の中で放心しているのも馬鹿らしいからと、堤防の上から目に付いた、雨宿りにはおあつらえ向きのバス停に移動したのだ。そうして、俺の鞄の中にあったタオルでお互いに頭を拭き、こうして雨が過ぎ去るのを待っている。最初は二人とも無言だったのだが、空条の方から皐に名前を尋ね、現在はどうしてあんなところに皐が飛んできたのかという話題になっている。
「いや、誰でも思うだろう。あんな状況で一人であんなとこ立ってたら」
「だからって、あんなに大袈裟に飛び込んでくる必要はないでしょうに。もし驚いておっこちちゃったら意味ないでしょ」
びしょびしょに濡れ、身体にぴったりと張り付いた制服を気持ち悪そうに肌から剥がしつつ、空条は呆れたように言う。
「あ……あぁ、確かに」
返す言葉も無い。別に空条の言葉に不満があったり、納得がいっていない訳ではないのだが、俺の発言はイマイチ歯切れの悪いものになる。その原因は会話の内容とは別のところにあった。
空条の服装に動悸が激しくなるのがわかる。タオルで拭いただけで渇くわけがない。空条の衣類はその細い体の線を隠すことなく、上半身にいたっては下着の姿すら視認することができた。俺だって女性に免疫がないわけではないのだが、目の前で女の子がそんな艶かしい姿でいるのだ。そりゃぁ、どぎまぎだってしてしまうだろう。
「どうしたの?」
黙りこんだのを不思議に思ったのか。不意にっ空条が顔を覗き込んできた。
「へぇ!? いや、なんでもないっ!?」
突然、眼前に現れた空条の顔に俺は素っ頓狂な声をあげ、とっさに空条から離れる。当の空条は不思議そうな顔をしているが、俺の方はというと心臓は今にも破裂するんではないかと言うほどに早く強く脈を刻み、気温とは別の理由で皐の顔は異常に暑くなってきていた。
とりあえず、変に思われないようにしないと。
「そ、そういえば、なんであんなところにいたん?」
耳まで真赤になっているであろう顔を伏せ、誤魔化すように空条に向かって疑問をぶつける。思えば当然の疑問だ。元より、空条があそこにいたのが今にいたる原因と言えば原因で、彼女がいた理由はまるで検討がつかない。ましてや、普通なら登ることのできない場所であり、そこに立つためには簡単でない労力と危険がともなうのだ。
「それは」
一瞬、その当然の質問に空条が目を伏せるのを見逃せなかった。そして、悩むように額に手を当て数秒考え込むと、「変だと思わないでね」と前置きをした上で「海を眺めるのが好きだから」と答えた。
皐はその答えに拍子抜けした。それほど悩むならもっと何か深いワケがあると思ったのだが。充分なリスクを負ってまで行ったにしては、それはあまりにも簡単な理由だった。一瞬違和感を覚えたものの本人が言うのだから間違いないだろう。それに深くつっこむのも野暮なのかもしれない。
海を眺めたいから。それだけの理由で彼女はあんな危険な場所にいたのだ。
「そんな理由だったんか」
軽い沈黙のうち、俺は声を出して笑いだした。その様子をみて空条は「わ、笑うなっ」と顔を真赤にして膨れる。
「いや、だって、そんな理由のために俺は死に掛けたんだなぁって思うと、馬鹿っぽくて」
笑いながら皐はそう弁解する。
「そんなの柊君が勝手にしたことでしょう!?」
「あぁ、そうなんだけどさ、おっかしくて」
そうして、ひとしきり笑い終える頃には先ほどまでの豪雨が嘘のように止んでいた。もとより、雨宿りを始めたのが、最終バスが過ぎた七時過ぎだったので雲の隙間から太陽が、なんてなかったが、空には綺麗な星空が広がっていた。
「雨、止んだな」
空条に貸していたタオルをそのままエナメルバッグに詰め込み立ち上がる。バス停の屋根からはぽつぽつと雨水がしたたり、夕立の後特有の湿気た空気の匂いが鼻につく。皐がバス停から出てすぐに、空条も皐を追うようにバス停から出た。
「きれいな空」
