第1話:異動
天照千夜は、令和の時代に生きる忍者である。
彼女が所属している秘密組織【八咫烏】は、徳川の時代に作られた御庭番を起源とする。
警察が昼の番犬なら、八咫烏は夜の梟。
歴史の表舞台には立たず、陰から日本を守り続けてきた存在だ。
八咫烏の主な役割は、妖怪が関わる事件を解明し、解決することにある。
千夜は、くノ一として組織に誇りを持ち、日々その任務に尽力してきた。
しかし今、彼女の心には戸惑いと疑問が渦巻いている。
「千夜。お前を『特命係』に任命する」
上司の静かな声が会議室に響いた。
その一言を聞いた千夜は、思わず口を開けたまま固まってしまう。
まさか自分が、よりによって“あの”特命係に配属されるとは夢にも思わなかった。
信じがたい現実を前に、しばらく言葉が出てこない。
特命係。
それは、性犯罪をもたらす【淫妖怪】を討ち滅ぼすことを目的とした特殊な部署だ。
表向きは重要な任務を担う精鋭部隊のように見えるが、実際には“追い出し部屋”の側面が強く、本部から左遷された者たちの受け皿となっていると言われている。
誰もが敬遠するその場所に、ついに自分の名前が呼ばれたのだ。
なぜ自分が特命係に任命されたのか、その理由が分からなかった。
「理由を教えてください」
千夜は静かにそう尋ねた。
声色に取り乱した様子はないが、その目にはわずかな緊張と疑念が浮かんでいる。
会議室の空気が、彼女の問いかけをきっかけにわずかに揺れ動いた。
「この半年間でのお前の妖怪討伐件数を知っているか?」
上司は机に両肘をつき、真っ直ぐに千夜を見据えながら問いかけた。
その視線は真剣そのもので、冗談や慰めの色は一切なかった。
千夜は一瞬考え込むが、思い当たる数字はなかったのか、素直に首を横に振る。
「いえ」
「12660体だ」
淡々と告げられた数字に、千夜は思わず瞬きをした。
自分がそこまで討伐していたのかと、わずかな驚きが表情に浮かぶ。
しかし、その直後にふと視線を落とし、何か気まずそうに呟く。
「やはり少なすぎますか……?」
上司は小さくため息をついた。
彼の表情には呆れと、どこか困惑が入り混じっている。
「多すぎるってことだ。一般的な討伐忍の半年間の妖怪討伐件数は六十体前後。お前の場合はそれが端数になる」
言葉の端々には、常識を超えた事態に対する戸惑いが滲んでいた。
千夜にとっては当たり前のことでも、組織の中では明らかに異常だった。
「そうは言われましても、妖怪の方から私に近づいてきますし……」
千夜は困ったように肩をすくめる。
自身の体質に、苦笑いすら浮かべていた。
そんな様子を見ながら、上司は手元の書類に一度目を落とし、再び静かに口を開いた。
「そこで、上は考えたのだ。お前は淫妖怪の討伐に向いていると。淫妖怪は美しい容姿の女性が好き。お前はそれに適している」
その言葉を耳にした瞬間、千夜の顔が赤く染まる。普段冷静な彼女も、さすがに動揺を隠せなかった。
「なっ……!」
思わず声が漏れる。
だが、上司はそんな千夜の反応に構うことなく、淡々と続ける。
「たったの一年でいいのだ。お前の妖怪を引き寄せるチカラで淫妖怪を根絶やしにしてくれ」
その声音には、すでに決定事項であることを告げる冷静さがあった。
突然の異動だった。拒否権はない。
千夜は、頭の中で何度も状況を整理しようとしたが、気持ちは一向に追いつかない。
それでも、上司は容赦なく次の段取りを進めていく。
「犬神、入ってくれ」
静かな空気の中、扉がゆっくりと開いた。一人の若い青年が姿を現す。制服姿ではなく、きっちりとしたスーツ姿。その動作のひとつひとつに、どこか警察官らしいきびきびとした所作が滲んでいる。
「こんにちは。オレは警視庁に勤める犬神リトです」
