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ステラ・ニードルの記憶 〜完璧な魔法を失った天才魔導師は、真鍮の義手で不完全な世界を継ぎ接ぎする〜  作者: 紡木 綸


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【第13話】ガリィの墓場 ―― 廃棄された天才(1)

「そうか。動かない機械か。そりゃあ、いい。都市でふんぞり返ってる頭の硬い連中は、機械が少しでも壊れたら、すぐに真新しい規格品に交換したがる。だがな、嬢ちゃん。壊れた機械ってのは、この世で一番雄avelな最高の教科書なんだ」

ガリィは手にしていたヤスリを置き、ボイラーの破片を指差した。

「どこが壊れたか、なんて表面的なデータはどうでもいい。なぜ壊れたか。そして、どうすれば『壊れた形のまま』で、また一緒に回っていけるか。それが、この墓場を支配する唯一の論理だ」

言うが早いか、ガリィは作業台の上に転がっていた、極小の亀裂が入った規格外の真鍮のボルトを無造作に拾い上げ、ルカに向かって放り投げた。

ルカは反射的に、動かない右腕ではなく、ノアを抱きしめている左手の指先を器用に伸ばし、宙を舞うボルトを空中でピタリと受け止めた。 その一瞬の、片腕しか使えない者特有の洗練された身のこなしに、ガリィの目が微かに、しかし鋭く細まる。

「どうだ? そのボルトを、工場出荷時の完璧な状態に直せるか? 蒼刻の塔から転がり落ちてきた天才様なら、残ったその腕で魔力を練って、一瞬で原子配列を矯正できるんだろう?」

ルカは、左手の親指の腹で、ボルトの表面に走る微細な亀裂をゆっくりとなぞった。 金属の冷たさと共に伝ってくるその亀裂の感触は、極北の荒野の硬い凍土を不格好な鍬で必死に穿った際に、彼女自身の左手の皮膚が裂けてできた傷跡と、ひどく似通った、痛々しくも生々しい欠陥だった。

「……今の私には、原子を組み替えるような魔力はありません」

ルカは、手の中のボルトを見つめたまま、静かな声で答えた。

「それに……仮に魔力が完全に残っていたとしても、この亀裂は、もう消去して上書きすべきではありません。この真鍮のボルトは、ここに亀裂が入ったことによって、特定の方向からの物理的な応力に対してのみ、柔らかく反発して力を逃がすという、設計図にはない『新しい法則』を偶然獲得している。これを誤差ゼロの完璧な状態に直してしまえば、この部品が身を削って得た、その新しい法則を永遠に失うことになります」

ガリィは作業台の上から、値踏みするようにルカを見つめた。

「……蒼刻の塔で『完璧』を仕込まれたはずの魔導師が、随分と泥臭いことを言うじゃねぇか。一体、お前の身に何があった?」

その嗄れた、しかし一切の偏見を含ないガリィの声と、周囲を埋め尽くす『許された欠陥品』たちの静かな気配が、ルカの心の奥底に掛けられていた重い鍵を、不意に解き放った。 ルカは、左腕の中で丸くなるノアの温もりを確かめるように撫でながら、ぽつり、ぽつりと語り始めた。

かつて自分が、蒼刻の塔の最上階で「誤差ゼロ」の完璧な観測者として君臨していたこと。 ノイズや不完全なものを「バグ」として冷酷に消去し続けた代償として、味覚や触覚といった自らの五感が世界から剥離し、生きた感情を持たないただの機械になりかけていたこと。

「完璧な論理に従えば、この子は即座に消去すべき致命的な『エラー』でした」

ルカは、左腕の中で丸くなるノアの温もりを確かめるように撫でた。

「でも、この子の瞳を見た時……私は初めて、ノイズを消せなかった。禁忌を犯して、この命をこちらの世界へ強引に縫い留めました。……その結果が、これです」

ルカは言葉を区切り、力なく垂れ下がった自らの右腕に視線を落とした。 世界の法則をねじ曲げた代償として焼き切れた紫黒の傷跡が、すべての顛末を残酷なほど雄弁に語っていた。