空条は大きく伸びをすると満天と呼ぶに相応しい程に広がる星空を見上げた。地上の明かりはそれほど多くない。光が漏れるのは、せいぜい民家と、この時間になっても営業している数店のコンビニや飲食店などだけである。夕立が過ぎ、空気が澄んでいることもあって、その星空は一層美しく広がっていた。
「本当に」
俺も同じように見上げる。言われなければ意識しなかったが、言われてみれば確かに見とれるほどにきれいだった。なんとなく、今日一日の嫌なことが忘れられたような気になる。皐はそう思いながら、どれ程か、首が痛くなるほど空を見上げていた。
「ほらな、当たらない」
俺は、本人に気付かれないように空条に視線を向けた後、彼女に聞こえないように小さく呟いた。確かに今日は不幸なことが多かった。嫌なことも多くあったし、苛立つようなこともあった。しかし、この瞬間、というよりも空条と会ってからの今までは、それを±0にするに足るだけの充実した時間だ。後にいいことがあったのだから、そう思うのは当然なのかもしれない。でもそれが後に来たことも含めての幸福なのだ。勿論、今日一日一度だってトムヤムクンなんて食べていない。やっぱり、星座占いなんて当てになりゃしないのだ。
「なんか言った?」
「い、いや、何でもない」
空条と目が合いその表情を見て皐は確信する。やっぱり俺は運がいい。
「じゃぁ、そろそろ帰ろうか?」
「そうだね」
そういって空条は歩き出し、それについていくように皐も自転車を転がした。
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俺と空条はバス停を出た後ものんびり話しながら歩いた。空条の家が実は結構遠かったのだが、あまりにも話すのが楽しかったために、皐はわざわざ家の場所を偽ってまで彼女を家まで送り届けてから帰宅した。元より帰路に着くのが遅かった上にそんなことをしたせいで、結局俺が家に到着したのは十時過ぎである。帰る頃には概ね制服も乾いてはいたのだが、やはり、湿り気は抜けず、あげく、堤防で空条を止めた時にできたであろう、スラックスの内腿という意味不明な場所が破けてしまっていた。
当然、家についてからはお袋と姉さんに酷く叱られ、挙句に夕食にもありつけない有り様。その頃親父は興味なさげにビールを飲みながら何かのニュースを見ていたのだが。
それから一晩たった今日はというと、現在昼休み。未だ機嫌直らずのお袋に与えられた日の丸弁当を目の前に広げ、勝也と昼食を囲んでいた。机をどけ、床に向き合うように座りながら弁当をつついている。
「お前、空条のことを知らないのか。まぁ、お前他のクラスのこととか興味なさそうだもんなぁ。」
昨日のことを話した時に勝也はそう呟いた。勝也はその人当たりの良さでは説明できないほどに顔が広い。空条のことも、知らないことはなかったがその名前を聞いた勝也の表情はあまりいいものではなかった。
「女の話をあんまりしない皐からそういう話題が出てくるのはいいことだけども、あんまり、あの女はオススメしねぇなぁ」
そう言って勝也は購買部で買ってきた唐揚げ弁当の唐揚げを口へと放り込む。皐の日の丸弁当を見て散々笑うだけ笑っておきながら、おかずを恵んでくれないのは、それだけ、ステキな友達ということなのだろう。恨めしそうにその弁当を覗く皐の視線を無視しながら、勝也はそう言った。
「なんでさ?」
悔しげに白飯を噛み締めながら尋ねる。別に彼氏になりたいっていう気持ちがないわけではないが、ただ、もっとお近づきになりたいと思っているだけだ。空条は、それすらもはばかれるほどの人なのだろうか。昨日の会話では普通にいい奴だと思ったんだが。
皐の質問に対して、どう言ったものかと勝也は思案していた。
「うぅん」と少し考えた後に勝也は口を開く。
「いやぁ、虐められてるんだよね空条」
イジメ? 一瞬皐の頭の中に疑問符が浮かぶ。あんなに気のいい奴が?
