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ステラ・ニードルの記憶 〜完璧な魔法を失った天才魔導師は、真鍮の義手で不完全な世界を継ぎ接ぎする〜  作者: 紡木 綸


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【第35話】真鍮の指が拾う「命の微振動」

ルカは、自らの右腕を見下ろした。 不格好で、常に熱を持ち、動かすたびに痛みを伴う真鍮の義手を、左手で強く、確かめるように握りしめる。

この腕は、放っておけば錆びる。 歯車は摩耗し、いつかは完全に壊れてしまうだろう。 完璧な美しさなど微塵もなく、誰の目から見ても「欠陥品」だ。

けれど、この腕は今、ルカの体温を吸い込み、ノアの生命の熱を蓄えて、温かく脈打っている。 骨を伝う不格好な摩擦音を立てて、『生きている』ことを全力で主張している。

「私は、こんな綺麗なだけの死体になんて、絶対にならないわ」

ルカの意志に呼応するように、真鍮の義手のシリンダーが軋み、内部で熱い蒸気が圧縮される微かな鼓動が左手に伝わった。 この絶対的な静止の世界において、ルカが抱えるその「熱」と「変化」は、ひどく鮮烈な生命の証明であった。

「グルルゥゥ……ッ!!」

ノアが、結晶化した鹿の足元で、鼻先を虚空に向けて低く力強い唸り声を上げた。 彼もまた、この森の異常な静止に対して、野生の生命力からくる強烈な嫌悪感と闘志を燃やしていた。 ノアの青い瞳は、この森の完璧な美しさに一切騙されていない。彼の目には、ここが広大な墓場であるという真実だけが映っていた。

「環境を変え、変化を拒み、命の時間を止めた『誰か』に、私たちが生きてるってことの、うるさくて、熱くて、泥臭いノイズを……たっぷりと聞かせてやらないとね」

ルカは、ステラ・ニードルの残骸を収めた真鍮の右腕を胸の前に構えた。

完璧な美しさと、圧倒的な死の気配が支配する琥珀色の水晶林。 その永遠に続くかと思われた絶対的な無音の奥底へと、重苦しい真鍮の駆動音と、力強い獣の足音が、確かな「生」の楔を打ち込むように踏み入っていった。 どんなに美しくコーティングされようとも、世界は決して止まりはしないのだということを、証明するために。

* * *

圧倒的な「死の美しさ」が支配する琥珀色の水晶林。 その中心で、ルカは空中で跳躍したまま完全に静止している雄鹿の彫像の前に立ち尽くしていた。

彼女は、無意識のうちに自らの左手をゆっくりと持ち上げていた。 かつてのルカであれば、このような未知の魔力現象に遭遇した際、対象に直接触れるような真真似は決してしなかった。 指先から目に見えない極細の魔力の糸を放ち、空間の歪みや対象の魔力密度を遠隔から、それもミクロン単位の精度で解析し、「完璧な数式」として脳内に展開することができたからだ。

それは、世界という巨大な織物を、少し離れた安全な場所から優雅に撫でるような、神にも似た全能感だった。

しかし今、彼女の左手から紡ぎ出される魔力は、暗闇を照らすマッチの火にも満たないほどに弱々しい。 世界を解析する無数の糸はもう存在しない。 彼女は今、自分の足で泥を踏み、自分の皮膚で直接世界に触れなければ、何も知ることができないただの「生身の人間」に成り下がっていた。

ルカは、震える左手の掌を、雄鹿の後ろ脚を覆い尽くしている琥珀色の結晶の表面へと、そっと押し当てた。

「……冷たい」

ルカの唇から、絶望とも諦念ともつかない吐息が漏れた。 生身の左手が感じ取ったのは、ただひたすらに硬く、滑らかで、そして絶対零度を思わせる凄絶な『冷気』だけだった。

まるで、分厚い氷の壁の向こう側に手をついているような感覚。 いや、氷であれば、人間の体温が触れればわずかに表面が溶け、水という形での「変化」が生まれる。 だが、この琥珀色の結晶は、ルカの体温を一切受け付けず、熱交換を完全に拒絶していた。

ルカは目を閉じ、かつての感覚を必死に呼び覚まそうと、左手の指先に全神経を集中させた。

(何か……何かないの。魔力の残滓でも、呪いの痕跡でもいい。……教えて)

しかし、ルカの柔らかな皮膚から伝わってくる情報は、「ここは完全に死に絶えている」という冷酷な物理的事実だけだった。 対象が生きているのか、死んでいるのか。この結晶がどのような術式で編み上げられているのか。 生身の肉体という極めて不完全なセンサーでは、完璧にコーティングされたこの水晶の檻の奥底に横たわる真実を、一ミリたりとも暴き出すことはできなかったのだ。

