【第51話】母の遺言と、究極の慈愛回路
王宮にいた頃のルカであれば、都市一つを覆う防衛結界の回路図を設計することはできた。 しかし、それはあくまで「人間が作った人工物」の上に、直線的で無機質な数式を書き込むだけの、いわば白紙のキャンバスに定規で線を引くような、単純で暴力的な作業だった。
だが、目の前にあるこの刺繍布は次元が違う。
母エレンは、森という『自然そのもの』が持つ、無秩序で、混沌として、常に変化し続ける複雑な地脈のうねりを、一切の妥協なく、完全に理解し、読み切った上で。 その大自然の複雑怪奇な流れを、たった一枚の麻布の上に、一本の針と草木染めの糸だけで、完璧に「三次元の立体回路」として再現してのけたのだ。
ルカが先ほど「お母様の魔法は、空間を編み直している」と直感した、その真のスケールが、今、圧倒的な質量を持ってルカの脳髄を叩き潰しに来ていた。
「お父様の……中央論理回路なんかより、ずっと、ずっと恐ろしい……」
父アルベルトがアイアン・ヘイヴンに建造した中央蒸気塔。 あれは、自然の不規則性を「ノイズ」として否定し、すべてを削り取って無理やり自分の計算式(歯車)に当てはめただけの、強引な機械の箱だった。
しかし、母エレンのこの回路は違う。
自然の持つ摩擦、ノイズ、不規則なうねり。 そのすべてを「肯定」し、丸ごと内包した上で、それらのノイズ同士を複雑にぶつけ合わせ、濾過し、最終的に信じられないほどの調和へと導くための、究極の『ノイズ・キャンセリングと再循環のシステム』。
ルカは、机に両手をつき(動かない右腕の真鍮の拳が、ゴトッと重い音を立てた)、布の中央――世界樹が描かれた部分の、さらにその『深部』を覗き込んだ。 そこには、ルカが幻影で見た「虚無の綻び」が発生していたであろう座標が存在した。
エレンは、その虚無の発生源を、太く黒い糸でグルグルと厳重に縫い閉じようとはしていなかった。
(……穴を、塞いでいない)
ルカは息を呑んだ。 エレンの回路は、虚無の大穴を「無かったこと」にして蓋をするのではなく、その大穴の周囲に、無数の細かい『フィルター(濾過網)』となる花の刺繍を幾重にも配置していた。
虚無という絶対的な「ゼロ」の暴力を、一度に相殺するのではなく、この無数の花の結び目を通して、少しずつ、少しずつ細かく切り刻み、摩擦を起こさせ、魔力の毒素を薄めていく。 そして、毒素を完全に抜き取られた純粋なエネルギーだけを、瑠璃色の糸(小川)を通じて、再び森の木々へと還流させる。
「エラーを消去するんじゃなくて……エラーの毒だけを抜いて、命の循環の中に、強引に組み込もうとしているのね……!」
それは、ルカがアイアン・ヘイヴンで、義手の熱とノアの鼓動をタワーのシステムに流し込み、完璧な論理に「遊び」を持たせたあの戦術の、遥か高次元に位置する、究極の『慈愛の論理』の完成形だった。
ルカの目から、再び涙が溢れた。 しかし、それは先ほどの絶望の涙ではない。
一人の魔道具師として、自分など足元にも及ばないほどの途方もない高みにいた真の天才――母エレンの、その恐るべき技術力と、世界に対する底知れぬ愛の深さに打ちのめされた、圧倒的な『感涙』であった。
王宮の誰も、父アルベルトでさえも、母のこの真の力には気づいていなかった。 母は、自分が「天才」であることなど一度もひけらかさず、ただの村の裁縫師として、世界中の綻びを、誰に褒められることもなく、泥だらけになって一つ一つ縫い直して回っていたのだ。
「……お母様は、神様なんかになりたかったんじゃない。ただ、この世界が少しでも長く、温かく続くように……裏方で、ずっと継ぎ接ぎをしてくれていたんだわ」
ルカは、布の端――あの、途切れてしまった白銀の糸の結び目へと視線を移した。 母が命を懸けて編み上げようとした、この究極の浄化回路。
これを、ただの遺品として、この時が止まった小屋の中に放置しておくわけにはいかない。 もしこの回路を完成させ、森の地脈と接続することができれば。 セインが恐れ、森の時間を止める原因となったあの『虚無の大穴』の毒を完全に浄化し、森の生命の時計を、再び正しく、美しく動かすことができるはずだ。
「……分かるわ」
ルカは、左手の指先で、未完成のまま途切れた白銀の糸の先端を、そっと摘み上げた。
魔法の解析はできない。 しかし、ルカの頭の中には、これまでの旅で蓄積された「不完全な物理法則」の知識と、今目の前で読み解いた母の「慈愛の回路図」のパターンが、完全にリンクして激しくスパークしていた。
「私なら、この回路の『続き』がどう繋がるはずだったのか……完璧に理解できる」
天才魔道具師としての論理的思考力と。 アイアン・ヘイヴンで得た、摩擦とノイズを受け入れる継ぎ接ぎ屋としての直感。 その二つが奇跡的に融合した今のルカにしか、この複雑怪奇な母の遺言の「真意」を読み解くことは不可能だった。
「クゥゥン……」 ノアが、ルカの決意に満ちた横顔を見上げ、小さな鳴き声を上げた。
「ノア。……私、やるわ」
ルカは、涙を拭い、顔を上げた。
「お母様の設計図は、あまりにも高度で、美しすぎる。……今の私には、お母様みたいな綺麗な魔力の糸を紡ぐことはできない。だけど……」
ルカは、自身の右肩からぶら下がる、限界を超えて壊れ果てた重い真鍮の義手を、ドンッ、と自らの左手で力強く叩いた。
「私には、この不格好で、うるさくて、熱い『鉄の腕』がある。……お母様の完璧な設計図に、私の泥だらけの物理のノイズを足して……この森の止まった時間を、力ずくで縫い合わせてみせる」
ルカの瞳には、もう過去のトラウマに怯える影は一切なかった。
そこにあるのは、母から職人としての魂のバトンを確かに受け取った、世界で最も泥臭く、そして誇り高い『継ぎ接ぎ屋』の、研ぎ澄まされた眼差しだった。
未完成の遺言は、ただの悲しい形見ではなく。 ルカという不完全な少女が、世界を自らの手で繋ぎ直すための、最高にして最後の『設計図』として、彼女の手に委ねられたのである。