イマイチ頭の中で昨日出会ったばかりの空条が虐められているということにピンと来ない。昨日話した限りではそんなに暗いわけでもない、実に話しやすかった。妙に図々しいわけでも我侭な用でもない。それ程長い時間一緒にいたワケではないのではっきりと言うことはできないのだけれども、普通に虐められるような人には見えなかった。そんな素振りもなかったし。ただ、真面目に語る勝也の言葉が嘘だというようにも思えなかった。
「どうして」
空っぽになった弁当箱に箸を置き、先ほどまでとは一変、妙な苛立ちを隠しながらも真剣な面持ちで勝也に尋ねる。その様子を見て、予想していたのだろう、やれやれと言った様子で勝也も空箱に割り箸を折りいれ、二の句を継いだ。
「いや、俺だってしらないんだ。」
まぁ、勝也だって情報屋って訳ではない。知らないのも無理は無い。けれども心の中にあるもやもやは一向に身を潜めてくれなかった。そりゃぁ、そうだ。自分で納得できていないのだから。空条がいじめられるなんておかしいと思うし。それに、
「……やめさせないと」
小さく呟くように言ったその言葉だったにもかかわらず、その普段より微妙に低く震えた声から自分がいかに感情的になっているのかが理解できた。
「やめとけ」
一般的にみたって俺の考えは間違っていないと思う。が、勝也はそれを止めた。
「仮にお前がしゃしゃり出たって何もおさまんないだろうがよ。つか、最悪イジメ悪化するし」
当然、納得なんていかない。が、確かに勝也の言うとおりだとも思える。俺には何もできないだろうし、余計なことをして状況を悪化させてしまったらそれこそ本末転倒だ。勝也の言うとおり何もしないほうがいいのかもしれない。
「そうか。まぁ、勝也の言う事も間違ってないしな。これ以上イジメが悪化したら空条にもわるいし」
とりあえず、そう自分自身を納得させる。
それから間もなくチャイムの音がなり、勝也も俺も各自の席に戻った。それからの午後の授業も終わり、終業のチャイムが鳴り、二人は部活へと向う。普段はなんかしら喋りながら部室へと向かうのだが、今日は会話が広がらない。なぜだか自分でも自身がそわそわしているのがわかった。いまいち物事に集中することができない。
結局、俺は部活に行ってもそれに集中することができずに、ただ、先輩や顧問の先生に怒られ、最後まで身が入らないまま家路へとつくことになった。
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部室の扉を開ける。
皐は、まぁ帰ってるか。
「はぁ」
わかりやすすぎるだろうが、おい。俺は溜息をつくと肩から掛けていたタオルを自分の鞄の上に投げ捨てた。部活も終わり、今日は少し遅くまで一人で走っていたので今部室には俺一人だ。皐も、散々顧問やら先輩やらに怒られてたしな。先に帰っているのも当然だわな。まぁ、様子がおかしかったのは昼休みからだけど。その時点ででほぼ間違いないと思っていたことだったけど、まさかここまでとは思っていなかったな。皐は空条に対して特別な感情を持っている。そんなことは話を聞いた時に気がついてたさ。まさか、よりによって相手が空条かよ。なんて思って止めてはみたものの、授業終わってからも歩いていると妙に目が泳いでたんで確認してみたけどさ。皐、空条に似た体格の女子を見つけると心なしかそれを目で追ってんだよな。こりゃぁまぁ重症だわ。
普段から皐があまり色恋話に参加してくることはなかった。そういう話しをふっても、興味がなさそうな返事しか返ってこなかったし、本人からそういう話しをしてくることもなかった。それに普段からぼんやりしているような奴だったから、女の子とかにそれ程、関心がないのかとも思っていた。
しかし、いざ好きになったとなるとこれほどわかりやすいとは思わなんだ。部活はじまってからも部活の方に一切部活に身が入っていなかった。種目が違い、普段からあまり練習を見ていない勝也の目から見ても走りに力がないのがなんとなくわかる程に。
