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追放された無能貴族、実は全属性魔法と鑑定EX持ちでした 〜婚約破棄された翌日、王国が崩壊しましたが俺は関係ありません〜(連載版)  作者: 白昼夢


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第29話 静かに狂い始める均衡

第29話:静かに狂い始める均衡



 浮遊国家アルヴァレスの中枢、評議塔。


 かつて、魔王軍の猛攻を退け、絶望に沈んでいた人々に希望を与えたこの場所は、今やかつてないほどの静寂に包まれていた。

 それは、平和ゆえの静寂ではない。

 いつ爆発するか分からない巨大な爆弾を抱え、誰もが呼吸を止めてその信管を見つめているような、ひりつくような沈黙だった。


「……内政部門からの報告書です。ご確認ください、レオン様」


 リリアは、執務机に積まれた書類の最後の一束を置いた。

 レオンの前に差し出されたその手は、隠しようもなく、わずかに震えていた。


「リリア。この件、現場の意見はどうなっている。隣国の関税引き上げ案に対して、商人たちの反発は?」


「……はい。あ、いえ……。皆様、『レオン様の御心のままに』と。異議を唱える者は、一人もおりませんでした」


 リリアは一拍遅れて答える。その瞳には、以前あったような親愛や信頼よりも、「畏怖」の色が濃く滲んでいた。


 レオンが少しでも眉を動かせば、彼女は反射的に肩を強張らせる。


(……ああ、まただ)


 レオンは心の中で、深く、重い溜息をついた。


 最強という椅子は、驚くほど座り心地が悪い。


 自分が正しくあろうとすればするほど、周囲はそれを「神の宣告」として受け入れ、自ら考えることを放棄する。議論は死に、残ったのは盲目的な従属だけだ。

 今のアルヴァレスを支配しているのは、建国の情熱ではない。「この男の機嫌を損ねれば、物理的に国ごと消される」という、本能に刻まれた根源的な恐怖だった。



 ――最強がいる国は、間違えられない国だ。



 いつの間にか街の片隅で囁かれ始めたその噂は、目に見えない毒のように、この国の土壌を蝕んでいた。





 ***

 同じ頃、王宮の中庭では大魔術師フェニカが立ち尽くしていた。

 彼女の鋭敏すぎる魔導知覚は、市井を流れる魔力マナの、微細な変質を捉えていた。


「……気持ち悪い。空気が、濁ってる」


 フェニカは不快そうに顔を歪めた。


 魔力の流れが歪んでいるのだ。それは明確な攻撃性ではない。だが、冷たく重く、澱んでいる。

 人々の心に芽生えた猜疑、不安、そして「正解を選ばなければならない」という強迫観念。それらが集団的なノイズとなって、アルヴァレスを包む美しい大気を汚している。


「これが、力の代償……ってやつ?」


 ぽつりと零した言葉に応える者はいない。


 ふと視線を落とすと、いつもならアーヴェルの足音を聞きつけるだけで猛スピードで駆け寄るはずの聖獣ウルが、異常な様子でうずくまっていた。


「ウル? どうしたの、そんなに空が気になる?」


 ウルは執務室の窓際から動こうとせず、低く喉を鳴らしながら、北の空を見上げていた。


 フェニカがその柔らかな背を撫でるが、ウルの震えは止まらない。

 その視線の先、遥か彼方の空が、一瞬だけ――不吉な赤黒い色に染まったように見えた。





 ***

 数刻後、レオンの元に隣国からの正式通達が届いた。



 羊皮紙に記された文字は丁寧だが、その内容は、昨日アーヴェルが予測した通り、事実上の「踏み絵」だった。



『アルヴァレスの保有する魔術資産、および個体名フェニカの能力に関する詳細な開示を求める。これは周辺諸国の安全保障上の正当な要求であり、拒否は軍事的野心の肯定と見なす』