にこやかに自己紹介をするリト。その手には警察手帳がしっかり握られ、ちらりと見えた階級は警部だった。
場の雰囲気を和らげようとしているのかもしれないが、千夜の心には、なおも緊張感が残っている。
「刑事さんがどうしてこんなところに……」
不意に口から疑問がこぼれる。
そもそも、目の前の青年がこの部署に本当に必要な人材なのか。千夜にはまだ納得がいかなかった。
「オレは警察と八咫烏の『繋ぎ手』です。特命係は、警察の性犯罪捜査と連動して対応していくんです」
リト警部は明るい口調を保ちながらも、その説明にはどこか実務的な響きがあった。
千夜は、状況を理解しきれず、困惑したまま言葉を失う。
「そういうことだ。残りの説明は、リト警部に聞くといい」
上司はそれ以上は語らず、まるで何もかもを押しつけるように、その場をそそくさと後にした。
突然、すべてがリト警部に任されたのだと悟り、千夜は新たな不安を覚える。
少し緊張しながら、千夜は新しい部署の特命係の部屋へと向かった。
扉を開けると、予想よりもずっと簡素で、冷たい印象の部屋が広がっている。
デスクが二つ並び、そのうちの一つにはリト警部が、もう一つには「天照千夜」と書かれた名札だけが置かれていた。
「あの、他の人たちは……?」
千夜は室内を見回し、小さな声で問いかける。
どこか空き教室のような静けさが漂い、人の気配が感じられない。
「皆さん全員辞めました」
リト警部は少しも動揺した様子を見せず、淡々とそう答えた。
「は?」
千夜は思わず声を上げてしまう。
“追い出し部屋”と噂されていた特命係だが、まさか自分以外に誰もいないとは思わなかった。
「そんなに激務なんですか?」
しばし沈黙の後、千夜は恐る恐る小声で尋ねる。
リト警部の表情に、わずかな陰りが差した。
「淫妖怪は狡猾な妖怪が多く、任務の失敗率が高いんです。そして、失敗した忍者の末路も悲惨で、捕まったら淫妖怪たちの性奴隷として搾取されます」
あまりにも現実離れした話に、千夜は返す言葉も見つからなかった。
空気が急速に重くなり、二人の間に沈黙が落ちる。
自分がこれから直面する任務の厳しさ、そして自らの運命を思い、千夜は静かに唇を噛みしめた。
「もちろんそんな悲惨な運命は、オレが絶対に許しません。命に代えても千夜さんは俺が護ります」
その一言は真剣そのもので、リト警部の誠実さがはっきりと伝わってくる。
千夜の心には、ほんの少しだけ安堵の気持ちが芽生えた。
「少しお手洗いに行ってきます」
そう言って、千夜は部屋を飛び出す。
人気のない廊下を歩きながら、胸の奥にまだざわついた不安を抱えていた。
トイレの個室に入ると、外から女性たちの声がかすかに聞こえてきた。
「ねえ知ってる? 千夜ってくノ一。特命係に左遷されたらしいよ」
「マジ? あそこって淫妖怪と戦うんでしょ? わたしなら絶対嫌だな」
冷たい噂話に、千夜の気持ちはさらに沈む。
わからなくもない。実際、自分だって嫌だと思っている。
「なによりパートナーがあのリト警部。最悪だよね」
「あの人と一緒にいると変なことばかり起きるんでしょ?」
リト警部は“ラッキースケベ体質”だという。
一緒にいるだけでスケベな出来事に巻き込まれるらしい。本来なら警察をクビになってもおかしくないが、八咫烏が使えると判断して引き取ったらしい。
信じがたい話だが、これが現実なのだと思い知らされる。
「ラッキースケベ……ツッコミどころが多すぎます……」
小さく溜息をつきながら、千夜は特命係の部屋に戻った。
すると、リト警部は執事のような所作で、丁寧に紅茶を淹れていた。
「千夜さんは紅茶は平気ですか?」
「はい」
「よかった。どうぞ、千夜さん」
「あ、ありがとうございます」
温かい紅茶の湯気が、少しだけ心をほぐしてくれる。