「悪いこととしたかな」
駐輪場に居残り雑誌を読みながら妙に盛り上がっている先輩達に挨拶をして、校門を出てすぐに大きな溜息をもう一度ついた。基本的に自分が事なかれ主義なのも相まってか、あまり余計なことに首を突っ込んで欲しくないという思考が働いての助言だったものの。普通に考えれば、なんというか、野暮なことをした。人の恋愛沙汰に余計な口を出すのはそうとしか言いようがないだろう。
まったく、なんであんなこと言ったんだろうなー。
俺はポケットにいれていた携帯を開き、電話帳から知り合いのメールアドレスを呼び出す。最近は疎遠になっていたもののとても見慣れた名前。
よくよく考えてみりゃぁ、あいつともこれが原因だったよな。えらそうに説教垂れといて自分は何を皐に言ってるんだ。自分だって変らないじゃないか。
呼び出したメールアドレス。そしてその久々の相手にメールをうち始める。
『空条のことに関してなんだけどさ』
<
「はぁ」
大きな溜息を一つ。その理由は言うまでもなく、自分でもどうしたらいいかわからないものだ。そうしてももやもやした感情を解決させることができず、帰宅早々シャワーを浴びて思考をすっきりさせようとしたのだが。
風呂上りで湿った髪の毛を乱暴にタオルで拭うと、身体を自室のベッドに投げ出す。タンクトップに中学時代のハーフパンツ。パジャマ代わりのそのラフな格好は網戸から吹き込む涼しげな風を浴びるには程よい露出と通気性で、火照った体を冷ますにはちょうどよかった。
どうするかな。
爽やかな風が肌を撫でていく。普段であれば素直に心地いいと思えるのだが、今日はそんなことに気を向けるような余裕はなかった。何をやっていても頭を過ぎるのは、何時も通る堤防で出会った女の子のことばかり。帰り際に昨日のバス停を通り過ぎてからというもの、それはとても顕著だった。彼女の近づいた顔を思い出すだけで、自分の顔が紅潮していくのがわかる。
末期だな。と、自分の症状に恥ずかしくなった。そして、勝也の助言がありつつもやっぱり、空条が虐められているという話を信じられず、許せないでいて、助けたいという気持ちばかりが先行した。同じ学年であるものの俺の通うクラスと空条の通うクラスでは普段使う校舎自体が違う。だから俺自身、ほんの昨日までは空条の姿なんて意識したこともなかったし、いじめなんて自分の学校にあったことも知らなかった。実際、そういうネガティブな噂は割と広まっており、知らないのは俺とかのあまり、他のクラスなどに興味がない一部の人間なのかもしれないけども。
それはともかくとして、とにかく空条のイジメなどの事情を確かめ、また、もし力になれるのであれば自分が力になりたいという考えばかりが頭を巡っていた。
勝也のことを信用していないわけではない。間違いなく勝也はいい奴だし、会ってまだ一年ちょっとではあるものの、彼が充分に信用に足る人物であることは自分のなかではっきりとしていた。多少、お調子者ではあるものの、考え方は自分よりもよっぽど大人だし、基本的に勝也の言うことというのは正論だ。少なくとも今まででは。今回の件に関しても言いたいことは充分に理解できた。小さな学校だ。正直、他のクラスでも出しゃばって敵を増やすのは好ましくない。そういうのを考えて勝也はあまり関わらないほうがいいと言ったのだろう。
自分の顔を手で覆い隠し、昨日のことを思い出す。
でも、やっぱり、空条がイジメられているんならそれを放っておくことなんてできない。正義感だとか、そんなんじゃない。ただ、空条がそういう状況にあるというのはどうしても許せない。
勝也には申し訳ないと思うけどやっぱり勝也の言う通りにはできない。我が身可愛さのためだけに、つらい目にあっている空条を見てみぬふりなんてできやしないから。とりあえず、明日は真っ先にこのことを勝也に伝えよう。