「……駄目だわ。私の手じゃ、もう何も聞こえない」

ルカは力なく左手を下ろした。 魔法を失ったことの無力感が、鉛のように胃の底へと沈んでいく。 完璧な世界から弾き出され、五感を隔てられてしまったような、途方もない孤独。 彼女は今、世界の果てに取り残されたただ一人の迷子だった。

「クゥゥン……」

その孤独な静寂を破ったのは、足元に寄り添うノアの、不安げな低い鳴き声だった。 ノアはルカの悲痛な気配を察知し、彼女の右脚に自身の温かい身体を擦り付けてきた。

「……ノア。ごめんね、私……」

ルカがノアの頭を撫でようと身体を少し傾けた、その時だった。

カツッ。

麻痺して垂れ下がったルカの右腕――そこに強固な革紐で縛り付けられている長大な純銀の針『ステラ・ニードル』の鋭い切先が、重心移動に伴って揺れ、偶然にも雄鹿を覆う琥珀色の結晶の表面へと衝突した。

「あっ……」

ルカは反射的に右腕を庇おうとした。 この絶対的な静寂と美しさの空間において、刃こぼれし、革紐で不格好に縛り上げられた泥臭い武器は、あまりにも場違いな汚物のように感じられたからだ。 完璧なガラス細工を、泥だらけの釘で傷つけてしまうような罪悪感。

しかし。 ルカの脳髄に、硬直した右肩の骨を伝って、かつて経験したことのない極めて奇妙な『ノイズ』が突き刺さった。

「……え?」

ルカは動きを止めた。 ステラ・ニードルの切先は、まだ結晶の表面に触れたままだ。 ルカは息を呑み、自身の右腕の内部で何が起きているのか、全神経を集中させた。

ステラ・ニードルは今、長大で純度の高い銀の円柱として、対象に突き立てられている。 そして、それをルカの腕に固定している分厚い革紐は、彼女自身の体温と、足元にすり寄るノアの熱を吸ってわずかに膨張し、ギリギリの張力で張り詰めていた。 この超低温で絶対的な静寂を保つ『結晶の世界』と、ルカの『張り詰めた拘束具と純銀の針』が物理的に接触したことで、奇跡的な音響工学のメカニズムが構築されていたのだ。

硬質な純銀の針先が、絶対零度の結晶に触れる。 その極端な温度差と物理的接触によって生じた微細な分子の振動が、長大なステラ・ニードルを『巨大な音叉おんさ』のように共鳴させる。

生身の柔らかい肉体(左手)であれば、皮膚の脂肪や水分の層がクッションとなって、その微細な振動を完全に吸収し、殺してしまっていただろう。 しかし、金属という極めて硬質な媒質は、振動を減衰させることなく増幅させ、限界まで張り詰めた革紐を太鼓の皮のように震わせる。 そしてその振動は、麻痺して感覚のない右腕の「骨」を直接伝い、ルカの頭蓋骨の内側へと『音』としての情報をダイレクトに叩き込んできたのである。

「……何、これ……?」

ルカの瞳孔が、極限まで見開かれた。 魔法による解析ではない。魔力の波長でもない。それは、純粋な『物理的な振動』だった。

ギィィ……コトッ。 ……(静寂)…… ギィィ……コトッ。

限界まで張り詰めた革紐が、ステラ・ニードルの共鳴を受けて、極めてゆっくりと、微かに鳴動している。 ルカは、結晶に押し当てているステラ・ニードルの切先に、さらに体重をかけた。

銀の針と結晶が完全に密着し、振動の解像度が跳ね上がる。 麻痺した右腕の骨が軋み、激しい痛みが走るが、ルカは構わずに押し付けた。

ズンッ…………。

ルカの脳の奥底に、低く、重い、地鳴りのような響きが届いた。

(……動いている)

ルカは戦理に震えた。 生身の左手では「絶対的な死」としか感じられなかった、この冷たく完璧な琥珀色の結晶。 しかし、ステラ・ニードルが聴診器となって拾い上げたノイズが、ルカに全く別の真実を突きつけていた。

ズンッ…………。

それは、10秒、あるいは20秒という、途方もなく長い周期で繰り返される、極めて微弱な、しかし確かな『脈動』だった。

(心音だわ。……この鹿の、心臓の鼓動!)

