第30話 届かぬ指先、墜ちる賢者
第30話:届かぬ指先、墜ちる賢者
アーヴェルがアルヴァレスを発ってから、三日が経過した。
たった三日。
本来なら、特使が隣国に到着し、最初の晩餐会を終えた頃の、ありふれた時間だ。
だが、レオンの胸中に渦巻く嫌な予感は、刻一刻とその濃度を増していた。
執務室の窓の外、アルヴァレスの空は不気味なほどに晴れ渡っている。
しかし、レオンの視界に浮かぶ『解析EX』のウィンドウには、先ほどから奇妙な文字列が並んでいた。
『――再計算。対象:アーヴェル・グランディス。生体反応:確認……不安定。座標データの整合性が失われています。……警告。空間干渉の痕跡を検出』
「空間干渉……? アーヴェルの馬車は、正規の街道を通っているはずだ。結界に守られた安全な道のはずだろう」
レオンは立ち上がり、空を睨む。
隣国までは、浮遊都市からであれば一瞬で飛んでいける距離だ。
だが、外交上の「特使」は、正規のルートを辿らなければならない。それが国家としての礼儀であり、アーヴェル自身が強く望んだことだった。
「レオン様、お顔色が……」
リリアが心配そうに声をかける。
彼女の手にある水晶板には、隣国からの公式な入国確認ログが表示されていた。そこには『特使一行、定刻通り国境を通過』と記されている。
「リリア。隣国の監視拠点に連絡しろ。アーヴェルの現在地を、一分単位で報告させるんだ」
「はい、すぐに! ……でも、何かあったのですか?」
「わからない。だが、解析EXが……スキルの警告値が、見たこともない色をしている」
そう、赤いのだ。
かつて魔王軍と対峙した時でさえ、これほどまでに禍々しい警告色は出なかった。
何かが起きている。レオンが「最強」という座に縛られ、外交という名の鎖で身動きが取れない、その死角で。
***
その頃。
隣国北部、険しい岩山に囲まれた「嘆きの谷」。
そこは、国境を越えた特使一行が必ず通らなければならない、逃げ場のない一本道だった。
ガタガタと揺れる馬車の中で、アーヴェルは一通の書類を読み返していた。
ふと、彼はペンを止め、窓の外を見る。
「……鳥のさえずりが、止まったな」
老宰相の呟きと同時に、馬車が急停止した。
馬のいななき、そして、数人の護衛兵たちの怒号。
「――何者だ! 特使の馬車であるぞ、道を開けろ!」
返ってきたのは、言葉ではなく、冷徹な一撃だった。
岩山の上から降り注いだのは、雨のような魔矢。
それも、ただの魔法ではない。対魔術師用の、結界を無効化する特殊な呪具が仕込まれた矢だ。
「……っ、襲撃か!」
護衛たちが剣を抜く。
だが、彼らの前に立ちふさがったのは、漆黒のローブを纏った一団だった。
その中心で、一人の女が優雅に歩み寄る。
「ごきげんよう、賢者アーヴェル。いえ、今はアルヴァレスの『良心』と呼ぶべきかしら」
セシリア・ルミナス。
彼女は、血の海と化した地面を汚さないよう、つま先立ちでアーヴェルの馬車の前に立った。
「セシリア王女……。やはり、貴女でしたか」
アーヴェルは静かに馬車から降りた。
周囲の護衛はすでに全滅、あるいは戦闘不能。退路は岩崩れによって塞がれている。
彼は状況を瞬時に理解した。
これは、強盗の類ではない。国家を挙げた、完璧な「暗殺」だ。
「残念だわ。あなたのような賢い人が、あんな怪物の片腕を務めるなんて。……ねえ、アーヴェル。あなたが死ねば、あのレオン・アルヴァレスはどうなると思う?」
「……彼は、怒るでしょうな。君の想像も及ばぬほどに」
「ええ! それこそが私の望みよ!」
