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【短編小説】化粧

職安Mちゃん様主催のディスコードサーバー「ワンライ」で書いた作品です。

今回のテーマは「新年度」でした!

 おれは警備員たちから全速力で逃げながら、なぜこうなったかを思い出していた。

 息が苦しい。足がもつれる。

「あっ」

 化粧ポーチを落とした。



 これは、長い夜に、なる。




 キーボードを叩く手が止まった。

 完全に集中力が切れて、そろそろ仕事を切り上げて帰るべきだろう。

 しかし本社移転に伴う新システムの導入によって不慣れな作業は山積しており、ここでどうにか食らいついておかないと閑職に追いやられるだろう事は想像に易い。



 多くの社員が慣れ親しんだシステムから離れるのは一時的なデメリットでしかなく、慣れてしまえば効率が上がるのは理解できる。

 少なくとも理論上は理解している。だが実働とは別だ。

 もう無理だと辞めていくベテラン社員もいたし、いまおれ達が使っているシステムを導入した時もきっと辞めたり閑職に甘んじた人たちがいる。



 ふと窓に目をやると、社屋の裏にある小さな公園に桜が咲いているのが見えた。

 もうそんな季節なのか。ついこの間は年末だったと言うのに、また次の節目がやってくる。

 きっと新入社員達は初めて触るシステムだろうと即座に対応して見せるんだろう。なんならおれたちが教わるかも知れない。

 馬鹿にするつもりは無くても、こっちが勝手な劣等感を持ってしまう可能性もある。

 そんな些細なプライドの為に残業してまで新システムに慣れておこうとする自分の矮小さと、上席として当たり前だと言う考えがピンボールを始めた。



 ふ、と短くため息を吐いて頭からまだ発生していない未来の倦怠を追い払う。

 そんな厭な新入社員たちばかりじゃないと思いたい。自分がどうであったかはもう覚えていないが……。



 それにしても最近のガキの事が分からない。

 年末の歌合戦もほとんど知らないユニットばかりで、自分が文化的に老人となった事を思い知らされた。

 電車に乗っても背が高く手足の長い奴らが増えてきたと思うし、薄化粧をした男も少なく無い。

 


 まるで異国の人間だ。

 恐らく考え方も違うだろう。おれたちが上司達の考えを理解できなかったように。

 彼らはおれたちの世代が持つ価値観に否定的だったし、おれたちも彼らの価値観を肯定的には受け取らなかった。



 そんなもんだ、と思う。

 しかし変わるならいまなんじゃないか?とも思う。



「思い立ったが吉日だろう」

 自分を奮い立たせるようにしてデスクを立ち上がり、誰もいなくなったオフィスを徘徊する。


「確か、藤吉くんが会社用ポーチをデスクに……」

 置いていたはずだ、と開けた引き出しには黒と紫の化粧ポーチが入っていた。

 就労規定の休憩時間内とは言え、どうにも頻繁に化粧直しに行くのはどうにかして欲しいと思っているが、注意すればセクハラになるので何とも言えない。



「ふむ。あとは……」

 そのままロッカーに向かい、適当な制服を見繕うとおれはそのままトイレに向かった。



 ドアを開けると人感センサーの照明がつく。

 設置したてのLED照明が眩しい。

 真新しい社屋のビニールくさいトイレは、旧社屋より余所余所しい感じがするが、その新しさに何となく浮き足立つ莞爾がした。



 おれは洗面台の前でワイシャツを脱ぎ、女子更衣室から取ってきたビジネスブラウスに袖を通した。

 悪くない。

 そのままジレ(と言うらしい。おれたちはベストと呼んでいた)を着てスカートを履く。

 佐川くんのなら体格も近いから大丈夫だろうと言う読みは当たった。



 鏡には女子社員の服を着たおれが映っている。

 このままではダメだ。たんなるオッさんが女服を着ただけだ。



 おれは藤吉くんのデスクから持ってきたポーチを開き、スマホで男性向け化粧動画を流しながらハンドソープで顔を洗った。

 しかしハンカチでガシガシと顔を拭きながら化粧の手順を聴いてみても、何がなんだか分からない。

 まずポーチの中にあるどれが何かわからないし、それを使うにしても適量と言うのもわからない。



 化粧と言うと、なんか小さなスポンジみたいなので顔をはたいたり口紅を塗るくらいしかイメージがつかないが、実際は下地だの基礎だのと色々あるのが分かった。

「藤吉くんにも困ったものだが、まぁ仕方ないのかも知れないなぁ」

 独り言を漏らしながら、とりあえず存在が分かる口紅を取り出してみた。



 動画では口紅を直に塗らず、指だとか綿棒みたいなのに取ってから塗っていた。

 藤吉くんのポーチにも綿棒があるからきっとそうなのだろう。

 おれは口紅の先に綿棒を当てて少し取ってから、鏡を見て自分の口に塗ってみた。



「悪く、ないじゃないか」

 血色の悪い唇が異様な赤さで光っている。これだとどうにも唇だけが異常だ。

 おれは意を決して藤吉くんのポーチをひっくり返した。



「たぶんこれが……」

 当てずっぽうで出した化粧品で目の下のクマを隠し、眉毛を整え、まつ毛をカールさせた。

 もともと薄い髭が幸いして、どうにか見られる顔になった気がする。



「なんだ、いけるじゃないか」

 若い男たちが化粧するのも分かる気がする。美しい自分と言うのは気分が良いものだ。

 おれも週末になったらデパートにでも言って、中年男でもやれる化粧を教わろう。

 新入社員たちとも、多少は会話ができるかも知れない。

「課長、肌が綺麗っすね」

 とか言われたりして。



 そんな事を考えながらルンルンとトイレを出た瞬間に、巡回の警備員と出会した。

「お疲れ様さまです」

 そう会釈をした瞬間、警備員が肩のトランシーバーで何かを言った。


 おれを照らす懐中電灯が眩しい。

 その光がおれに「失礼ですが、所属とお名前を」と訊く。

「制作部の林田ですか……」

 懐中電灯がおれの首に下がった社員証を照らす。

「なぜ女性が男子トイレから……?」

 警備員が錯乱しながらおれに訊く。


「い、いやおれは男で……」

「それはこの社の女性社員のものですか?」

 そう訊かれた瞬間におれは脱兎のごとく逃げ出した。



 まずい。

 このままでは捕まる。新入社員たちとコミュニケーションどころじゃない。その前に処分される。


 おれは非常階段を駆け上がりながら、藤吉くんのポーチに化粧落としがあったか確かめようとした。

 その時。

「あっ」

 手すりの隙間から階段の下に、藤吉くんのポーチが落ちていくのを、おれはスローモーションで見ていた。

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