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ステラ・ニードルの記憶 〜完璧な魔法を失った天才魔導師は、真鍮の義手で不完全な世界を継ぎ接ぎする〜  作者: 紡木 綸


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【第18話】ルカの魔法とガリィの科学

ルカは、左手で義手の分厚い真鍮の肘関節をそっと押さえつけた。 義手は「ギッ」と微かに軋み、そして静止した。

「この義手は……」

ルカは、ガリィに向かってかすれた声で呟いた。

「ただの、足りない腕を補うための道具ツールではないのですね」

「ああ」

ガリィは、再び腕を組みながら静かに答えた。

「そいつは、お前の新しい『自己の哲学』を、物理的に具現化した代物だ。お前は今、その動かない生身の腕を、『世界の理に否定された忌まわしい傷跡』だと思って、自分を責めてるだろう? 完璧なコードから外れたことでシステムから強制遮断された、見苦しいエラー・ログだと」

ルカは、左手の指で義手の冷たい真鍮の関節を強く握りしめた。

「……そうよ。完璧なコードから外れた、ただのエラー。世界を強引に矯正しようとした私の傲慢さへの、無残な罰だわ」

「世界の硬直した論理から見れば、その腕は確かに『否定された証』だ。だが、俺のこの『欠陥品の哲学』から見れば、その意味はまったく逆になる」

ガリィは、ルカの右腕を真っ直ぐに指差した。 その仕草には、深い敬意が込められていた。

「ルカ。お前のその生身の右腕はな、『完璧な論理からの脱却を証明する、名誉ある勲章』だ」

「勲章……? これが……?」

「お前の右腕の麻痺は、ただの神経の焼失じゃねぇ。それはお前が『完璧な論理のメス』を捨てて、『禁断の私情』という名の慈愛の包帯を選んだ、人類史上最も非効率で、最も人間的な行動の、確かな物理的証明書なんだよ」

ガリィの言葉は、ルカの孤独な贖罪の道に、初めて明確な倫理的な根拠を与えてくれた。

「お前はこれから、俺が設計して破綻させたアイアン・ヘイヴンのような『完璧な論理の失敗作』と嫌でも対峙することになる。都市の硬直、システムの麻痺、人間の心の荒廃。これらはすべて、ノイズと摩擦を排除し、ゼロの静寂を求めた論理の末路だ。……その時、お前は何を武器に、その論理の怪物と戦う?」

ルカは、ノアの温もりを左腕で確かめた。

「ノアの温もり……生命の揺らぎを、私は抱きしめて戦うわ」

「だが、冷血な論理の怪物に『温もり』の良さは通じねぇ。論理には、より深い『論理の否定』で対抗するしかない。お前のその右腕こそが、最大の武器になるんだ」

「この、腕が……」

「そうだ。お前は、アイアン・ヘイヴンの頭の硬い連中に向かって、こう叩きつけてやれる。『お前たちが排除しようとしたノイズを、私は自らの命を賭して抱きしめた。その代償がこの腕だ。お前たちの信じる論理が、いかに冷たく、非効率で、持続可能性のないものだったか、私はこの法則の残骸をもって証明してやる』ってな」

ルカの瞳に、新しい光が宿った。 それはかつての冷徹な観測者の光とは全く異なる、不完全さを知り、痛みを引き受けた『人間としての意志の光』だった。

ルカは、先ほど泥の中から拾い上げ、真鍮の手甲の奥で握りしめていた『ステラ・ニードル』を、ゆっくりと目の前に掲げた。

「その針をどうする?」とガリィが尋ねる。

「もう、完璧な定規としては使わない。……この義手に、私の『不完全な理』として刻み込むの」

ルカは、不格好な真鍮の指で握っていたステラ・ニードルを、あえて左手に持ち替え、義手の前腕部にある『鞘』へと差し込もうとした。 しかし、手が震えて一回では入らない。針先が真鍮の縁に不規則に当たり、「カチッ、カチッ」とノイズを立てる。

「どうした? かつての天才なら、挿入角度の計算くらい一瞬だろう」

ガリィが少しからかうように目を細めた。

「……うるさいわね。私はもう、この揺らぎをエラーとして消去したりしないわ。これが、私の泥臭い適合力ノイズなのだから」

二回目の試みで、不規則な「カツン」という摩擦音と共に、ステラ・ニードルはついに義手の鞘へと深く収まった。

「その針は、もう完璧な定規じゃねぇ」

ガリィは、鞘に収まった銀の針を見つめて静かに言った。

「それは、お前がこれから世界に示す、義手の持つ不完全な理の象徴だ。完璧な論理に敗北し、それでも不完全な生を選んだ者だけが掲げることができる、泥まみれの旗印だ」

ルカは義手を見た。 真鍮の装甲は冷たいが、その鞘に収められた針は、ルカの胸の中で摩擦熱にも似た、新しい情念の温もりを激しく放ち始めていた。

(完璧な論理を捨てた私の左手だけが、この義手の非効率な始動弁を開くことができる。その不格好で痛みに満ちた動作一つ一つが、私の『慈愛の論理』を、物理的な真実として世界に証明していくことになる)

