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ステラ・ニードルの記憶 〜完璧な魔法を失った天才魔導師は、真鍮の義手で不完全な世界を継ぎ接ぎする〜  作者: 紡木 綸


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【第21話】論理の暴走 ―― 虹色の稲妻(2)

ガアァァァァンッ!!!

ルカの放った真鍮の拳が、中央蒸気塔の分厚い鋼鉄の防護扉へと激突した瞬間。 轟音とともに塔全体が巨大な音叉おんさのように震え、その恐るべき反作用の振動がルカの右腕へとダイレクトに跳ね返ってきた。

「が、ぁっ……!」

内側の生身の骨が軋む痛みに呻き声を上げる。 扉は砕けなかった。 それどころか、表面にわずかな凹みを残しただけで、ルカの放った凄まじい物理的トルクを、塔の装甲自体が波打つようにして「吸収」し、無効化してしまったのだ。

ルカは弾き飛ばされ、石畳の上を数メートル滑りながら、義手の重い真鍮の爪を立ててどうにか体勢を立て直した。

(……物理的な衝撃すら、瞬時に計算して分散させている。この塔そのものが、一つの巨大な防御機構になっているんだわ)

ルカが顔を上げると、塔の中腹から噴き出した虹色の魔力が、ついにアイアン・ヘイヴンの市街地へと直接的な牙を剥き始めていた。 それはまさに「完璧な論理の崩壊」がもたらす地獄のパノラマだった。

暴走した高圧の蒸気管が、大通りの地下で次々と爆発を起こす。 吹き上がるのはただの熱湯ではない。空間の綻びから漏れ出した異界の虚無の残滓が蒸気と混ざり合い、油膜のようにギラギラと光る『致死の熱霧』となって街を覆い尽くしていく。

その虹色の霧に触れた瞬間、街灯の鉄柱は飴細工のようにぐにゃりと曲がり、石畳は沸騰した泥のように泡立ち始めた。 物理法則という絶対のルールが、局地的に、そして無作為に書き換えられているのだ。

その超常的な崩壊を前にして、アイアン・ヘイヴンの住民たちは、かつてルカが立ち寄ったグレイロックの村人たちとは全く異なる、異様で絶望的なパニックに陥っていた。

グレイロックの人々は自然の脅威に対して原始的な恐怖と怒りを持って抗おうとした。 しかしこの鉄の街の住民たちは、生まれてから今日まで中央蒸気塔が弾き出す「完璧な論理」と「絶対的な時計の針」にのみ従って生きてきた。 彼らにとって機械の論理とは狂うことのない神そのものだった。

「あ、ああ……時間が、逆転している……! 歯車が、左回りに……!」

一人の時計職人が、狂ったように逆回転を始めた広場の大時計を指差して膝から崩れ落ちた。

「逃げ道がない! 避難誘導のサイレンが封鎖区画へ向かって鳴っている! 論理が……都市の計算が間違っているんだ!!」

人々は逃げ惑うことすらできず、その場に立ち尽くしていた。 彼らの脳は「論理的な正解」を探そうとフリーズし、目の前で起こっている非論理的な破壊を受け入れることができない。

虹色の霧が迫ってきているのに、彼らは自分の足で逃げることよりも、手元の狂った計算機を叩き続け、「何かの間違いだ」と叫び続けることしかできなかった。 完璧なシステムに依存しきった人間は、そのシステムが狂った時、動物としての生存本能すらも奪われてしまう。

その集団的な麻痺の光景は、ルカの胸を鋭く締め付けた。

「ルルルゥゥゥ……ッ!!」

ノアが、迫り来る虹色の熱霧に対して威嚇の咆哮を上げる。 その声でハッと我に返ったルカは、再び中央蒸気塔を見上げた。

先ほどの打撃で扉をこじ開けることはできなかったが、ルカはその一撃を通じて、ある決定的な『情報』を掴み取っていた。 それは、ルカの右腕の真鍮の義手が塔の防護扉と激突した瞬間に生じた、「極めて不快な共鳴現象」だった。