 あまりに無礼、あまりに一方的。

 以前のレオンであれば、この報告書を引き裂き、自ら空を飛んで王宮へ乗り込み、王の首元に剣を突きつけて「二度と言うな」と告げただろう。

 それが最も効率的で、被害の少ない解決策だと確信していたからだ。

 だが、今のレオンは違う。彼は「正しく」あろうとしてしまった。

 恐怖で統治する魔王ではなく、対話で歩む指導者であろうと、自らを縛った。


「……アーヴェルを、特使として派遣する。当初の予定通りだ」


 その決定に、リリアは息を呑んだ。


 アーヴェル・グランディス。この国で唯一、レオンと対等に言葉を交わし、暴走しがちな「最強の力」を理性の鎖で繋ぎ止めている、この国の心臓。

 彼をこの国から離すということは、文字通りアルヴァレスの「緩衝材」を失うことを意味していた。





 ***

 出立の直前。アーヴェルの私室。




 荷造りは驚くほど簡素だった。数冊の古い魔導書と、最低限の着替え。

 そして、建国の日にレオンから贈られた、簡素な魔導ブレスレット。


「……心配するな。すぐに戻るよ」


 足元で必死に裾を噛むウルを優しく撫で、アーヴェルは部屋を出た。

 廊下の影には、レオンが一人で待っていた。


「……やはり、俺が行くべきだった」


 レオンの声は、かつてないほど迷いに満ちていた。

 最強と謳われる男の肩が、微かに揺れている。


「いいや、レオン」


 アーヴェルは即座に、だが慈しむような声で否定した。


「君が動けば、それは交渉ではなく、相手に『屈服か死か』の決断を迫ることになる。彼らは恐怖のあまり、正常な思考ができなくなる。……対話には、私のような、殺しても惜しくない程度の老人がちょうどいいのさ」


「アーヴェル、お前は――」


「レオン。力を得すぎた者は、どれだけ正しくあろうとしても孤立する。それは君が間違っているからじゃない。世界が、君という存在の重さに耐えられないだけだ」


 アーヴェルはレオンの胸に手を置いた。


「君がその優しさを持ち続けている限り、私は何度でも地獄から戻ってくるよ。だから、留守の間、この国と……フェニカたちを頼んだよ」


 転移陣が淡く発光し始める。


 見送りに来たフェニカが、珍しく言葉を探すようにして、最後に絞り出した。


「……アーヴェル、嫌な予感がする。行かないで」


 その言葉に、アーヴェルはいつものように穏やかに、そしてどこか遠くを見つめるような寂しげな笑みで答えた。


「私の役目は、君たちの不安を代わりに持って行くことだからね」


 光が収束し、アーヴェルの気配が完全に消える。




 その瞬間。




『――警告。解析EXに微細なノイズを検出』



『確率変動を確認中……再計算……成功。誤差:0.0001%』



 レオンの視界に、無機質なシステムログが流れた。


 だが、その数値はまだ、レオンが深刻に捉える「警告値」には届かなかった。

 最強ゆえの余裕が、あるいはアーヴェルへの絶対的な信頼が、その一瞬の不協和音を無視させた。



 ***

 その夜、アルヴァレスを狂おしいほどの暴風が叩いた。



 聖獣ウルが再び、夜空に向かって悲痛な、泣き叫ぶような声で鳴く。

 フェニカは眠れぬまま、重く垂れ込めた雲の隙間から見える、凍てついた星を仰いでいた。


 レオンは執務室で、一通の未開封の書簡を見つめていた。


 かつて祖母が言っていた言葉が、ふと脳裏をよぎる。


 ――「力を持つ者は、その報いを必ずどこかで払わされる」。


 静寂が、以前よりも重く、冷たく、彼を包み込む。




 この日。

 アルヴァレスの誰も死んでいない。

 一滴の血も、誰の体からも流れていない。

 だが、均衡は確実に一線を越えた。



 アルヴァレスを世界に繋ぎ止めていた、唯一の「緩衝材」は。

 すでに、守るべき王の手の届かない、世界の外側へと運ばれていた。

 闇の中で、セシリア・ルミナスの冷笑だけが、静かに響き渡る。


「さあ、始めましょう。最強の男が、ただの無力な子供に戻る、最高のショーを」


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