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そして、俺は勝也に昨日の考えを伝えようと、普段よりも早い時間に昇降口をくぐる。いつもより少し早いだけで、毎度混雑している下駄箱付近はいつもの喧騒が嘘のように静かで、今まででも何度かしか味わったことのない不思議な雰囲気だった。、下駄箱に靴を入れ、それと取り替えるための上履きを取り出し床に敷かれた、すのこの上に投げる。
と、下駄箱のすぐ横の普通科の校舎へと繋がる廊下に見覚えのある背中を見つけた。
「空条っ」
昨日したはずのあまり関わらないという口約を二日目早々に破棄。一昨日から一向に頭から離れなかったその姿に声をかけた。
「え?」
一度その肩が小さくはねる。そして、恐る恐るといった様子で振り返った。腰までもある長い髪が揺れる。そこには思ったとおりの、あの雨の日に会ったとき同様の顔があった。その表情は記憶のものより大分険しい、というよりも疲れた感じのような表情だった。しかし、「柊君」と名前を呼んだ瞬間、その表情が緩んだ、ような気がした。
「どうしたの?」
しかし、それも間もなく表情は元にもどり、空条は冷たく言い放った。
「え、いや、見掛けたから挨拶をって」
その聞き覚えのない声質に途惑う。あのバス停では発せられなかった感情が篭っていないような冷たい言葉。なんか胸が詰まる。
「あ、そう。でも、あまり私に学校で関わらないほうがいいよ。誰が見てるかわからないし」
そう言って、空条は足早に階段の方へと去っていく。この短い時間のやりとりに俺は呆然とその小さな背中を見ているしかなかった。バス停のときと同一人物とは思えないような態度。一瞬あの時のような表情を見たような気がするが、それ以外は別人のような高圧的とも取れる冷たい物言い。俺はわけもわからず、その場に立ち尽くすしかなかった。
「よっ。どうだった? 学校の空条さんは」
不意に肩を叩かれ、振り向くとそこには登校してきたばかりなのだろう、エナメルバッグを肩にかけた勝也の姿があった。「あ、あぁ」と詰まりながらも返事をする。すると、勝也は「そうか」となぜか楽しそうに微笑みながら言い、皐に教室へ向かうようにと促した。
「ファーストコンタクトとは違ったみたいだったな。えらくショックがでかご様子で」
勝也はそう言っていまいち、立ち直れていない俺をからかう。だが、それに対しても特にリアクションはとらない。
そして、俺は、教室に入りバックを机の横にかけると大きな溜息をついて、机に突っ伏した。眠っているわけではない。目は開いているままである。ただ、頭の中でごちゃごちゃと考え事をする。が、ただ、思い付きを巡らせているだけで中身は無い。一向に何かをする気がおきなかった。徐々に集まり始めたクラスメイトからも体調が悪いんじゃないかと心配される始末。その度に勝也がフォローをしている。本当に申し訳ない。昇降口での出来事が異常なほどに尾を引いていた。
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「おいおい」
その皐の様子はあまりにも見るに耐えないものだった。今朝の出来事がそんなに応えたのか、授業そのものはきちんと受けていたようだったけれども、結局休み時間とかも机につっぷしっぱなし。周りからも心配されまくりだった。
まさか、ここまでとは。すごいな恋愛パワー。俺自身はというと心配とかそういうものはあまりなかった。その原因を知っているし、別に気にしてもどうしようもねぇし。ただ、強いて思うとすれば普段に比べて昨日、今日の皐は面白いということ。皐は前から、少なくとも高校に入ってからそれほど感情を大っぴらに露わにするような人間じゃなかった。まぁ、少し真面目で正義感が強いからか妙なトコ意地を張ったりすることはあっても、こんなにわかりやすく怒ったり落ち込んだりというのはなかったと思う。そんなに空条に惚れ込んでいるのか。
