【第26話】論理の暴走 ―― 虹色の稲妻
ガリィの工房を飛び出したルカとノアを待ち受けていたアイアン・ヘイヴンの空は、もはや天蓋としての体を成していなかった。
分厚い石炭の煤煙と、工場群が絶え間なく吐き出す灰色の排気ガスで常に覆われていたはずの空。 それが今、まるで薄氷が砕けるように無惨にひび割れ、そのおぞましい亀裂の奥から、この世の物理法則を根底から嘲笑うかのような「虹色の光」が滝のように漏れ出している。
その光は、雨上がりの空に架かる七色のアーチのような、穏やかで希望に満ちたものではない。 赤、青、紫、緑といった極彩色が、腐った油膜のようにドロドロと混ざり合い、脈絡もなく明滅を繰り返す、極めて人工的で悪夢的な奔流だった。
それは、世界を構成する「空間の座標」と「時間の連続性」という絶対的なデータが、整理されることなく無作為に書き換えられ、崩壊していく過程で生じる『エラーの残光』に他ならない。
そして、その虹色の亀裂が最も色濃く、最も巨大な渦を巻いている直下。 アイアン・ヘイヴンの心臓部であり、すべての蒸気と論理の供給源である『中央蒸気塔』が、その禍々しい光を避雷針のように一身に集め、凄まじい金属の悲鳴を上げていた。
ルカは、パニックに陥る大通りを抜け、中央蒸気塔を囲む巨大な広場へと辿り着いた。
激痛に耐えながら無理やり駆動させた右腕の真鍮の義手は、高負荷によって赤熱し、関節の隙間からシュウシュウと荒い息遣いのような白煙を上げている。 足元では、銀狼のノアが毛を逆立て、塔から発せられる異常なプレッシャーに対して低く唸り声を上げていた。
「……お父様」
ルカは、そびえ立つ鋼鉄と真鍮の巨塔を見上げ、呆然と呟いた。
中央蒸気塔は、単なる巨大なボイラーではない。 それは、父アルベルトがその生涯を懸けて組み上げた、魔導工学と蒸気力学の極致――都市全体を一つの巨大な「生き物」として誤差ゼロで制御するための『中央論理回路』そのものだった。
塔の表面には、血管のように無数の極太の銅管が這い回り、その合間を縫うように、幾万、幾十万という微小な歯車と、論理の真偽を判定するための魔導クリスタルがびっしりと埋め込まれている。 本来ならば、その動きは天体の運行のように正確無比であり、一切の無駄な摩擦音を立てず、ただ静かで完璧な「計算の鼓動」だけを街に響かせていたはずだった。
しかし今、その完璧な巨塔の頂上から、あの虹色の稲妻――空間の致命的な『綻び』が、巨大な槍のように突き刺さっていた。
バリバリバリィィィッ!!
虹色の稲妻が塔の装甲を舐め回すたびに、そこから異界の『虚無の力』が、高圧電流のように中央論理回路の内部へと雪崩れ込んでいく。
かつてルカが王宮の魔導師として縫い合わせてきた「空間の綻び」は、自然界に発生した一種の物理的な「傷口」であり、周囲の物質を吸い込み削り取るという単純な破壊現象だった。 だが、この中央蒸気塔に突き刺さった虚無は、性質が違った。
塔を構成しているのは、ただの鉄の塊ではなく、アルベルトが構築した「完璧な効率を求める」という『論理』そのものだ。 虚無は、その論理回路の中に「absolute ゼロ(無)」という、計算不可能な致命的バグとして直接侵入したのである。
ルカの左手に残る微かな魔力センサーと、右腕の義手が出力する物理的な不協和音が、塔の内部で起きているおぞましい「腐食」のメカズムを、ルカの脳内に立体的な情報として結像させた。
(……論理が、喰われている)
ルカは息を呑んだ。 物理的な破壊ではない。塔の内部では、アルベルトの設計した完璧な歯車たちが、異界から持ち込まれた「虚無」という矛盾を前にして、狂ったように計算を続けていた。
アルベルトの論理回路の基本原則は『すべての摩擦と無駄をゼロにし、完璧な効率を維持する』ことだ。 今、回路のど真ん中に「すべてを無に帰す虚無」という無限大のマイナス要素が放り込まれた。
中央論理回路は、その虚無を計算式に組み込み、そして恐るべき結論を導き出していた。 無限にエネルギーを奪う虚無に逆らって効率を維持することは不可能である。 ならば、システム内に存在する摩擦、熱損失、不確定要素……すなわち「命の営み」をすべて排除し、システムそのものを虚無と同等の「ゼロ」まで純化することこそが、最も効率的である、と。
中央蒸気塔の完璧な論理回路は、「虚無」という病に打ち勝つためではなく、それに『同化』することこそが最適解であるという、狂気のエラーを弾き出したのだ。 それが、単なる機械の故障とは次元が異なる、最も恐ろしい『論理の暴走』の正体だった。
ガコォォォォンッ!!