義手の鞘に収まった『ステラ・ニードル』が、微かな摩擦熱を帯びてルカの決意に共鳴した、まさにその直後だった。

工房の外で、アイアン・ヘイヴン全体を根底から揺るがすほどの巨大な爆発音が轟いた。 警報の狂ったような汽笛がジャンクヤードの空気を震わせ、ただならぬ人々の絶叫が遠く路地裏にこだまする。

ルカの右腕の義手が、その外気の異常な震え――空間の致命的な『綻び』が悲鳴を上げる気配を感知し、まるで戦闘を渇望するかのようにギリギリと低い摩擦音を立てた。

「……始まったか。アイアン・ヘイヴンの完璧な論理が、ついに音を立てて崩れる時が」

ガリィが、咥えタバコを口からポロリと落とし、工房の入り口を鋭く睨みつけた。

* * *

ガリィの工房の重いオーク材の扉を、ルカは真鍮の重装手甲フル・ガントレットで押し開けた。 外気を遮断していた分厚い木板が、義手の過剰なトルクによって「メキッ」と嫌な音を立てて軋み、表面の木目が不自然にひび割れた。

「……あ」

ルカは思わず足を止め、自分の右腕――その先端で鈍い黄金色を放つ五本の真鍮の指と、前腕部のさやに収められた『ステラ・ニードル』を見下ろした。 木を割るつもりなど、毛頭なかった。ただ、今まで生身の腕で無意識に行っていた「扉を押し開ける」という動作を念じただけだ。

しかし、義手はルカの脳内から発せられた『扉を開けろ』という漠然とした生体電流のノイズを、極めて機械的に、かつ過剰な出力として翻訳し、シリンダーに無骨な蒸気圧を送り込んでしまったのだ。

扉の表面に残った、深く抉れた金属の指跡。 それは、今のルカが世界に対して振るう「力」がいかに粗雑で、いかにコントロールを失っているかを、冷酷なまでに可視化していた。

扉の外、アイアン・ヘイヴンの大通りは、空間の綻びから漏れ出す虹色の稲妻と、暴走する機械兵たちの咆哮によって、阿鼻叫喚の地獄と化していた。 黒煙が天を焦がし、逃げ惑う人々の悲鳴と、煉瓦の建物が崩落する轟音が鼓膜を容赦なく叩き据える。

本来ならば、一秒の猶予もない緊急事態だ。 だが、ルカの主観時間は、そのひび割れた扉の木目を見つめた瞬間から、泥のように重く、緩やかに引き伸ばされていた。

彼女は、燃え盛る街の喧騒から切り離されたように、ただ自身の右半身で起こっている「遅延」と「誤差」の感覚に、全精神を没入させていた。

(……遅い)

ルカは、右手の真鍮の指を『開く』、そして再び『閉じる』という動作を、激痛に耐えながらゆっくりと虚空で繰り返してみた。 脳が命令を下す。

かつての彼女ならば、その命令はコンマ一秒のタイムラグすらなく神経から筋肉へと伝達され、極めて流麗な指先の舞いとなって空間を縫い合わせていた。 魔力という超伝導のネットワークが、彼女の意志を寸分の狂いもなく現実世界へと反映させていたのだ。

しかし今はどうだ。脳が「動け」と叫ぶ。 その信号は、一度焼き切れて沈黙した右肩の死んだ神経の断端へと、重い泥の中を進むように到達する。そこで、肉に食い込んだ無数の銅の接合針コンタクト・ピンが、その微弱な生体電流のノイズを拾い上げる。

針から導線へ。導線から、義手内部の調速機ガバナーへ。 調速機が歯車の噛み合わせを調整し、主弁が開いて高圧の蒸気がシリンダーへと流れ込む。 ピストンが押し出され、ワイヤーが引かれ、内側の生身の指を強制的にへし曲げる激痛と共に、ようやく真鍮の関節が「ガシャリ」と重い音を立てて稼働する。

命令を下してから、実際に外側の指が動くまでに、体感にして約〇・五秒の『遅延ラグ』が存在した。

たかが〇・五秒。凡人にとっては気にも留めない誤差かもしれない。 だが、「国一番」と讃えられ、魔力回路のミクロン単位の綻びを瞬時に縫い合わせてきた天才魔導師にとって、この〇・五秒の遅延は、世界との間に分厚い防弾ガラスを挟み込まれたかのような、絶望的なまでの「隔絶」だった。

(私が……私の意志が、こんなにも世界に届かない)

差し迫る都市の崩壊を前に、ルカは自らの新たな腕の「圧倒的な不自由さ」を突きつけられていた。 彼女の過酷な戦いは、まだ始まったばかりだった――。


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