その皐の、空条やら自分の感情やらに振り回されている様子をみるとなんだが妙に応援したくなる気持ちがわいてきた。高校生にもなってこんな純な奴も珍しいだろうし。それに相手は空条。
なんにせよ、いい加減落ち込んでる皐も見飽きたし。
昼休み開始。普段通りに俺は席を立ち、今朝コンビニで買った弁当を鞄からとりだす。普段と違うのはその弁当を自分の机の上に置き、鞄のポケットに入っていたくしゃくしゃに畳まれた小さな紙切れだけを持って皐の元にむかったこと。
「どうした?」
弁当箱を持っていないことに関して、そして、そのまま自分のところまで来たことに関してだろう、相変わらず、いやむしろそれよりも少し低いトーンで皐は俺に尋ねた。自分は弁当袋を取り出し、普段通り立ち上がろうとする。
「ほれ。いいものやる」
俺はその皐の行動を制して持っていた紙切れを皐へと無理やり押し付けた。
皐はとまどいつつも受け取り、そしてその紙切れをひろげて一層困惑した表情へとなっていった。
「何これ」
書いてあるものは『中央階段屋上前ホール』、ただそれだけの単語。俺の自慢にならない汚い字の殴り書き。一応読めるようには書いたつもりだけどな。皐はそれを読んだ上で目を白黒させ、そしてもう一度、
「何これ?」
と尋ねた。中央階段屋上前ホールというのは、その名前の通り教室棟中央階段の最上階。屋上前にある小さな踊り場のこと。ホールという風に呼ばれてはいるものの本当に踊り場程度の大きさしかない小さな空間。普段ならば、そこまで上らなければならないというめんどくさい立地とその広さ、窓が屋上への扉にしかついていないために薄暗いということも含め、あまり人が近寄らない場所である。そして、現在この場所は、
「空条がいつも昼飯を食べてる場所」
だ。
「へ?」
そう皐は素っ頓狂な声をあげると、それまでの困惑した表情が一変。先ほどの落ち込んでいるようなものではない。それと真逆、その曇っていた表情がぱぁっと明るくなるのがわかった。
本当にわかりやすい。つか、おもろくなったなぁ。
心の中でそう呟くと、そのまま固まってる皐に言葉を続ける。
「昨日は悪かったな。どうせお前は馬鹿だから黙って見てるなんてできねぇだろ。それに人の色恋沙汰に口出すのも野暮ってもんだからな。それはそのお詫び代わりだな。」
「こんなんどこで調べてくるのさ」
そりゃぁまぁ、いろいろ伝手はあるが。空条に関しては特別いろいろある。あるんだけど、
「そいつはぁ企業秘密な。んなこと気にしてねぇでさっさと言ってこいよ。もしかしたら一緒に食べるだけでも元気付けられるかもしれねぇぜ。んでもってあわよくばズッパシ決めて来いっ」
そして、皐の背中に紅葉マークをつけて教室から送り出した。
さぁて、どうなるもんか。
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「決めるって何をだよ」
普段通りのお弁当を片手に俺は立っていた。しかし、何時もと違うのは弁当袋に一本余計にジュースが入っていることと今、A棟中央階段の最上階一個下の踊り場にいるということだ。後一階分階段を上れば、屋上前の小さな踊り場の前へと出る。そして、勝也の情報どおりだったら。
「ちくしょう。あいつ背中思いっきり叩きやがって」
小さく呟き、手で背中をさすった。未だに屋上への一歩を踏み出せていない。今朝の空条の様子。心の中にその棘が地味に残っているのだ。かと言って、
「せっかくここまで来たんだしなぁ」
戻るというのも気が引けた。せっかく、勝也が教えてくれた情報だ。それに一緒にいつも昼食を食べている情報提供者をほっぽりだしてここまできているのである。まぁ、半ば無理やり追い出された感もあるけど。
「そうだ、ここまで来たんだ」
