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呼び声

作者: あい太郎

 せい王朝・和永十七年、夏。

 北州の河港に位置する「水臥すいが」という街で、不可解な“死者の帰還”が相次いでいた。


 水臥の街は、大河「潤川じゅんせん」の恵みにより栄えてきた。

 人はこの川を「母」と呼び、あらゆる穢れを流すものと信じていた。

 死者は潤川の支流に葬られ、舟に乗せて下流へ流す「水葬」の習わしがあった。


 ところが──


 ある夜、川に流されたはずの死者が、自宅の床下から這い出たという。

 濡れた着物のまま、泥を吐き、眼球のない目で家族を見つめていたというのだ。


 この怪異を受け、都より一人の役人が派遣された。

 若き典吏・蘇箴そ・しん。穏やかな面持ちの文官である一方、前例と記録を信奉する「理」の人間だった。


「死人が戻る? そんなことがあるはずがない。だが、それを信じた村人が家を焼き、家族を殺して回ったと聞く。それが“実害”だ。だから私は来た」


 そう言って、蘇は記録帳と筆を抱え、水臥の家々を一軒ずつ調査して回った。


 最初の家。

 川辺に住む陶工の家では、娘が水葬にされた一月後、家の中が突然濡れ始めたという。


「天井からではなく、床下から水が滲むんです。その夜、壁に娘の手形が浮かんだんです。濡れた、小さな手形が……」


 蘇は床下を調べた。

 乾いた地面のはずなのに、なぜか一部だけが常に湿っていた。

 泥水が溜まり、時折、泡のようなものが浮かんでいた。


 二軒目の家では、老婆が失踪した。

 その晩、家の井戸から老婆の声が聞こえたという。


 「さむい……さむい……火がほしい……火をくれ……」


 恐る恐るに井戸を覗くと、底に青黒い顔が浮かんでいた。

 家人は震え、井戸は即座に封鎖されたが、それ以来、家人は眠るたびに夢で水に沈み、目覚めると口に泥がついているという。


 異常だ。だが、共通点がある。

 それは、どの家も、“水葬”された者の家族だったこと。

 水臥では、川への葬送が当然とされていたが、蘇は村の古老から、ある禁忌を聞かされる。


「川が濁った年は、水葬をしてはならんのじゃ」

「濁った……?」

「水神様が怒っておる証ぞ。だがな、三年前、連年の洪水で人が死にすぎた。土葬する場所もなく、水葬を続けた……。その頃からじゃ。水の中から“呼ぶ声”が聞こえ始めたのは……」

 

 その夜。

 蘇の宿の中で、水音が響いた。


 ──ぽちゃ ぽちゃ ぽちゃ


 外は晴天。雨は降っていない。

 それなのに、室内の床が濡れていく。


 水跡が続いていた。

 部屋の隅から、机の下へ。

 そして、その下から、何かが……顔をのぞかせた。


 濡れた髪。歯のない笑顔。

 どろどろに爛れた顔の女が、這い出してくる。


 「かえして……」


 蘇は背を壁に打ちつけ、震えた。

 女の身体は崩れかけていた。だが確かに、蘇が見送った**妹・箏蘭そうらん**の顔だった。


 三年前、疫病で亡くなった妹を、蘇は水臥で水葬にしていた。

 川に還すのが一番清いとほかの親族も信じていたからだ。

 土葬する土地もなかった。疫病の死者も多く、朝廷の命でそうしただけだ。

 そう、仕方のないことだった。そうだったのに──


 「さむいよ……お兄ちゃん……なんで、燃やしてくれなかったの……」


 ──川に捨てられた死者は、還る場所を失った魂になる。

 ただ流され、沈み、どこにも着かず、ただ冷たく、ひたすらに淀む。


 

 蘇は、翌日水臥の人を集め、すべての水葬場を封鎖し、廃止を進言した。

 「穢れは川に流せば清まる」という信仰を否定し、人々に土葬と火葬を広めようとした。

 だが、都に帰ったその直後、潤川が氾濫し、水臥の街を丸ごと呑んだ。



 川は、怒っていたのではなく──

 川の底にいる“何か”が、飢えていた。

 


 水の底には、まだ多くの死者が沈んでいる。

 蘇は川の岸辺には立ち寄ろうとはしない。

 彼の同僚が聞くところによると、川の岸辺で囁く声が聞こえるという。

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