ルカの全身の産毛が逆立った。 空中で跳躍したまま、完璧な彫像と化しているこの雄鹿は、死んではいない。 バクテリアの活動すら停止するほどの極限の結界の中に閉じ込められながらも、その肉体の奥底、生命の最も深いコアの部分では、血液が、細胞が、凍りつくような圧力に必死に抗いながら、生きようと脈打っていたのだ。

外の世界から見れば、それは完全に時間が停止した「永遠の完成品」である。 しかし、内部に閉じ込められた生命からすれば、それは果てしない圧死の地獄だ。 一回心臓を動かすために何十秒もの時間をかけ、全身の骨が軋むような物理的な摩擦と戦いながら、彼らはこの分厚い琥珀の檻の中で、今この瞬間も声なき絶絶叫を上げながら『生きてもがいて』いる。

ズンッ…………。

また一つ、重い鼓動が針から骨を伝ってルカの肩を打つ。 そのノイズは、魔法という「完璧な論理」の目を通しては決して検知できないものだった。 完璧な魔法は、対象が「システムとして停止している(エラーがない)」と判断すれば、それ以上の不確定要素を切り捨てるからだ。

ルカのかつての完璧な左手であったなら、この表面の結界の美しさだけを読み取り、内部の泥臭い苦痛など見落としていただろう。 だが、この拘束された右腕は違った。 この腕は、麻痺した肉体と無機質な巨大針を、軋む革紐と摩擦というノイズで強引に繋ぎ合わせた、世界で最も泥臭い『継ぎ接ぎの塊』なのだ。

だからこそ。 この不格好な「物理の聴診器」だけが、完璧な結界の奥底で、血を流し、軋みを上げながら不格好にもがいている「仮死状態の生命の微振動」を、同じ『生きるためのノイズ』として共鳴し、拾い上げることができたのである。

「……生きてる。死んでなんかない」

ルカの瞳から、大粒の涙が溢れ出した。 それは、魔法を失った絶望の涙ではない。 この完璧で残酷な死の世界の奥底で、今もまだ諦めずに戦い続けている無数の命の鼓動に触れた、歓喜と、激しい怒りの涙だった。

ルカは、ステラ・ニードルを握りしめた硬直した右腕を、鹿の結晶に強く押し当てたまま囁いた。

「聞こえたわ。……あなたの痛みも、生きようとするその摩擦の音も、私のこの不格好な腕が、全部拾い上げたわ」

ルカは振り返り、薄闇に沈む森の奥――無数に立ち並ぶ、琥珀色の結晶群を見渡した。 空中で静止した鳥。牙を剥いた狼。巨大な古木。落ち葉の一枚に至るまで。

これらは、死の墓標ではない。 この森全体が、永遠の停滞を押し付けられながらも、内側から必死にその殻を破ろうと『命の微振動』を響かせ続けている、巨大で、熱を帯びた「揺り籠」なのだ。

「お父様は、摩擦をなくすことが救済だと言ったわ」

ルカは、麻痺した右腕をかばうように、左手でステラ・ニードルの根本を固く握りしめた。 張り詰めた革紐が、ルカの怒りと熱に呼応して、力強く、ギチッ、と鳴る。

「でも、違う。命が擦れ合って、熱を出して、不格好にノイズを上げるのが……『生きる』っていうことなのよ。この命たちを、こんな綺麗なだけの檻に閉じ込めて、無音のまま殺そうとしている奴が……この森の奥にいる」

ルカの顔から、迷いも恐れも完全に消え失せていた。 かつて王宮で完璧な魔法を操っていた魔道具師の冷たいプライドは、もうどこにもない。

今の彼女は、泥と雪にまみれ、不格好な革紐を軋ませながら、声なき命のSOSを物理的なノイズとして受信する、世界でただ一人の『継ぎ接ぎ屋』だ。

「行くわよ、ノア。……この森の止まった時計を、私のこの『針』で、力ずくで叩き壊して、もう一度動かしてあげる」

「ガァウッ!!」

ノアが、森の静寂を震わせるほどに力強く、熱を帯びた咆哮で応えた。

ルカは、ステラ・ニードルを突き出した右腕を高く掲げた。 絶対零度の静寂が支配する囁きの森の奥地へ向けて、不完全で泥臭い命のノイズが、反逆の狼煙を上げるように、力強く、激しく進軍を開始した。

止まった世界の歯車を再び回すための、少女と獣の孤独な進撃。 その行く手に待ち受ける結晶の支配者は、はたしてルカの「生のノイズ」を前に、どのような理を突きつけてくるのだろうか――。


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