第1話:透明な僕に、なぜか声がかかる
昼下がりの教室は、いつも通りにうるさかった。
窓際の席で僕——高森誠は、ページの端がすり減った問題集に視線を落とす。
プリントの隅にある応用問題に、鉛筆の芯が軽く触れた瞬間。
「えー、マジ? あの子と高森、付き合ってたの? 信じらんなー」
「たしか半年ぐらい前まででしょ? ……でも、まぁ、すぐ捨てられそうなタイプだよね」
「地味すぎるっていうか、存在感なくない?」
そんな会話が、廊下の女子グループから漏れてくる。
——別にもう気にしていない。
名前を出されても、笑われても。今さら何を言われても、どうでもいい。
僕は、あの日から決めたのだ。
「透明な存在」として生きていくことを。
誰にも期待されず、誰の感情も動かさず、ただ“背景”のように学園生活を終える。
……少なくとも卒業までは、それでよかったはずだった。
それが、今日までは、という話だ。
「——高森くん、ちょっといい?」
ふと声をかけられ、顔を上げる。
目の前に立っていたのは、清潔感のあるポニーテールと凛とした目元が印象的な女子生徒だった。
学年主席、生徒会副会長、白川紗月。
僕と同じクラスだが、接点など一度もなかったはずの彼女が、なぜか真剣な目でこちらを見ていた。
「……僕に何か?」
「すぐに終わる話よ。屋上、空いてるわよね」
選択肢はなかった。断れる雰囲気でもなかった。
屋上に着くと、冷たい風が制服の裾を揺らした。
人気はない。昼休み、ほとんどの生徒は教室か購買に行っている時間帯だ。
「……で、なんの話?」
僕が尋ねると、紗月は真っ直ぐにこちらを見据えた。
「あなた、授業中や課題の時間、クラス全員の行動を観察してるわね」
「……は?」
「プリントの提出順、正答率、話し声のトーン、リーダー格の動き——全部、無意識に見て記録してる。気づいてない?」
「……そんなつもりは」
「でも、当たってるでしょ?」
驚いた。
僕がそれを“ただの癖”だと思っていたことを、彼女は鋭く言い当てていた。
「……で、それが何か?」
「協力してほしいの。私、生徒会で動いてる内部統制プロジェクトがあるの。クラス内の情報バランス、意見の偏り、空気の流れ……そういうの、感覚じゃなくて“数字”で把握したいの」
つまり——僕の“観察眼”が必要だと、彼女は言っている。
「……どうして僕なんかに?」
「“なんか”じゃない。あなたしかできない。無関心に見せかけて、全体を冷静に見てる生徒なんて、他にいないから」
その言葉に、少しだけ胸が熱くなるのを感じた。
認められた——それも、あの白川紗月に。
昼休みの終わり、教室に戻ると、なぜかざわついていた。
「あれ……高森って、白川さんと話してたよな?」
「え、あの地味男が? マジで? 何話してんの? ってか、釣り合わなくね?」
くだらない憶測が、風のように広がっていく。
透明だったはずの僕に、クラスの視線が集まり始めていた。
それを、教室の後方——
僕をフッた元カノ・桐生美琴が、何とも言えない目で見ていた。
驚きでも、苛立ちでもない。
……あれは、困惑だった。
“予定と違う”とでも言いたげな、焦りを帯びた視線。
そう。
この日を境に、“僕”という存在が、少しずつ色づき始めた。
静かに、確実に。
そして、元カノの“後悔”が始まるまで、そう時間はかからなかった。