ルカは、義手の前腕部の鞘に収められたステラ・ニードルと、義手内部の歯車の軋みに意識を集中させた。 義手は今、虹色の魔力と高熱の蒸気に当てられ、内部の歯車が不規則に軋み、ルカの死んだ神経に対してビリビリと痛みを伴う強烈なノイズを送り込み続けている。

かつてのルカなら、このノイズをただの機械の不調として切り捨てていただろう。 だが今の彼女は、この義手が抱える誤差と痛みを、世界と対話するための大切なインターフェースとして受容している。

ルカは目を閉じ、義手を通じて流れ込んでくるその不規則なノイズの波形を、左手の微細な魔力センサーの感覚と重ね合わせ、頭の中で立体的に構築した。

(……この軋み。ただのランダムなバグじゃない。塔から溢れ出している虹色の魔力の波長と、完全に『逆位相』でぶつかり合っている)

ルカの脳内に、閃光のような直感が走った。 中央蒸気塔に侵入した虚無の力は、デタラメに都市を破壊しているわけではない。「すべてから熱を奪い、ゼロにする」という極めて厳密な法則の崩壊パターンを持っていた。

塔の完璧な論理回路は、その「ゼロに向かうベクトル」を真正面から受け止めてしまい、自らをゼロ(無)に近づけることで完璧を保とうとする自己破壊のループに陥っているのだ。

「……だから、お父様の完璧なシステムじゃ、この綻びは永遠に塞げないんだわ」

ルカは目を開き、確信に満ちた声で呟いた。 かつてのルカであれば、この巨大な綻びに対して、より巨大で完璧な「矯正の魔法」をぶつけていただろう。

しかし相手は無限のゼロだ。どれだけ完璧な魔力を注いでも、虚無はそれを瞬時に吸収してしまう。 グレイロックの村で学んだような、自然の素材を生かす緩やかな治癒力でも、この金属を溶かす熱霧の前では一瞬で蒸発してしまう。

(完璧な魔法でもダメ。自然の治癒でもダメ。なら、どうする?)

ルカは、激痛と共に軋む自身の右腕を見た。 ノアの熱を帯びて膨張し、ギリギリの公差で不格好に駆動する真鍮の義手。 そして彼女の傍らで、虹色の魔力に対して一切の計算も論理も持たず、ただ「生き残る」という純粋な野生の闘志を剥き出しにする銀狼のノア。

(……これだわ)

ルカの泥にまみれた唇の端が、微かに吊り上がった。

(完璧な論理が、完璧すぎるがゆえに虚無のゼロに飲み込まれているなら。……絶対に計算不可能な、泥臭くて非効率な『生きたノイズ』を、システムのど真ん中にぶち込んでやればいい)

ルカが選んだのは、蒼刻の塔の「矯正」でも、グレイロックの「継ぎ接ぎ」でもない。 このアイアン・ヘイヴンという地獄の底で手に入れた、『義手の不完全な科学』と『ノアの野生の生命力』を融合させた、極めて暴力的で、かつ慈愛に満ちた独自の修復法だった。

「ノア! 塔の正面突破は諦める! ルート変更よ!」

ルカが叫ぶと、ノアはすぐさまルカの意図を察し、身を翻した。

ルカが視線を向けたのは、塔の「頂上」ではなかった。 彼女が睨みつけたのは、塔の基部からさらに地下深くへと続く、巨大で汚悪な『排気・排水のハブ施設』だった。

そこは、アイアン・ヘイヴンの都市機能が排出する、燃えカスの灰や有害な廃液といったすべての「ノイズ」が集中する場所。 中央論理回路は、それらを「価値のないゼロ以下のゴミ」として計算から除外している。