意を決して皐はその薄暗い階段を上り始めた。普段利用されないからかどうかはわからないが、他の階段ならば点灯しているはずの電球は光を発することもなくうっすらと埃を被ったままである。唯一さしている光は、目的地にあるであろう窓からさしている日の光のみ。
階段も半分以上上がり、目的地も見え始めたころ。誰がホールと呼んだかは知らないが、ホールと名乗るにはあまりにもせまいスペースに人影を見つける。少女の後ろにある屋上への扉、それについている窓から差す、痛いほど眩しい陽光に一瞬視界が霞んだものの、すぐにその全貌があらわになった。勝也の言ったとおり逆光になっていて見えにくいが、それは間違いなく空条の姿であった。
「へ、どうして?」
暖かい光の中で、呆気に取られた様子でこちらを眺め、その胸元には残り半分程の食べかけのあんぱんが両手で握られている。皐は今朝のような態度をとられるかと心配したものの、突然の登場にただただ、呆然としていた。その空条の顔を見た瞬間、一昨日のとき同様顔が真赤になってくる。顔が熱くなってきているので自分でもそれは充分に理解していた。とりあえずは、それを誤魔化すように、困惑へと表情を移しつつある空条の隣に腰を降ろした。床は冷たく、なかなかに居心地がいい。
「いや、友達に空条がいつもここにいるって聞いて」
「そうじゃなくてっ」
そりゃぁ驚きもするし、混乱もするだろう。状況を聞いてみれば実質隠れて食べているようなものだ。そこに急に昨日今日会ったばかりの男が来れば当然だろう。ましてやその目的は不明。この状況、なんと説明していいのかわからず悩む。悩み始めたら、なぜか余計に緊張してしまう。とりあえず持ってきた缶ジュースを空条に差し出した。元より空条にあげようと思っていたジュースである。が、
「そ、そうだっ、こ、これお近づきのしるしにっ」
「はぇ!?」
もう意味がわからない。こんな風にジュースを渡されても混乱に拍車をかけるだけだろう。
が、相変わらずの表情であるものの、あんぱんを腿の上に置き、恐る恐る空条はジュースを受け取りその缶の方に視線を向けた。大きく深呼吸、受け取った缶のプルトップにその細い指をかけると、少してこずりつつも、どうにかその蓋を開ける。軽い音とともに缶の中から冷気が溢れた。そして、それに口をつけ小さく傾けると同様に小さく喉を鳴らす。
「で、なんでここに来たの?」
心を落ち着けたのだろう。缶から口を離し、こちらに向き直りそう紡ぐ。その一連の動作、そしてその落ち着きを取り戻した空条の強い表情に俺自身完璧にとは言えないまでも落ち着きを取り戻しつつあった。とはいっても相変わらず脈は速いままであるが。
「それは……」
なんと言えばいいのだろう。なぜ空条と食事をしようと思ったのか。勿論きっかけは勝也だ。けれども、勝也の提案を否定せず、わざわざ、ここまで来たのは自分の意思。イジメられていたのは知っていたし、それが原因でクラスにいづらいだろうから空条がこんな人気のないところで食事をしているのは充分に予測ができていた。が、だからといって、それに対しての同情や哀れみの気持ちで一緒にご飯を食べてあげようなんて思ったわけじゃ決してない。じゃぁ、なぜ、自分がここに来て空条と一緒に昼食を摂ろうと思ったのか。
「――一緒に飯とか食べてみたくて」
至極シンプルなそれだけの理由だった。悩むまでもなかった。ただ、空条と一緒にご飯とか食べたい。それだけの理由だ。
ぽかんと、再び空条は呆気に取られた様子で俺を眺める。
「そんな理由?」
「うん、まぁ」
最初に理由を言った後は恥ずかしさのあまり顔が再び熱くなってくるのがわかったが、自分の中で心の整理がついたのか、それとも開き直ってしまったのか。
「この間のお礼とかも含めて、さ」
気がつけばだいぶ落ちついて喋れていた。バス停のときと同じように。普通の友人らしく、多少の緊張はあるものの変にどもったりすることもなく。
