第46話:深夜の退職願、あるいは星空への逃亡
第46話:深夜の退職願、あるいは星空への逃亡
深夜二時。
浮遊国家アルヴァレスの心臓部である管理局は、青白い魔導光に包まれ、静謐な眠りについていた。
宙を舞う数万の鑑定ログは、もはや「監視の目」ではない。地上の作物の収穫時期を予測し、病の予兆を知らせ、人々の生活を支えるための「情報の灯火」として、穏やかに明滅している。
レオンは、メインフレームのキーを叩き、最後のアドミン・パスワードを入力した。
『権限譲渡:完了。次期CEO:セドリック。……全システム、正常稼働中』
「……これで、全部だ」
背もたれに深く体を預け、レオンは大きく息を吐いた。
誰もいない執務室を見渡す。
かつては効率と数字に支配され、一分一秒の遅延も許さなかった殺風景な部屋。
だが今は、セドリックが持ち込んだ地上の草花の鉢植えが芽吹き、人々から届いた拙い感謝の手紙が、整理されずにデスクの端に積まれている。
(俺が作った究極のシステムは、もう俺の魔力がなくても、人々の意思を汲み取って自律的に稼働し始めている。……皮肉なもんだな。俺がいなくなることで、この組織はようやく、本当の意味での完成を迎えたわけだ)
レオンは自嘲気味に口角を上げた。
椅子にかけていた、少し使い古されたコートを羽織る。豪華な魔王の装束は、もうクローゼットの奥に仕舞ってある。今、彼の手にあるのは、一本の簡素な杖と、着替えと最低限の食料を詰め込んだリュックサックだけだ。
(……お疲れ様、レオン・アルヴァレス。我ながら、ブラックな働き詰めだったよ)
俺は、誰にも告げずにアルヴァレスを去るつもりだった。
世界を傷つけ、恐怖で管理しようとした「元・魔王」が、盛大な送別会など開いてもらう資格はない。明け方、人々が目覚める前に、静かに一人の冒険者として地上へ降り、自分の足で贖罪の旅に出る。それが俺なりの、唯一許されるケジメだと思い込んでいた。
***
物音を立てないように回廊を歩く。
かつてアーヴェルと笑いながら歩いたこの廊下も、今はただ冷たく、静かだ。
管理局の重厚な扉を抜け、転移ゲートへと続く広場に出た時、ふっと、月明かりの中に影が落ちた。
「……お出かけ? リーダー」
柱の影に座り込んでいたのは、フェニカだった。
彼女の膝の上には、銀色の毛並みを光らせた聖獣ウルが、じっとレオンを見つめて丸まっている。
「……フェニカ。こんな時間に、どうした。子供は寝る時間だろ」
「別に。ウルがね、『寂しい匂いがする』ってうるさいから付き合ってあげてただけ。……あんたこそ、その格好、全然似合ってないよ。もっとシュッとした魔王様の方が、まだマシだった」
フェニカは鑑定EXよりも鋭い「色の知覚」で、レオンの決意も、リュックの中身も、その不器用で頑固な優しさも、すべてを透視していた。
「……済まない、フェニカ。黙っていく。あとのことは、セドリックとリリアに任せてある。君も、あいつらを助けてやってくれ」
「……リリアに、ね。……ふーん。……あんた、本当に自分のことに関しては鑑定がガバガバなんだから」
フェニカは立ち上がり、レオンの前に歩み寄った。
止めるかと思いきや、彼女はレオンのリュックの紐を、グイッと強く締め直しただけだった。
「いいよ、行きなよ。あんたは一回、自分の足で歩いて、自分の目で『ホワイトな景色』を見てこなきゃダメなんだ。……じゃないと、いつまで経っても自分の幸せを『鑑定不能』にしたままでしょ。あいつ(アーヴェル)も、そんなあんたを見てたら呆れるよ」
「……ああ、そうかもな」
「ウル、これ。リーダーに貸してあげなよ」
フェニカに促され、ウルがレオンの足元へ歩み寄ると、その首に下げていた小さな鈴が、淡い光と共にレオンの杖の先端へと移った。
「……道に迷わないための、お守りだって。……じゃあね、レオン。……あんたが選んだ後継者は、私がしっかり監視しててあげるから、安心してのたれ死んでこい!」
フェニカは一度も「行かないで」とは言わなかった。ただ、その瞳には「全部わかっているから、せいぜい頑張りなよ」という、戦友のような深い信頼の色があった。
***
浮遊大陸アルヴァレスの端、地上へと続く転移ゲートの前に立った。
冷たい夜風がレオンの髪を揺らし、下界から漂う土と草の匂いを運んでくる。
(……さようなら、アルヴァレス。さようなら、俺が作った、最高の会社)
レオンは一礼し、光の中へと足を踏み入れた。
次の瞬間、視界が開け、俺の足は確かな「地上の土」を踏み締めていた。
夜の草原。虫の声が響き、見上げる空には、かつて見下ろしていたアルヴァレスが、星の一つとして輝いている。
誰の視線もない。誰の幸福も背負わなくていい。
ただの「レオン」としての一歩。
「……さて。まずは、どこのギルドを目指すべきか。俺の鑑定スキルがあれば、新人冒険者としては破格のスタートを切れるはずだが――」
歩き出そうとした俺の背後で、再び、転移ゲートが激しく明滅し、轟音を上げた。
「――ちょっと待ちなさい! この『無断欠勤・深夜逃亡魔王』!!」
夜の静寂を切り裂く、聞き慣れた、そして今最も恐れていた声。
俺がギョッとして振り返ると、そこには、旅装を完璧に整え、自分の体よりも一回り大きな荷物を背負ったリリアが、肩で息をしながら仁王立ちでこちらを睨みつけていた。
「リ、リリア!? なぜここに……というか、その山のような荷物はなんだ!」
「なぜも何もありません! 私の『退職願』は、まだ受理されていませんからね! それに、勝手に会社の機密が持ち出されたら、秘書として追いかけるのは当然の業務です!」
「いや、俺は一人で……」
「却下です! 私の新しい業務は『迷える冒険者の専属秘書、兼、暴走防止担当』に決定しました! ……さあ、行きましょう、レオン様。明日の朝食の準備なら、もうこの荷物の中に入っていますから!」
俺の「孤独な贖罪の旅」という完璧な計画は、開始からわずか数分で、早くも「二人旅」という名の、あまりにも騒がしく、そして温かな未来へと書き換えられてしまった。
「……はぁ。鑑定するまでもないな。……俺の自由時間は、どうやら当分お預けらしい」
俺はため息を吐きながらも、月明かりに照らされたリリアの笑顔を見て、不器用な苦笑いを浮かべた。