つまりあの地下の汚水溜めこそが、この完璧な機械都市において最も非効率であり、ゆえにアルベルトの監視の目が行き届かない巨大な「盲点ブラインド・スポット」なのだ。

「そこから、この街の血管に『毒』を流し込む」

ルカの言う毒とは、破壊のためのものではない。 計算狂いに陥ったシステムを強制終了させ、再起動させるための、泥臭く温かい『生命のノイズ』という名の荒療治だ。

「行くわよ!」

ルカは、右腕の義手をかばうように身体を沈め、パニックに陥る広場を逆走するように駆け出した。

「排除。排除。非効率な個体を排除」

広場の地下へ続く搬入口の前に、四体の重装甲機械兵が立ち塞がる。彼らの手には高圧電流を放つスタンロッドが握られていた。

「どきなさい!!」

ルカは歩みを止めない。 彼女は、義手の鞘に収まったステラ・ニードルの先端を、前方の機械兵の足元――石畳の継ぎ目へと向けた。

脳が命令を下してから、義手が実際に動くまでの〇・五秒の遅延。 ルカは意図的にその時間差を先読みして身体を深く沈め込み、出力のブレを左手の魔力と体幹で強引にねじ伏せる。

その完璧に計算された「タイムラグ」の隙間に、ノアが弾丸のように飛び出した。 ノアの銀色の爪が機械兵の視覚センサーを物理的に引き裂き、敵の反応をコンマ数秒遅らせる。 そのノアが作った誤差の隙間に、ルカの真鍮の拳が、恐るべき蒸気圧とともに叩き込まれた。

ドッゴォォォォォン!!!

ルカが殴りつけたのは、機械兵の装甲ではなく、彼らが立つ石畳そのものだ。 鞘に収まったステラ・ニードルが楔となって地下の蒸気管に深く突き刺さり、ルカが義手の排気弁を全開にして、自身の『非効率な熱』を配管の内部へと一気に逆流させたのだ。

機械兵たちの足元の地面が、限界を超えた蒸気圧によって火山のように爆発した。

「ピガァァァッ!?」

重さ数トンはある重装甲の機械兵たちが、吹き上がる熱湯と瓦礫とともに宙に舞い、無惨に機能停止して広場に叩きつけられる。

「……ハァッ、ハァッ……!」

ルカの右腕から、悲鳴のような金属の軋み音が上がる。 内側の生身の腕は限界を訴え、激痛が視界を白く染め上げる。

だが、ルカの瞳は爛々と輝いていた。

(痛い。重い。熱い。……最高だわ)

かつての魔法のような、無傷で涼しい顔をした勝利ではない。 自分の肉体を削り、機械に無理をさせ、相棒の獣と呼吸を合わせて、泥まみれになって掴み取る前進。

パニックに陥り、頭を抱えてうずくまっていたアイアン・ヘイヴンの市民たちが、信じられないものを見るような目で、ルカの背中を見つめていた。

完璧な論理の象徴であった塔が狂い、街が崩壊していく中で。 片腕に不格好な鉄の塊を被せた一人の不完全な少女だけが、誰よりも力強く、誰よりも確かな意志を持って、地獄の釜の底へと続く階段を駆け下りていく。

「待ってて、お父様」

地下の排気ハブへと飛び込む直前、ルカは一度だけ、塔の頂上を睨み上げた。 虹色の稲妻が逆巻くその空へ向かって、ルカはステラ・ニードルを収めた真鍮の拳を、宣戦布告のように突き立てた。

「あなたの計算式に、絶対に解けない『生きるためのノイズ』を、今から叩き込んであげる!」

ルカとノアの姿は、濃密な廃油の臭いと、ゴボゴボと煮え滾る汚水の音が支配する、都市の暗黒の地下道へと飲み込まれていった。 完璧な世界をぶち壊すための、最も泥臭く、最も偉大な『継ぎ接ぎ』の儀式が、今まさに都市の最底辺から始まろうとしていた――。


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