【第48話】母の残り香
王宮に拾われた後、ルカは「天才」と呼ばれるようになった。 彼女は、空間の綻びを完璧に縫い合わせる魔法を習得した。
それは、世界を救うためではない。二度と、あんな理不尽な喪失を経験しないために。 不完全な世界が悲劇を生むのなら、自分が完璧な魔法で世界を支配し、一切の「エラー」を許さない冷たい論理で縛り付ければいい。
過去を思い出すと、心が引き裂かれて狂ってしまいそうになるから。だからルカは、自分の心から「母の記憶」や「温かい感情」を、鋭利な魔法のメスで完全に切り離し、絶対零度の無菌室に閉じ込めて生きてきたのだ。
父アルベルトが、アイアン・ヘイヴンの制御室に引きこもったのと同じように。 ルカもまた、王宮の尖塔の中で、自分の心に『絶対凍結の結界』を張っていたのだ。
しかし今。 魔法を失い、重い真鍮の義手をぶら下げただけの、不完全で傷だらけの「生身の少女」に戻ってしまった彼女には、その記憶の濁流を防ぐための防波堤(魔法)は、もう一枚も残されてはいなかった。
「お母、様……。怖いよ……。開けたく、ない……」
ルカの瞳から、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ち、ドアノブを握る左手の甲を濡らした。 扉の向こうに、母の遺した何かがあることは分かっている。
しかし、この扉を開けてしまえば、自分が十年間必死に作り上げてきた「冷たくて強い自分」が完全に崩壊し、あの日の無力で泣き虫な少女に戻ってしまう気がした。 喪失の痛みに、真正面から向き合わなければならなくなる。 それは、どんな恐ろしい虚無の化物と戦うよりも、ずっと、ずっと恐ろしいことだった。
ルカが、逃げ出そうとドアノブから手を離しかけた、その時だった。
スゥゥゥ……。
山小屋の木の隙間から、ごく僅かな風が吹き抜けてきた。 それは、森の冷気ではない。小屋の内側から、扉の隙間を潜り抜けて漏れ出してきた、室内の空気だった。
その空気が、ルカの鼻腔を掠めた瞬間。 ルカの全身の震えが、ピタリと止まった。
「……え?」
ルカは、信じられないものに出会ったように、大きく息を吸い込んだ。 その匂い。
カビ臭い廃屋の匂いではない。数十年もの間、誰にも開けられずに密閉されていたはずの小屋の空気なのに、そこには埃の匂いすら全くしなかった。
そこに漂っていたのは。
カモミールの乾燥した花弁が放つ、少し青臭くて甘い香り。 布の防虫剤として使われていた、乾燥したラベンダーの爽やかな匂い。 そして何より、麻糸の滑りを良くし、強度を高めるために、何度も何度も指先で擦り込まれた『蜜蝋』の、特有の重く、温かいワックスの匂い。
「お母様の……匂い」
間違いない。それは、ルカが幼い頃、母の膝の上で眠りにつく時にいつも嗅いでいた、母の作業着から漂う、優しくて、働き者の『職人の匂い』そのものだった。
結界によって時間が止められていたからではない。 母エレンが、この小屋で、まさにたった今まで、ルカを待って縫い物をしていたかのように。 その生命の気配と、呼吸の痕跡が、極めて濃密に、そして生々しく、この扉の向こう側に『生きて』保存されていたのだ。
「……逃げない」
ルカは、涙で濡れた顔を上げ、強く前を見据えた。
完璧な魔法で自分を守る必要なんて、もうない。 彼女の右肩には、動かなくなってもなお、確かな重みと熱の記憶を持った「不格好な真鍮の義手」がぶら下がっている。 足元には、どんな絶望の中でも共に牙を剥いてくれる、銀狼のノアがいる。
アイアン・ヘイヴンで、泥だらけになって世界と摩擦を起こすことの尊さを学んだ今のルカは、十年前の無力な少女ではない。 喪失の痛みを恐れて、永遠の結界に閉じこもるのは、もう終わりだ。
「私、開けるわ。お母様」
ルカは、左手に渾身の力を込め、真鍮のドアノブをガチャリと下へと押し下げた。 十年の歳月と、絶対的な停滞の森の静寂を打ち破る、重く、確かな開錠の音。
ギィィィィィィ……。
分厚いオーク材の扉が、ゆっくりと内側へと押し開かれていく。 ルカは、重い右腕の義手を引きずりながら、ついにその『時の止まった山小屋』の敷居を跨いだ。
