婚約者は別の令嬢と婚約したいらしく、「君は死んだことになってもらえないだろうか」と言っております
「すまないデイジー……君を死んだことにしようと思う」
ピピン様は大真面目な顔でそう言っている。冗談ではないらしい。
「えーと……死んだことにする、というのは?」
「いや、大丈夫だよ。実際に死ぬ必要はないんだ。死んだことにするだけなんだ」
そう言って安心させるように身を乗り出してくる。そこを聞いたわけではないし、それが大丈夫な気がしない。
「そうすると、どうなるのです?」
「僕はベロニカと相思相愛だ。将来的には、彼女との婚約を考えている」
「そうですか」
「だけど、君との付き合いももう二年になる。そして将来を誓い合った仲だった。そんな君と婚約を解消すれば、僕は婚約者を捨てた男として見られる。ベロニカも、君から婚約者を奪った女だと非難されるかもしれない」
そこまでは事実だ。婚約の解消自体は特に珍しくはないが、理由もなく解消して相手を変えたとすれば少なからず噂にはなる。彼はさらに声を落とした。
「もちろん、君もつらい立場になることは分かっている。婚約者を奪われた令嬢として、どこへ行っても同情されてしまう。君のご両親も肩身の狭い思いをすることになるだろう」
私の両親まで心配しているようだ。一見して相手を気遣っているように見えるところが腹立たしい。
「そこで考えたんだ」
ピピン様の顔が明るくなった。
「君は病で亡くなったことにする。そうすれば僕は婚約者を捨てた男ではなく、婚約者を失った男になる。ベロニカとのことも、しばらく間を置けば不自然には見えない」
「私はどうなるのでしょう」
「国外へ行けばいい。名前を変えれば、誰も君だとは気づかない。生活費は僕が用意するよ。君なら、きっと新しい土地でも幸せに暮らせる」
私は膝の上で手を組み直した。
「つまり、私は病死したと発表され、両親や友人とも会えなくなり、名前を捨てて国外で暮らす。ピピン様は婚約者と死別したことになり、いずれベロニカ様と婚約なさる」
「そうだ」
「それが、私のためでもあると?」
「ああ。君を不幸にしたくないんだ」
あまりにも悪びれないので、しばらく言葉が出なかった。この様子では、何を言っても無駄そうだ。
「死亡の発表が終わるまで、僕は王都を離れる。郊外の別荘へ行き、人目を避けて過ごすつもりだ」
「なぜピピン様が隠れるのですか?」
「僕が普段どおり出歩いていれば、婚約者が重病だという話を疑われるかもしれないだろう。君の最期に付き添っていることにした方が自然だろう。こちらは父上への手紙だ。婚約の終了と、死別に必要な説明や手続きについて、君の指示に従ってほしいと書いてある」
鞄から取り出された封書には、ピピン様本人の署名だけでなく、家の印まで押されている。異常な方向へ進むための準備だけは丁寧だったことは感心だ。
「僕が戻るまで、必要なことはすべて君に任せる」
「死亡の発表も、葬儀も、名簿の整理も、すべて私に任せてくださるのですね?」
「ああ。君なら間違いなく処理できる」
用意周到なのもすごいけれど、死んだことになる本人に、その手続きをさせようという思考回路はもっとすごい。
「承知いたしました」
一応この場は承諾したことにしとこう。
「ありがとう、デイジー。やはり君なら分かってくれると思っていた」
殴りたい。
その日のうちに、ピピン様は郊外の別荘へ向かった。
◇
ピピン様が王都を離れたあと、私は両親とともに彼のお屋敷を訪ねた。応接間で事情を説明している間、ピピン様のお父様は一度も口を挟まない。ただ、時折眉だけがぴくりと動くのがちょっと怖い。
「息子は、本気でこれをデイジー嬢のためだと考えているのか」
「私の評判や、両親が肩身の狭い思いをすることまで心配してくださいました」
「あの馬鹿が……」
私が預かっていた封書を差し出すと、黙って目を通し、家の印と息子の署名をしばらく見つめていた。
「死別が望みならそうしよう。……ただし、死者がデイジー嬢である必要はない」
彼は書簡を折り直し、封筒へ戻す。
「これは私が預かる」
その日の夕方、私がまだ侯爵家にいるうちに、使用人たちが葬儀に使う黒い布を運び始め、少し遅れて白い花も届いた。
◇
数日後。侯爵家で葬儀が執り行われるその日、ピピン様が黒い喪服姿で現れた。侯爵家の門には黒い旗が掲げられ、玄関前には弔問客の馬車が並んでいる。屋敷へ入ってきたピピン様は、白い花を抱えた人々を見回し、満足そうだ。
私と目が合うまでは。
「デイジー? なぜ君がここにいるんだ」
「ご葬儀に参りました」
「誰の?」
私は答えなかった。彼の視線が、私の向こうへ移ったからだ。広間の奥には黒布を掛けた祭壇があり、その脇を白い花が囲んでいる。その中央にある大きな肖像画に描かれているのは、正装したピピン様だ。
「……なぜ僕の肖像画があるんだ?」
さっきまでの声ではない。
「お前の葬儀だからだ」
祭壇の前から、ピピン様のお父様の低い声が返ってくる。ピピン様はもう一度自分の肖像画を見上げ、今度は私へ向かって叫ぶ。
