第40話 過負荷のシステム、あるいは恋心という名の不純物
第40話:過負荷のシステム、あるいは恋心という名の不純物
アルヴァレスの管理局(旧執務室)には、絶え間なく魔導演算の音が響いている。
宙を舞う数万の鑑定ログ。
その中心で、レオンは一睡もせず、大陸全土から届く「幸福度」の数値を調整し続けていた。
「……レオン様。……もう、やめてください」
背後からかかったリリアの声は、かつての凛とした事務的なものではなかった。
震え、湿り、今にも砕け散りそうな、ただの一人の女としての懇願。
「……リリアか。……報告なら、そこに置いておけ。……今は、隣国の食料配給ラインの最適化で、0.003秒の遅延も許されない」
レオンは振り返りもしない。
その背中は以前よりも一回り小さく、纏う黒い魔力は、彼の命を燃料に燃え盛る黒い炎のように見えた。
リリアは、差し出そうとした書類を握りしめた。
彼女は、覚えている。
かつて追放されたばかりの頃、慣れない野宿でレオンが作ってくれた、少し焦げたスープの味を。
「ホワイトな国を作ろう」と笑った彼の、あの不器用な横顔を。
最初は、その背中を追うだけで幸せだった。彼が目指す理想の歯車になれるなら、それだけで人生に価値があると思っていた。
けれど。
いつからか、リリアにとってレオンは「導く者」ではなく、「隣で笑っていてほしい男」になっていた。
アーヴェルを失い、彼が一人で泣いていた夜。
リリアは扉の向こう側で、自分の無力さに爪を立てていた。
彼が魔王になっても、自分を突き放しても、それでも自分だけは彼の「一番の部下」として残ることで、彼を支えているつもりだった。
(……でも、もう、限界。……あなたの幸せを鑑定できるのは、そのEXじゃない。……私なのに)
「……レオン。……お願い、私を見て」
リリアが思わず、一歩踏み出し、レオンの服の裾に手を伸ばした。
その瞬間。
『――警告。……個体:リリア。……心拍数上昇、体温上昇。……鑑定結果:業務に不要な感情の高ぶりを確認。……接触による管理効率の低下を検知。……強制排除を開始します』
「な……っ!?」
レオンの意思ではない。
彼が自分自身に設定した「効率化システム」が、リリアの『愛』さえもバグとして認識し、排除しようと空間を歪ませた。
「……下がれ、リリア! ……今の私の周囲には、自動防衛が――」
レオンが初めて、焦燥を浮かべて振り返った。
だが、その瞬間、二人の間に割って入ったのは、小さな影だった。
「――っ、いい加減にしてよ、バカレオン!」
フェニカが、強引にリリアを引っ張って後ろへ下げた。
彼女の手のひらから放たれた虹色の魔力が、レオンの無機質なシステムを一時的に中和する。
「……フェニカ。……何をしている」
「何をしてるのは、あんたでしょ! ……リリアが、どんな気持ちで毎日あんたの隣に立ってると思ってるの!?」
フェニカは、リリアを庇うように立ち、レオンを睨みつけた。
その視線には、すべてを見抜いている者の鋭さがあった。
「……リリアの『色』はね、もうずっと前から、あんたへの重たいくらいの『好き』でいっぱいなんだよ! ……悲しくて、苦しくて、それでもあんたが幸せなら自分はどうなってもいいって……! そんな色で、溺れそうになりながらここにいるんだよ!」
「……フェニカ様! ……それは、言わないって……っ!」
リリアが顔を真っ赤にし、崩れ落ちるように床に膝をついた。
ひた隠しにしてきた想い。
リーダーとして慕い、仲間として信頼し――その裏で、狂おしいほどに焦がれてきた恋心が、この最悪な状況で暴露された。
「……好き……だと?」
レオンの瞳が、鑑定EXのノイズで激しく明滅した。
彼にとって、リリアは「最も有能な秘書」であり「守るべき部下」だった。
だが、その彼女が自分に対して抱いている感情が、論理や効率とは真逆の、最も「不確実で、温かなもの」であることを、鑑定EXはあえて無視し続けてきたのだ。
『鑑定不能。……個体:リリアの感情プロファイル……。……エラー。……愛……? ……再計算……』
「……計算なんて、しなくていいんだよ」
フェニカが、泣きそうな顔で笑った。
「リリアはね、あんたに『世界』なんて背負ってほしくないの。……ただ、あんたと一緒に、あの焦げたスープを飲みたいだけなんだよ。……ねえ、リリア?」
リリアは返事ができなかった。
ただ、溢れ出す涙を隠すように顔を覆い、小さく頷くことしかできなかった。
「誰よりも幸せになってほしい」。その「誰か」の中に、本当は自分も入れてほしかったという、ささやかで強欲な願い。
「…………私は」
レオンの手が、わずかに震えた。
鑑定EXの光が、リリアの震える肩を捉える。
そこには、どんな数値化された幸福度よりも、リアルで、切実な「痛み」が刻まれていた。
「……私は、その感情を……受け入れる資格がない」
レオンは再び、背を向けた。
だが、その魔力は先ほどまでとは違い、ひどく乱れ、悲痛な不協和音を奏でていた。
「……今日は、もう下がれ。……リリア、……休暇を……、命じる」
それは、彼が今出せる、精一杯の「優しさ(拒絶)」だった。
完璧な管理社会のヒビから漏れ出したのは、一人の女の、切なすぎる恋心。
魔王の心臓は、鑑定不能なその『愛』に、静かに侵食され始めていた。