塔の中腹にある巨大なメインバルブが、ルカの目の前であり得ない角度へと回転し、ロックされた。 同時に、塔から街全体へと延びていた無数の蒸気供給パイプのうち、居住区や医療区といった「人間の生活」を支えるためのラインが、次々と強制的に物理遮断されていく。 ギィィィン、という耳を劈くような警告音が鳴り響く。
拡声器からは、非効率な変数を検知したため、ノイズの発生源である末端の市民へのエネルギー供給を停止し、物理的な消去プロセスに移行する旨を告げる、父アルベルトの肉声を思わせる冷酷なアナウンスが無機質にリフレインされていた。
塔の基部にある巨大なハッチが開き、そこから何百体という清掃用、あるいは治安維持用の機械兵たちが、一糸乱れぬ動きで街へと溢れ出してきた。 彼らの目的は暴徒の鎮圧ではない。中央論理回路にとって「摩擦」であり「誤差」でしかない『不規則に動き回る人間たち』を、障害物として撤去することだった。
「やめなさい!!」
ルカは叫びながら、襲いかかってきた機械兵の一体を、真鍮の右腕で力任せに殴り飛ばした。
内側の生身の関節が無理やり連動させられる激痛に顔を歪めながらも、義手の圧倒的な質量が機械兵の頭部を粉砕し、火花が散る。 しかし、機械兵の群れはルカに対して怒りも恐怖も示さず、ただ排除すべき障害物として、極めて合理的かつ最短の軌道で次々と殺到してくる。
ルカは、前腕の鞘にステラ・ニードルを収めた重厚な右腕を振り回し、左手の魔力で重心をコントロールしながら、ノアと共に必死の防衛線を張った。
敵の動きには一切の無駄がない。連携に迷いがなく、攻撃の軌道は幾何学的に美しく、ルカの反撃を予測して最適な回避行動をとる。 不要なものは切り捨てる。ノイズは消去する。ただ一つの完璧な解だけを、最短距離で導き出す。
その姿は痛々しいほどに自己完結しており、外部からのいかなる介入も、いかなる対話も拒絶していた。 その論理の結晶が、目の前で自壊していく巨塔だった。
「ガリィさん、皆さんはこれ以上塔に近づかないでください。暴走した機械兵の足止めだけ、お願いします」
「馬鹿言え! あの塔の内部は今、超高圧の蒸気と虹色の魔力が渦巻く殺人オーブンだぞ! その半端で痛てぇ義手一本で、どうやって最上階まで登る気だ!」
「登るんじゃありません」
ルカは、静かに、しかし断固たる声で言った。 彼女は義手のメインバルブに左手を添え、安全装置のストッパーを力強く引き抜いた。
「……『こじ開ける』んです」
シュゴォォォォォォォォォッ!!!
ルカの宣言と同時、リミッターを解除された真鍮の義手から限界を超えた莫大な量の高圧蒸気が、暴風のように噴き出した。 義手の関節部が圧力に耐えかねて赤熱し、金属の軋む悲鳴が広場に響き渡る。
内側の生身の腕が引き千切られんばかりの激痛が脳を叩き打つが、ルカはその痛みを全て、前へ進むための物理的な推力へと変換した。
「シィィィッ!!」
ルカが右腕を後方へ振りかぶった瞬間、噴き出す蒸気の反動が、彼女の華奢な身体を弾丸のように前へと打ち出した。 石畳が爆発するように砕け散り、ルカの姿がブレる。
彼女は機械兵の群れを飛び越え、真正面から、暴走する中央蒸気塔の分厚い鋼鉄の防護扉へと突進した。
「お父様!!」
限界まで蒸気圧を高めた真鍮の拳と、その鞘に収まったステラ・ニードルの楔が、塔の完璧な論理の壁に向かって、凄まじい音を立てて叩き込まれようとしていた――。