「待ってくれ。死ぬのはデイジーの方だ!」
弔問客の間にざわめきが広がり、お父様の眉間にまた皺が寄る。
「なぜデイジー嬢が死なねばならん」
「だから、これは皆の評判を守るためで――」
「書簡は読んだ」
それだけで、ピピン様の口が止まった。
「デイジー嬢からも聞いた。最初から最後までな」
今度は私へ顔を向ける。
「君が父上へ何を言ったんだ?」
「聞かされたことを、そのままお伝えしました」
「そのまま?」
「私を病死したことにして国外へ出す。名前を変えて暮らさせる。ピピン様は婚約者と死別したことになり、いずれベロニカ様と婚約する。そのために必要な手続きは、すべて私へ任せる」
ピピン様の顔が引きつった。
何一つ足していない。
「僕は、君のためを思って――」
「余計にたちが悪い」
お父様の声は低かった。
「取り消してください。僕はここにいる。生きているじゃないですか」
「ご安心ください。実際に死ぬ必要はございません。死んだことにするだけですから」
「そんな馬鹿な話があるか!」
「お前がデイジー嬢へ勧めた話だ」
そう言われて黙り込み、祭壇に飾られた自分の肖像画を見つめるピピン様がシュールで笑えた。葬式なのに、堪えるのが大変だ。
やがて何かを思い出したように口を開く。
「父上。こんなものはすぐに片づけてください。僕の部屋で話を――」
「もうお前の部屋ではない」
「何ですって?」
「弟が使っている」
「なぜです!」
「次の侯爵だからだ」
その言葉を受け、みるみる顔から血の気が引いていく。
「僕が後継者のはずです」
「死者に家は継げん」
私への謝罪より先に、まずそこなんですね。
「では、騎士団は? 僕が担当していた仕事があるでしょう」
「団には死亡を届けた。仕事は弟へ引き継がせてある」
「そんな勝手なことが――」
「貴族名簿からも、昨日お前の名が外れた」
さすがに次の言葉は出てこない。しばらく屋敷の中を見回していたが、ふと何かを思い出したように眉が動いた。
「……僕の財産は?」
「そこへ気づくのが遅かったな」
お父様は祭壇の前から動かなかった。
「相続の手続きに入っている」
「僕は生きている!」
「ならば、そのように王家へ届け出ればよい」
強張っていた顔が少し緩む。どうやら、これですべて元へ戻ると思ったらしい。弔問客の中を見回した彼の視線が、白い花を抱えたベロニカ様で止まる。
「ベロニカ。君からも父上へ言ってくれ。これは僕たちのために必要だったことなんだ」
ベロニカ様は、その場から動かなかった。
「わたくしは、デイジー様とはきちんとお話をして、円満にお別れになると伺いました」
「だから、誰も悪く言われないように――」
「亡くなったことにするのが、円満なお別れなのですか?」
ピピン様の口が止まった。ベロニカ様は抱えていた花へ目を落とし、それから私を見た。
「このようなお話だとは、何も知りませんでした」
「ベロニカ、待ってくれ。説明すれば――」
ベロニカ様は、抱えていた白い花を祭壇の前へ置いた。
「わたくし、死者と婚約するつもりはございません」
「ベロニカ……?」
返事もせず、ベロニカ様は私へ一礼して屋敷を出ていった。ピピン様はしばらく扉を見ていた。やがて諦めたように祭壇へ顔を戻す。
そこには、白い花に囲まれた自分の肖像画。
「……生存の届けを出します。王家へ申請すればいいのでしょう?」
「ああ」
思ったより簡単に認められ、ピピン様の顔にわずかな安堵が浮かんだ。
「では、すぐに手続きを――」
「生きていたと訂正するなら、なぜ死んだことになったのかも説明が要る」
ピピン様の動きが止まった。お父様は懐から、あの書簡を取り出した。
「これを添えれば話は早い」
「待ってください」
「お前自身の署名も、家の印もある」
「そんなものを出したら、僕がデイジーを……」
そこで言葉が途切れた。
「続きを言え」
ピピン様は何も言わなかった。
「そんなことを知られたら、僕の評判は終わります」
「ならば、死者のままでいればいい」
「父上は……僕がどうなってもいいのですか?」
「どうなってもいいのか……だと?」
そこでとうとう、お父様が怒鳴った。
「お前は、こんな馬鹿げた真似をして我が家がどう見られるか、一度でも考えたのか!」
「父上、僕は――」
「黙れ!」
ピピン様の声を一喝で押し潰す。
「何の罪もない婚約者を死者にして、自分だけ何食わぬ顔で戻ってこられると思ったのか! そんな恥さらしを後継ぎにしておけるか!」
お父様は祭壇を指さした。
「この家にはいらん。消えろ!」
広間が静まり返った。ピピン様は、白い花に囲まれた自分の肖像画を見つめていた。
◇
数週間後、侍女からピピン様が王都を出たと聞いた。
「生存の訂正は申請なさらなかったそうです。家名を捨て、名前を変えて国外へ向かわれたとか」
どこかで聞いたような話だった。まあ、彼なら大丈夫だろう。知らない新しい土地でも、きっと幸せに暮らせる。ご本人が、そうおっしゃっていたのだから。
私は紅茶を一口飲んだ。
「ざまぁみろですわ」




