第36.5話 番外編 色彩の消えた玉座(フェニカ視点)
第36.5話 番外編 色彩の消えた玉座(フェニカ視点)
私には、世界が「色」でできているように見える。
喜びは柔らかな山吹色、怒りは刺すような深紅、そして悲しみは重く湿った群青。
アルヴァレスを創った時のレオンの色は、とても不思議だった。
あちこちに綻びがあって、ひどく疲れていて、でもその中心には、誰よりも澄んだ「祈り」のような白があった。
だから私は、この人についていこうと思ったのだ。
けれど。
あの日、隣国の聖堂から帰ってきたレオンからは、もう、何の色も聞こえなかった。
「……フェニカ。そこにいたのか」
評議塔の最上階。アーヴェルのいない執務室は、昼間だというのに凍てつくような闇に包まれていた。
玉座に座るレオンの姿を見た瞬間、私は思わず息を止めた。
(……消えてる)
レオンを包んでいた、あの温かな白も、迷いの群青も、何一つ残っていない。
ただ、光さえも吸い込んでしまう「虚無の黒」が、彼の輪郭を形作っているだけ。
それは魔力の変質なんて生易しいものじゃない。彼という存在そのものが、この世界の理から切り離されてしまったような、絶対的な断絶だった。
「レオン、……あのごはん、リリアが作ったから。少しだけでも、食べろ」
私は震える手で、トレイを机の端に置いた。
かつての私なら、「お腹すいたー!」と叫んで、彼のパンを半分奪っていただろう。
でも、今のレオンにそんな冗談は通じない。近づくだけで、私の魔導知覚が「死ぬぞ」と警報を鳴らし続けている。
「……必要ない。鑑定EXによれば、今の私の肉体は魔力の循環だけで一ヶ月は維持できる。食事に費やす時間は、今のアルヴァレスには無駄なコストだ」
「コストって……。そんなの、アーヴェルは喜ばないよ」
言ってから、後悔した。
レオンの指先が、ぴくりと跳ねた。
一瞬だけ、彼の瞳に宿る『鑑定EX』の光が、鋭く私を射抜く。
「アーヴェルは死んだ、フェニカ。……私が、弱かったからだ」
その声には、怒りさえなかった。
ただ、冷徹な事実を報告するだけのような、無機質な響き。
彼は、自分の心さえも「鑑定」して、不要な感情として切り捨ててしまったのかもしれない。
「……ウルはどうした。まだ、私を避けているか」
レオンが、部屋の隅に視線を向けた。
そこには、私の足元で丸まっているウルの姿があった。
聖獣であるウルは、人間よりもずっと鋭敏に「魂の形」を感じ取ってしまう。
今のレオンから放たれる、すべてを無に帰すような黒い波動。それが怖くて、ウルは三日間、一度も彼に近づこうとしない。
「ウルは……、ただ、びっくりしてるだけだよ。レオンが、あまりにも強くなりすぎちゃったから」
「……そうか」
レオンは、短くそれだけ言うと、再び虚空に浮かぶ無数の魔導ログへと視線を戻した。
彼の手は、止まることなく動き続けている。
大陸全土の監視、不正の摘発、資源の再分配。
彼がやっていることは、確かに正しい。彼が支配を始めてから、下界で飢えて死ぬ子供の数は劇的に減った。
でも、その代わりに。
レオン自身の「命の色」が、どんどん擦り切れていくのが分かった。
***
その日の深夜。
私は、どうしても気になって、再び執務室の前に向かった。
扉の隙間から、漏れ出していたのは――静かな、あまりにも静かな『音』だった。
私は息を殺して、中を覗き見た。
そこには、誰もいない暗闇の中で、アーヴェルの杖を抱きしめるようにして、床に座り込むレオンの姿があった。
「……鑑定、完了」
レオンが、掠れた声で呟く。
「……対象:アーヴェルの杖。……修復不能。……残留思念:消失。…………代償:支払い済み。……もう、何も、残っていない」
彼は、感情を殺したはずの瞳から、ボロボロと涙を流していた。
声を上げて泣くことさえ、自分に許さないかのように。
ただ、溢れ出す涙をそのままに、親友が最後に触れていた杖に、何度も何度も、額を押し付けていた。
(レオン……)
私の目からも、熱いものが溢れた。
彼は変わってしまったんじゃない。
優しすぎたから、壊れてしまったのだ。
世界に絶望したんじゃない。自分自身の「無力」を鑑定して、その絶望を一生背負い続けるために、魔王という仮面を自分に貼り付けたのだ。
リリアは言っていた。「今のレオン様は怖い」って。
街の人も言っている。「空の支配者は冷酷だ」って。
でも、違う。
世界で一番、ブラックな労働を自分に課しているのは、レオン自身だ。
休むことも、笑うことも、悲しむことさえ「効率が悪い」と切り捨てて、彼は一人で、死ぬまでこの世界を背負おうとしている。
ウルの小さな前足が、私の手を握った。
ウルも、泣いていた。
怖くて近づけないけれど、大好きだから、苦しい。
私たちは、その夜、明け方まで扉の外にいた。
レオンが再び、仮面を被って立ち上がるまで。
彼が再び、一滴の涙も見せない「冷徹な魔王」の顔を作って、執務室の扉を開けるまで。
***
朝。
扉が開いた。
そこから出てきたレオンは、昨日よりもさらに深く、暗い「黒」を纏っていた。
「おはよう、フェニカ。……定時報告の時間だ。リリアを呼べ」
その横顔に、昨夜の弱さは微塵も残っていない。
彼は、私を見ることさえせず、冷たい廊下を歩いていく。
「……レオン!」
私は、彼の背中に向かって、精一杯の声を振り絞った。
「……私、絶対、辞めないから。この仕事。……あんた言ってたホワイト?な職場にするまで、あんたの隣に居座ってやるんだから!」
レオンの足が、一瞬だけ止まった。
振り返りはしなかった。
けれど、鑑定EXが映し出す彼の魔力が、ほんの、ほんの一瞬だけ。
かつての、あの不器用な「山吹色」に揺れたのを、私は見逃さなかった。
「……勝手にしろ。ただし、遅刻は減給だぞ」
ぶっきらぼうに投げ捨てられた言葉。
私は、それが少しだけ嬉しくて、ぐしぐしと鼻を擦った。
大丈夫。
世界が彼を魔王と呼んでも、私が彼の「色」を覚えている。
彼が自分を許せる日が来るまで、私はこの空の上で、ずっと彼を見張り続けてやるんだ。