ルカは顔を上げ、ガリィの澄んだ瞳を真っ直ぐに見返した。

「だから、分かるんです。このボルトの亀裂も、不完全なノイズも……ただ消去していいエラーなんかじゃない。それは、理不尽な力に抗い、この世界で生き延びようと必死に足掻いた『生きた証』なのだと」

ガリィは一瞬きょとんとした後、顔についた煤など全く気にせずに、腹の底から大声を上げて笑い出した。

「ハッ! ハハハッ! こいつは傑作だ! 神の座に近い塔のてっぺんから、わざわざこんな泥の底まで転げ落ちてきた理由がそれか!」

ガリィはひとしきり笑った後、目尻の涙を拭いながらルカを見た。

「新法則? 生きた証、だと? 都市の賢い連中はな、お前が今言ったその美談を、顔を真っ赤にして『致命的なシステムエラー』と呼ぶんだぜ。だが……なるほどな。お前がこんな掃き溜めに迷い込んできたのは、その許されないエラーを冷酷に消去せず、自分の不格好な手で継ぎ接ぎして守り抜こうとした結果ってわけだ」

ガリィの言葉は、ルカの心を温かく包み込んだ。 グレイロックの冷たい泥の中で下した「世界より一つの命を優先する」という禁断の私情の決断を、この煤けた老人は一切否定せず、むしろ最高の敬意を持って肯定してくれたのだ。 ルカは息を呑み、安堵のあまり言葉を失った。

ガリィは、「どっこいしょ」と重い掛け声を上げて鋳鉄の台から立ち上がると、のっそりとした足取りでルカの目の前まで歩み寄ってきた。 彼から発せられる、むせ返るような鉄と油の匂い。

その澄んだ視線は、ルカの煤けた顔や左腕のノアではなく、厚いコートの不自然な隙間から力なく垂れ下がっている、血の通わない沈黙した右腕に完全に固定されていた。

「……その腕。そいつが、お前が世界に背いてエラーを守り抜いた、その『代償』か」

ガリィは、無骨だがひどく優しい手つきで、ルカの右腕の袖をゆっくりとまくり上げた。 薄暗いジャンクヤードの光の下に露わになったのは、もはや人間の肉体とは呼べないような、凄惨な残骸だった。

血の気が完全に失われ、大理石のように白く冷え切った肌。 皮膚の下に複雑に絡み合う血管と神経のネットワークは、限界を超えた魔力の過剰な奔流と、それを打ち消そうと逆流した虚無のエネルギーの凄まじい衝突によって内側から焼き切られ、まるで雷に打たれた巨木のように、禍々しい紫黒の斑点となって浮き上がっている。

そして、その機能を永遠に停止したルカの右手の指先には、母の形見であり、かつて世界の綻びを完璧に縫い合わせていた『ステラ・ニードル』が、永遠に解けない鉄の塊のように、固く握りしめられていた。 だがその針は、今や一切の魔力的光を失い、ただの冷たく重い、くすんだ銀の金属片へと成り果てている。

ガリィの汚れた太い指先が、ルカの無残な右腕の皮膚に直接触れた。 その指は、何十年も硬い鉄と熱い蒸気を相手にしてきたはずなのに、驚くほど柔らかく、指示しがたいほどの『温かさ』を帯びていた。

かつて完璧な論理を追い求めるあまり五感が世界から剥離して以来、ルカが感じることのでれた温もりは、幼い頃の母の記憶と、ノアの微かな体温だけだった。 しかし今、神経が完全に焼き切れ、物理的な感覚を一切伝達しないはずの右腕を通して、ガリィの『生きた人間の熱』が、ルカの肉体を飛び越え、精神の核へと直接突き刺さってくるような強烈な錯覚を覚えた。

ガリィは、ルカの右腕を、まるで『致命的な故障を起こした最高級の精密機械』を扱うような、途方もない敬意と慎重さをもってねんごろに観察し始めた。

彼は、医者のように脈拍の有無を探っているのではない。 筋肉の壊死の進行度、皮膚の微細なテクスチャの変化、何より皮膚の奥深くに残された「魔力の焼け跡」の立体的な構造を、職人の研ぎ澄まされた指先の感覚だけで、一つ残らず注意深く読み取っていく。

