第34話 黒い雨の降る街、穢された聖域
第34話:黒い雨の降る街、穢された聖域
それは、世界を震わせる「慈愛」の旋律だった。
浮遊国家アルヴァレス。その街頭に設置された魔導放送の水晶板が、一斉に同じ光景を映し出した。
画面に映っているのは、隣国の大聖堂。
荘厳なパイプオルガンの音色を背景に、純白のドレスを纏った一人の乙女が、祭壇の前で静かに膝をついている。
亡命王女、セシリア・ルミナス。
かつてレオンを王国から追放し、今は「レオンの暴走を嘆く悲劇の聖女」として世界の同情を一身に集めている女だ。
「……皆様。耳を貸してください。そして、共に祈ってください」
セシリアの声は、水晶板を通じて世界中に響き渡った。その目には、真珠のような涙が溜まっている。
「先の悲劇によって失われた、気高き賢者アーヴェル・グランディス様。彼は平和を愛し、最後まで対話を望んでいました。……しかし、その遺志は今、彼の唯一の友であったはずのレオン・アルヴァレスによって踏みにじられようとしています」
彼女は、祭壇の上に恭しく置かれた小さな木箱を、震える手で開けた。
中から取り出されたのは、血に染まった衣服の切れ端。そして、アーヴェルのものだという、白髪の遺髪だった。
「ひどい……なんてことを」
アルヴァレスの街角で、誰かが声を上げた。
人々は画面に釘付けになり、息を呑んだ。
セシリアがやっていることは、表向きは「死者の追悼」だ。だが、その本質は、アーヴェルの死さえもレオンを「魔王」に仕立て上げるための舞台装置(小道具)に変える、おぞましい冒涜だった。
「レオン様は、怒りのあまりに罪なきアイゼン要塞の将兵を、数千人も一瞬で消し去りました。……アーヴェル様がこれを見れば、どれほど嘆くことでしょう。ですから、私は決意しました」
セシリアは祭壇に置かれた『聖女』の像に手を触れた。
その瞬間、彼女の背後に展開されたのは、異端の術式による巨大な魔方陣だ。
「これより一週間の間、私はこの聖堂にて、アーヴェル様の魂を弔う『鎮魂の儀』を執り行います。……そして、もしレオン様がまだ人間としての心をお持ちなら。……アーヴェル様の遺品を返してほしいと願うなら。この聖堂へ、一人でいらしてください。私は、彼の魂を救うために、命を懸けて対話いたします」
放送が切れる。
アルヴァレスの広場を支配したのは、重苦しい沈黙と、レオンへの深い疑念だった。
「……あいつ、本当にアイゼン要塞を一人で消したのか?」
「数千人も? アーヴェルさんの仇だとしても、やりすぎだろ……」
「セシリア王女は、あんなに命懸けで平和を訴えているのに……」
毒は、確実に回っていた。
セシリアが放った「慈愛」という名の毒が、アルヴァレスの民の心を、レオンから引き剥がしていく。
***
「――っ、ふざけるな! あのクソ女ぁぁ!!」
評議塔の会議室。リリアが水晶板を叩き壊さんばかりに叫んだ。
彼女の目には、激しい怒りと、そして隠しようのない恐怖が入り混じっていた。
「アーヴェル様の遺品を、あんな風に見せ物にするなんて……! 鑑定EXで分かっているんでしょ、レオン様!? あの女が殺したんだって、世界に言えばいいじゃない!」
リリアは、部屋の隅で暗い雨が降る外を見つめていたレオンに詰め寄った。
だが、レオンは振り返らない。
その背中からは、かつての「社畜時代に愚痴を言い合っていたような親しみ」は、一欠片も感じられなかった。
「……説明して、どうなる」
レオンの声は、感情が完全に抜け落ちた、機械的な響きだった。
「鑑定EXの結果を、誰が信じる? 世界はもう、俺を『魔王』だと決めつけている。セシリアが提示した『証拠』と、俺が一人で要塞を消したという『事実』。人々が信じるのは、後者だ」
「それでも、言わなきゃ分からないわ! フェニカも言ってよ!」
リリアがフェニカに助けを求める。
しかし、フェニカは腕の中で震えるウルを抱きしめたまま、うつむいていた。
「……無理だよ、リリア。今のレオン、マナが……全然、笑ってないもん。真っ黒で、冷たい氷みたいになってる。……今のレオンに近づいたら、私たちまで凍って死んじゃう」
「フェニカ様、何を……!」
リリアは絶句した。
かつて、四人で囲んだ食卓。
王制を否定し、「責任だけ王級で、権威もないホワイトな職場」を作ろうと笑い合った、あの時間はどこへ行ったのか。
「リリア。フェニカ」
レオンが、ゆっくりと振り返った。
その瞳には、かつての青い輝きではなく、すべてを拒絶するような、昏い『鑑定EX』の光が宿っている。
「俺は、行く。あの聖堂へ」
「ダメよ! 罠に決まってるわ! 彼女はあなたを一人で誘い出して、世界中の前であなたを……!」
「分かっている。……だが、アーヴェルの髪が、血のついた服が、あんな女の手元にあるのが我慢ならない」
レオンの周囲で、パチパチと空間が軋む音がした。
それは魔力の暴走ではない。レオンの「殺意」があまりにも高まりすぎたために、世界の法則そのものが歪み始めているのだ。
「俺は、あいつを奪い返しに行く。……邪魔をするなら、たとえアルヴァレスの民であっても容赦はしない」
「……レオン。あなた、本当に……」
リリアの手から、力が抜ける。
彼女が見ているのは、もはや敬愛する建国者ではなかった。
大切な者を奪われ、その死さえも汚された結果、人間としての情緒を捨て去り、怪物へと成り果てた「孤独な個」だった。
「ウル……」
レオンが、フェニカの腕の中にいるウルに手を伸ばした。
だが。
いつもなら真っ先にレオンの手に飛び込むはずの聖獣ウルが、小さく悲鳴を上げて――フェニカの影に隠れた。
レオンの指先が、空中で止まる。
「……そうか。お前にも、俺がそう見えるか」
レオンは、自嘲気味に口角を上げた。
その表情は、どんな絶叫よりも悲痛だった。
「いいさ。魔王で結構だ。……ホワイトな職場なんて、夢を見ていた俺が馬鹿だった。この世界には、血の通った交渉なんて存在しない。あるのは、力による支配か、欺瞞による破滅だけだ」
レオンの姿が、かき消える。
直後、評議塔の外から、かつてない規模の衝撃波が轟いた。
レオン・アルヴァレスが、単身で隣国の聖堂へと向かった合図だ。
***
外では、黒い雨が降り続いていた。
まるで、かつての賢者の死を悼むかのように。あるいは、これから始まる史上最悪の虐殺を、洗い流そうとするかのように。
セシリア・ルミナスは、聖堂の深奥で、モニターに映る「こちらへ向かってくる巨大な魔力の光」を見つめ、微笑んだ。
「おいでなさい、レオン。……あなたがその手で、私という『聖女』を殺す時。世界は永遠に、あなたという魔王を許さない。……アーヴェル様の遺体も、魂も、すべてはあなたの絶望を完成させるための贄になるのよ」
レオン・アルヴァレスは、最後の「人間としての絆」である仲間たちをも突き放し、孤高の深淵へと足を踏み入れた。
均衡は、もはや修復不能。
最愛の者の死すらも弄ばれた最強の男が、その理性の糸を完全に断ち切るまで、あと――数刻。