「早速ですが、淫妖怪が絡んでいると思われる事件の資料です」
リト警部は、書類をきれいに整理して千夜に差し出す。
その気遣いにはプロ意識と誠実さを感じたが、先ほど聞いた同僚たちの噂がどうしても頭から離れない。
書類を手に取ろうとしたその瞬間、リト警部の手と千夜の手がふと重なった。
千夜は思わず身を引こうとしたが――
「きゃっ……!」
バランスを崩した千夜はつまずき、そのまま倒れそうになる。
咄嗟にリト警部が支えたものの、勢い余って千夜を押し倒す格好になり、その手は、よりにもよって千夜の胸をしっかりと掴んでしまった。
一瞬、時が止まったような静寂。
目の前にはリト警部の顔、そして胸元に残る彼の手の感触。
千夜の頬はみるみるうちに真っ赤に染まる。
「あっ、ご、ごめんなさい! わ、わざとじゃなくて……!」
リト警部は真っ赤になって慌てて手を離した。
千夜も咄嗟に彼を押し返し、慌てて身を起こして顔をそむける。
「は、ハレンチです! えっちなのはキライです!」
怒りと羞恥心が入り混じった声を上げ、千夜はそのまま部屋を飛び出してしまった。
千夜は無我夢中で走った。
気がつけば、夕暮れの公園の片隅に立ち尽くしていた。
胸の奥はまだざわついている。頬に当たる風が少し冷たい。
しばらく呼吸を整えているうちに、千夜は少しずつ落ち着きを取り戻していく。
リト警部の“ラッキースケベ”。確かにあの出来事は恥ずかしく、腹も立ったが、よく考えてみれば、彼に悪意はなかった。ただの事故だったのだ。
自分が過剰に反応してしまったのは、トイレで同僚たちの噂を聞き、下品な男だと決めつけてしまったからだ。
やっぱり、ちゃんと話さなきゃ。
千夜はゆっくりと立ち上がり、気持ちを切り替えて引き返そうとした。
そのとき、不意に空気が変わる。
公園の茂みから、ぞろぞろと【淫妖怪】が十体、薄笑いを浮かべて姿を現した。
「へっへっへ!」
「あんなところにエロい女がいるぜ!」
「売春婦にぴったりだぜ!」
その瞬間、場の空気がぴんと張りつめる。
妖怪たちは下卑た笑い声を上げながら、一斉に襲いかかってくる。
千夜は何も言わず、静かに一歩踏み出す。
すっと鞘から抜かれる日本刀。その動きは風のように滑らかで、音すら立てない。
妖怪の一体が爪を振りかざし、飛び道具のように血色の刃を放つ。
千夜は微塵も動揺せず、手首のスナップだけで刀を風車のように回転させ、すべての飛び道具を軽々と弾き落とした。
銀色の軌跡が空中に花を咲かせる。
次の瞬間、千夜は静かに間合いを詰める。
眼差しは鋭く、頭の中は異常なほどに冷静だった。
敵の動き、距離、武器、そのすべてを一瞬で分析していく。
妖怪たちが再び突進してくるが、千夜の身体はまるで舞うように動く。
斬撃が風とともに空間を切り裂き、一体目の胴体を真っ二つに両断。
そのまま刀身を翻し、連撃の流れで二体目の首を一閃する。
千夜の足運びは静かで、無駄がない。
一歩ごとに妖怪の数が減っていく。
氷のような静謐さと、獣のごとき正確さが同居していた。
一分も経たぬうちに、十体の妖怪たちは地に伏し、その屍は青い炎に包まれ、音もなく消え去る。
頬にかかった生ぬるい血も、炎とともに何も残さず消えていく。
千夜は呼吸ひとつ乱さず、刀を軽く振って火の粉を払い、鞘に静かに収めた。
戦闘の終わり。それを告げるのは、ただ淡々とした静寂だけだった。
やがて帰り道、街灯の明かりが道端に伸びる頃。
向こうからリト警部が駆け寄ってきた。どうやら自分を追いかけてきたらしい。
千夜は立ち止まり、改めて彼の顔を見つめる。
そして、一度ゆっくりと頭を下げた。
「……さっきは、すみませんでした」
素直な謝罪の言葉が、夜風に乗って静かに広がっていった。