「……こいつは、ただの神経回路の麻痺や物理的な火傷じゃねぇな」

ガリィの声は、排熱溝の奥で静かに鳴る蒸気漏れの音のように、微細で心地よいノイズを含んでいた。

「あんたのこの右腕はな、魔力という名の『世界の法則に直接介入するための高次の権限』を、システム側から根こそぎ強制的に引き剥がされてる。魔力と虚無の衝突で神経繊維が物理的に破壊されたのは、あくまで表面的な二次被害に過ぎねぇ」

ガリィは目を閉じ、指先の感覚だけに意識を集中させながら言葉を紡ぐ。

「本質はもっと深いところにある。お前という存在を構成していた『完璧な観測者としてのコード』が、世界という巨大なシステムのセキュリティ・プロトコルによって、問答無用で断線させられたんだ。まるで、神様のメインフレームから強制的にログアウトさせられた、ただの抜け殻みてぇにな」

ルカの脳内で、その言葉が、かつて彼女のクロノス・ガイドが弾き出したどんな精密な解析結果よりも明確な『真理のコード』として激しく響き渡った。 ガリィの言葉は、ルカが心の中で最も恐れ、そして誰よりもその正しさを理解してしまう、絶対的な論理による断罪だった。

「さっきお前が自分で言った通りだ。あんたは、自分の命を天秤にかけて、異界のノイズであるその獣を、こちらの世界の法則の網目へ強引にパッチ(継ぎ接ぎ)した。それは、世界という完璧なプログラムからすれば『許されざる整合性の破綻』だ。お前のこの右腕は、その禁断のパッチを実行した『実行ファイル』そのものだったんだ。世界は、お前の体を介してそのパッチが全体に広がることを許さなかった。だから、実行ファイルを構成するお前の神経回路を、システム全体を守るために物理的に隔離クローズして焼き尽くしたんだ」

ガリィはそっとルカの腕から手を離し、傍らに転がっていたボイラーの破片を指差した。

「この黒焦げの鉄の塊を見てみろ。こいつに深い亀裂が入ったのは、かかった負荷が設計上の規格値を大きく超えたからだ。それと全く同じ理屈だ。お前の右腕は、世界の法則を無理やりねじ曲げるという『耐圧限界』を遥かに超えた。その結果、残されたのはただの『法則の焼け跡』だ。魔力の痕跡は、熱による物理特性の歪みと、物質から存在の情報を奪うという二重の破壊をもたらす。この腕は、その破壊が最悪の形で結晶化した、ただの『残骸』に過ぎねぇ」

そしてガリィの澄んだ視線は、ルカの右手に力なく握られた『ステラ・ニードル』へと向けられた。

「その銀色の針。そいつはかつて、あんたにとっての『論理のメス』だったはずだ。世界の法則を正確に切り裂き、誤差ゼロで繋ぎ直すための完璧な道具。だが今はどうだ? もはや魔力という『世界の言語』を話す器官を失ったお前にとって、その針はただの冷たい『罪の重り』だ。あんたの完璧だった過去と、動かない無惨な現実とを鎖で繋ぎ止める、重くて痛いだけのかせでしかねぇ」

ガリィの容赦のない診断は、ルカの精神の根幹に致命的な亀裂を生じさせた。 彼女の脳内で辛うじて作動していた論理回路が、この完璧なまでに正確な自己否定の宣告を、決して覆せない事実として冷徹に処理しようと激しくもがき続ける。

かつてルカが塔で最も恐れていた「死の宣告」。 彼女の存在証明は、完璧な論理の遂行と、誤差ゼロの修復能力にのみ依存していた。

そのインターフェースが「法則の残骸」として完全に断罪された今、彼女は理論上、この世界に存在してはならないエラーそのものだった。 ルカは、重圧に耐えかねたように、ジャンクの山を背にして冷たい地面に力なく座り込んだ。

脳内の論理回路が激しくもがき続ける中、ルカの前にしゃがみ込んだガリィは、ただ静かにその絶望を見つめていた――。


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