「そんな、理由かぁ」
空条も俺がここに来た理由に納得できないものがあるのだろうけれども、さらっと言ってのけてしまったことのおかげか、特に断ったり拒絶する気も起きないという様子だった。
そして、俺も弁当袋から弁当を広げて空条のとなりで箸を進めはじめる。沈黙が続いたもののそれ程気まずいものでもない。空条も鞄から、新たに蒸しパンを取り出していた。お互いに静かに食事をしているだけの時間。朝のような拒絶はない。心なしか、空条の表情も、黙っているのだけどどこか柔和なものになっていたような気がする。
「そういえば、今朝はごめんね」
空条は申し訳なさそうに呟いた。今朝とは言うまでもなく昇降口でのことだろう。
「あ、あぁ、気にしてないよ」
その時はだいぶショックだったが、今は言うとおりなんとも思っていない。
「そう、ならいいんだけど」
空条はこの時間、いじめに関することは口にしなかった。言わないなら別に気にしないようにしよう。俺はそう考えた。無駄にイジメに関して聞いたりして陰気な雰囲気になるのも嫌だったし、結局、今のところ自分にはどうしようもないだろうし。漫画のヒーローみたく空条を助けることはムリだろうとも思っていた。それは冷静に考えてどうしたらいいかっていう案が思いつかないから。だったら今は楽しくお喋りでもしてた方がいいんじゃないのだろうか。
「そういやさ」
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「どうだったん?」
部活も終わりに近づき、道具を片付けていると勝也が声をかけてきた。そういえば、昼休みのことは未だに勝也に話してはいない。結局、昼休みの間、空条とは昼休み終了のチャイムが鳴るまで他愛もないことを話し続けていた。空条は口数がそれ程多いほうではなかったが、話すこと話すことを楽しそうに聞いてくれて、話している俺のほうも楽しくなってしまった。主に話すことといったら先生の話とか自分の学科の話とか。空条もそれに合わせて話してもくれたし、俺にしてみればとても楽しい時間だった。こういう言い方はよくないかもしれないのだが、いじめられているという事実が嘘のように感じられるほど空条は明るく話してくれた。時折会話の流れ的に本当にイジメというものがあるんだなということは垣間見れたがが、本人があまり気にしている様子がないので、結局はそれも冗談めかして終わってしまう。元々空条自身一人でいることが好きなタイプらしく、それほどクラスから除外されることは応えてないようだった。
「そうそう、空条の誕生日がもうすぐらしいからさ。何かあげようかと思って。ん?」
とりあえず、昼休みの報告も終えようとした頃に勝也の表情が唖然としているのに気がつく。
「本気で、か」
勝也は小さくそう呟いた。その言葉の真意が受け取れず、その場で聞き返すが、急に勝也は真顔になると「ならいい」と、そっぽを向いてしまった。
なんだろう、何か悪いことを言ってしまったのだろうか。先ほどまでの中では思い当たる節はなかったんだけども。
とりあえず、今日の昼休み、空条と食事をできたのは、勝也のおかげだ。そのことに関するお礼だけはしなくちゃいけない。
「今日は、ありがとうな」
しかし、答えは返ってこなかった。
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信じられなかった。まさか皐があんなことを言うとは。あいつはもっと人の心の痛みとかがわかる奴だと思ってた。だから、少しでも空条の助けになればと思って、皐が一緒に昼飯を食べるよう計らったのに。過大評価だったんだろうか。これじゃぁあいつと一緒じゃないか。自分の考えを押し付けるのはよくないと思うけど、これは、ないだろ。
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