第31話 神の沈黙、獣の慟哭
第31話:神の沈黙、獣の慟哭
その日、アルヴァレスの空から「色」が消えた。
快晴のはずだった。雲海の上、永遠の春を約束されたはずの浮遊国家には、不気味なほどに重い沈黙が垂れ込めていた。街の喧騒は止み、人々はただ、中枢にそびえ立つ評議塔を、凍りついたような眼差しで見上げていた。
そこから漏れ出る魔力の波動が、あまりにも冷たく、あまりにも巨大だったからだ。
「……レオン様。三日が、経ちました」
執務室の分厚い扉の外で、リリアが震える声で告げる。
返事はない。
扉の向こう側からは、家具が砕ける音も、怒号も聞こえない。ただ、大気を物理的に押し潰すような、高密度のマナが発する「軋み」だけが漏れ聞こえてくる。
「食事を運ばせました。少しでも、口になさってください。……フェニカ様も、ウルも心配しています」
リリアの必死の呼びかけも、厚い壁に遮られ、虚空へと消える。
彼女は、知っていた。今のレオンに何を言っても無駄だということを。そして、自分自身もまた、アーヴェルという「父親」にも似た支えを失い、心が千切れそうなことを。
***
執務室の中は、夜よりも暗かった。
レオンは、粉々に砕け散った執務机の残骸の中に座り込み、虚空を見つめていた。
彼の視界には、数日前から消えることのない、真っ赤な『ログ』が焼き付いている。
『――対象:アーヴェル・グランディス。生体反応の消失から72時間が経過。……再計算不能。……警告:解析EXの観測範囲内に、該当する魂の波動を確認できません』
(消失。消失だと?)
レオンは、自身の掌を見つめた。
この手は、ブラック企業の荒波を生き抜き、異世界という理不尽なチュートリアルを無限に繰り返す中で手に入れた、唯一の武器だった。
「最強」という言葉を具現化したような力。世界を望むままに書き換えることができると錯覚させるほどの、神のごとき魔力。
だが、その力は、たった一人の親友が、薄暗い谷底で流したであろう血を止めることさえできなかった。
どれだけ叫んでも、どれだけ魔力を奔流させても、失われた座標は戻らない。
「最強……か」
乾いた笑いが、喉の奥から漏れた。
無限ループのチュートリアルで培った経験も、神から与えられた解析EXも、肝心な時に「ただの数字」を見せるだけで、アーヴェルの命を救う役には立たなかった。
「何が最強だ。何がホワイトな職場だ! 俺が守りたかったのは、こんな、独りきりの玉座じゃない……っ!」
レオンが拳を床に叩きつける。
一撃。それだけで、強化魔法が施された評議塔の床に巨大な亀裂が走り、塔全体が激しく揺れた。
***
『隣国声明要旨:特使アーヴェル・グランディスは、移動中に正体不明の暴徒によって襲撃を受け、死亡。隣国はこれを、アルヴァレス内部の急進派による自作自演、あるいは統治能力の欠如と判断し――』
「……自作自演?」
レオンの喉から、ヒュッという音が漏れた。
怒り。
それは、これまでの社畜生活でも、過酷な無限ループの中でも感じたことのないほど、静かで、冷たく、そして巨大な感情だった。
アーヴェルは、この国の「理」だった。
レオンが最強の武であり、フェニカが最終的な災厄であるならば、彼はこのいびつな国家を「人」として繋ぎ止める、唯一の楔だったのだ。
その彼の死を、連中は政治の道具として利用し、あまつさえ「自作自演」と切り捨てた。
「……そうか。そうきたか」
レオンがゆっくりと立ち上がる。
その瞬間、部屋を満たしていた狂乱の魔力が、一点の曇りもなく収束した。
だが、それは平穏に戻ったのではない。爆発を待つ超高圧のエネルギーが、レオンという「器」の中に無理やり押し込められただけだ。
「フェニカ。ウルを連れて、リリアのところへ行け」
「……どこに、行くの?」
「決まっている。……あいつが命を懸けてまで繋ごうとした世界に、その価値がないというのなら」
レオンの瞳に、解析EXの青い光が宿る。
だがその光は、かつてないほどに深く、昏い色をしていた。
「俺は、お前たちが望んだ通りの『災厄』になってやるよ」
その瞬間、評議塔の窓ガラスがすべて一斉に粉砕された。
レオン・アルヴァレスの姿が、かき消える。
この日。
レオンの中から「対話」という名の選択肢が消えた。
そして、世界が最も恐れていた、知性を持った「破壊神」が誕生した。