セシリアは狂おしい笑みを浮かべ、両手を広げた。
「彼が怒り、我を忘れてこの国を滅ぼしにやってくる。その瞬間、彼は名実ともに世界の敵……『魔王』になるの。最強の男が、たった一人の老いぼれのために世界を敵に回す。……滑稽だと思わない?」
「滑稽なのは、貴女の方だ。……彼は、貴女が思うほど、脆くはない」
「強がりは、死ぬ時まで取っておきなさい」
セシリアが合図を送る。
ローブの男たちが、一斉に複雑な術式を展開した。
それは、対象を殺すための魔法ではない。
対象の周囲の「因果」を切り離し、外部からの干渉――すなわち、レオンによる「転移」や「逆探知」を一切遮断する、究極の隔離結界だ。
***
アルヴァレスの評議塔。
「――ッ!?」
レオンは、心臓を直接掴まれたような衝撃に、その場に膝をついた。
視界が真っ赤に染まる。
『警告。対象:アーヴェル・グランディスの信号をロスト。……空間座標、崩壊。追跡不可能です』
「嘘だ……。解析EX! ログを溯れ! 転移門を強制的に開けろ!」
レオンは吠えた。
全身から溢れ出した魔力が、執務室の壁を、窓を、床を粉々に粉砕する。
だが、どれほど莫大な魔力を練り上げても、行き先(座標)が分からない。
まるで、世界からその場所だけが切り取られたかのように、何一つとして手応えがないのだ。
「レオン様! 落ち着いてください! 街が、街が壊れてしまいます!」
泣き叫ぶリリアの声さえ、今のレオンには届かない。
「フェニカ! フェニカはどこだ!」
「ここに、いるわ……」
背後から現れたフェニカの顔は、幽霊のように真っ白だった。
彼女の手は激しく震え、抱えている聖獣ウルは、聞いたこともないような悲鳴を上げていた。
「フェニカ……、探せるか? アーヴェルの場所を……」
「……無理よ。何も、聞こえない。何もないの。あそこだけ、マナが……死んでる」
フェニカの言葉は、レオンにとって死刑宣告に等しかった。
最強。
この世のあらゆる敵を打ち倒し、神の如き力を持つはずの自分。
だが、その力は、今この瞬間に、たった一人の大切な仲間が流しているはずの血を、止めることさえできない。
「あああああああああッ!!」
レオンの絶叫が、アルヴァレスの全域に響き渡った。
その衝撃波だけで雲海は裂け、空は夜のように暗転した。
だが、その強すぎる力は、虚空を叩くだけだった。
***
嘆きの谷。
アーヴェルの視界は、徐々に暗くなっていく。
胸には、深く、漆黒の短剣が突き立てられていた。
周囲には、セシリアたちの姿はもうない。証拠を隠滅し、彼らはとうに立ち去った。
残されたのは、冷たい土の上に横たわる老人だけだ。
「……ふふ。レオン……」
アーヴェルは、震える手で懐からブレスレットを取り出した。
レオンがくれた、ただの簡素な魔導具。
そこには、かつてレオンが言っていた言葉が刻まれている。
『いつか、この国をホワイトな職場にしよう』
「……すまない。……最後まで、付き合えそうに、ないな……」
アーヴェルの指から、力が抜ける。
ブレスレットが、カランと虚しい音を立てて岩肌に落ちた。
その瞬間、アルヴァレスを繋ぎ止めていた最後の一本の「鎖」が、完全に断ち切られた。
夜が来る。
冷たい風が、賢者の亡骸を撫でて通り過ぎる。
血を流していないはずのアルヴァレスの空から、真っ黒な雨が降り始めた。
誰も死んでいない平和な日は、終わった。
世界が「最強」を恐れた報いは、あまりにも残酷な形で、最愛の者の命を奪い去った。
崩壊は、ここから加速する。