室内に差し込んだ外の光が、空間に漂う微小な塵を照らし出し、黄金色の光の柱を何本も作り出している。 光の粒が、ゆっくりと、まるで深海の雪のように宙を舞っていた。セインの結界が破られたことで、この小屋の中の「時間」もまた、静かに、そして確実に動き出し始めていたのだ。
ルカの視界に飛び込んできたのは、驚くほど整然とした、しかし確かな生活の息吹が残る部屋の光景だった。
石積みの暖炉には、燃え尽きる寸前で時間を止められた薪が、黒い炭となって残っている。 その前に置かれた、使い込まれたロッキングチェア。 壁に立てかけられた、箒と塵取り。 棚に並んだ、色とりどりの刺繍糸の巻束と、ガラス瓶に入ったハーブの数々。
そして、部屋の中央、窓からの光が最も明るく差し込む場所に。 どっしりとした樫の木で作られた、大きな『作業机』が置かれていた。
「……あ」
ルカの喉から、声にならない吐息が漏れた。 その机の上には、一着の未完成の服でも、ただの布切れでもない。
母エレンが、この森の虚無を浄化し、命の循環を取り戻すために命を懸けて編み上げようとしていた、途方もなく巨大で、複雑な文様が描かれた『刺繍布』が、広げられたままの状態で、静かに、しかし圧倒的な存在感を放って置かれていたのだ。
そして、その布の上に、ポツンと残された、銀色の指貫と、蜜蝋の小さな塊。
ルカは、もはや自分が泣いていることすら気にならなかった。 ただ、その机に向かって、見えない糸に引かれるように、ふらふらと歩み寄っていく。
右腕の真鍮の義手が、カタン、と机の角にぶつかった。
その不格好な物理の音が、静寂の部屋に響く。 それは、完璧な魔道具師の帰還ではなく。 泥と痛みにまみれ、不完全なまま世界を受け入れた一人の『継ぎ接ぎ屋』が、母の遺した真実の前に、ついに辿り着いた瞬間であった。
* * *
真鍮の義手が、樫の木で作られた分厚い天板にコツン、と鈍い音を立ててぶつかった。 その極めて物理的で不格好な音が、静寂に包まれた山小屋の空気を微かに震わせる。
ルカは、呼吸の仕方すら忘れてしまったかのように、机の上に広げられたその『布』を凝視していた。 それは、一着の服や、テーブルクロスのような一般的な日用品のサイズではなかった。机の天板を完全に覆い尽くし、さらに端から滝のように床へとこぼれ落ちている、途方もなく巨大で、分厚い生成りの麻布。
窓から差し込む黄金色の光の柱が、その布の表面に描かれた極めて複雑で、そして目眩がするほどに緻密な『刺繍の文様』を、くっきりと浮かび上がらせていた。
「……お母様」
ルカの唇が、震えながらその単語を紡ぎ出した。 見間違えるはずがない。世界中のどんな高名な魔道具師の作品を見せられても、ルカはこれほどまでに魂を揺さぶられることはないだろう。
布の表面を走る、色鮮やかな刺繍糸。 深い夜空のような瑠璃色。生命の鼓動を思わせる茜色。そして、星の瞬きをそのまま紡ぎ出したかのような、淡く輝く白銀の糸。
それらは、王宮の宝物庫に収められているような、魔力で合成された均一で冷たい人工糸ではない。ルカの母、エレンが、自らの足で野山を歩き、草木を煮出し、泥を漉し、長い時間をかけて自然の命の色を定着させた、世界に二つとない手染めの『草木糸』だった。
そして何より、その布に施された「縫い目」の形が、ルカに決定的な確信を与えていた。
(……ダブル・ループ。二重の結び目)
ルカは、目を大きく見開いたまま、その縫い目の軌跡を目で追った。 エレンの刺繍は、ただ布の表と裏を糸が直線的に行き来するだけのものではない。一針ごとに、裏側で極小の「結び目」を作り、前の糸と絡ませながら進んでいくという、途方もなく手間のかかる独特の縫い方だった。
この縫い方をすれば、もしどこか一箇所で糸が切れたとしても、全体が解けてしまうことはない。 それは、不完全で傷つきやすい世界に対する、母エレンなりの「絶対に手を離さない」という、祈りにも似た『慈愛の技法』であった。
ルカの左手が、布の表面へとゆっくりと伸ばされる。 しかし、その指先が触れた瞬間、彼女は想像を絶する絶望の淵へと叩き落とされることになる――。




