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べからずさま  作者: 長月 ざらめ
1章 口紅編
6/38

4話の3 かえせ

 暁美(あけみ)の家はマンションだ。その1室を借りている。

 部屋の広さは2LDK。模範的な3人家族の間取りである。

 暁美の両親は共働きであり、日中は大抵会社のオフィスでPCと向き合うか外で営業をしている。娘が突然意識不明となってからは、仕事は早めに切り上げて病院に行っているらしい。

 すれ違いとなったのか、(うつほ)は暁美の両親らしき男女を病院で見ていなかった。

 そのため、アポイントを取っていない空達が暁美の自宅を調べることが難しい。非合法な手段を使っていいのなら、全然侵入も可能ではあるのだが……同じ学校の生徒であるし、バレた時になんと言われるか……。それに、後処理も面倒なのであまりしたくないところ。


 そこで、灯子(とうこ)の出番である。


 暁美と友人であり家族ぐるみで付き合いのある灯子が、暁美の両親に連絡を取り、事情を説明する。そして、見事合鍵の在りかを聞き出し、それを使って自宅にお邪魔することができた。

 空は内心で拍手を送った。


 合法的な手段で済んで良かった、と思いながら、空は「お邪魔します」と玄関で呟く。


「アケミさんの部屋はどこですか?」

「奥の個室」

「ありがとうございます。失礼します」


 空は靴を脱いで玄関横に揃えると、辺りを見渡しながら暁美宅の中に入っていく。

 整理整頓のされた普通のリビングとキッチンには変わった様子はない。娘が突然病院に行くことになって忙しかったのか多少荒れてはいた。だが、怪奇現象などが起きた形跡も痕跡もないし、日常生活の1コマと見ても特に問題はない。


 と、なれば、家族全体を狙ったものではない。おそらく何かしらの条件を満たした暁美のみを対象としたものだろう、というのが空の見解だった。


「何かあったァ?」

「いや、何も」


 紅朱(ルージュ)も来て、空と同じようにリビングを見渡していた。

 彼にも一応何か感じるか聞いたが、首を横に振られた。


「やっぱり部屋かな」


 空は紅朱から目線をずらして、暁美の部屋であろう扉を見る。

 横にスライドするタイプ……所謂(いわゆる)引き戸の取っ手に手を掛けて、開いた。


 暗いな。


 それが第一印象。

 部屋の中に入って、暗さの原因を探す。

 ……遮光カーテン。あれが窓から入る日光を完全に遮断している。

 電気の電源(スイッチ)を探してもいいが、多少は時間がかかるし面倒だ。部屋の間取りも知らないから、薄暗い中であまり動きたくない。


 それに、探すよりも良い方法を空は知っている。


 空はおもむろに右手を上げると、遮光カーテンを指差して、軽く横に振った。すると、シャッ! という小気味良い音と共にカーテンが独りでに(・・・・)開く。

 ……まあ、早い話が空に取り憑いている怨霊にカーテンを引いて貰っただけである。


 明るくなった部屋は、良くも悪くも女子らしい部屋だった。

 ずぼらな性格なのか、整理整頓が苦手なタイプなのかは定かではないが、床には学生バッグが転がっており、そのバッグから教科書やノートが飛び出ている。テレビ台の上には可愛いマスコットのフィギュアの他に10円玉や50円玉などの小銭が散らばっていた。

 特に勉強机らしきものに置いてある化粧箱は、化粧用品で溢れ返っており、机の上にはいくつもの乳液や美容液で並べてあった。

 それと同様に、棚にずらりと並べてあるのは漫画とプラスチックのパッケージ。背表紙と映画鑑賞の趣味からして映画のDVDやブルーレイだろう。漫画とDVDの量としてはほぼ半々といったところか。

 その他で気になるのは、脚の低いテーブルの上に乗っている黒い布製の袋。もっと正確に言えば、その布袋から少しばかりはみ出ている映画のパッケージである。


「あ、棚にあるDVDは暁美が買ったやつだよ」

「こっちの机の上に乗ってるやつは?」

「それは多分TYUTAYA(チュタヤ)で借りたやつ。暁美、旧作映画とか借りに行くことあるし」

「はぁ、なるほど」


 空は布袋の中身を確認する。

 全てが映画。ホラーが2枚、アニメが1枚、SFが1枚の計4枚。

 その4枚の中でも、空が特に気になったのは『出して』というホラー映画だ。

 顔を近づけて、すんと一嗅ぎ。感じたのは血生臭さと獣臭さだった。霊感のある空だからこそ嗅ぎつけられる匂いであり、所謂(いわゆる)霊臭(れいしゅう)と呼ばれるものだった。

 ビンゴ。空はその他のDVDを布袋に入れ直して背後のベッドに放った。


 空の背後にやって来た紅朱と灯子も、そのDVDを空の後ろから覗き込んだ。


「そのDVDが元凶ォ?」

「多分、おそらく、きっと。これからこの中身を見て確認するので、ルージュさんとトーコさんはリビングに居てください」

「なんで?」

「一緒に見ちゃダメなの?」

「もしこのDVDが本当にアケミさんをああした元凶なら、あなた方の魂が抜かれる可能性があるから駄目です」

「あーねェ」


 紅朱は納得したように頷くが、灯子は不安げな顔で「それあんたにも言えるくない?」と言った。


「あんたは大丈夫なの? 暁美みたいにならない?」


 灯子の心配も確かだった。

 既に魂を抜かれた友人を彼女は見ている。その元凶の、魂を抜くDVDを見てしまった友人の末路を知っている。

 いくら除霊師とはいえ、同じ結果が起こらないとは灯子は思えなかった。


「なりませんよ」


 そんな灯子の心配を一蹴して、空はパッケージからDVDを取り出していた。

 それをビデオデッキにセットしながら、再度口を開く。


「私には怨霊が憑いているので」

「は?」

「ガチトーンの『は?』はきついものがある」


 灯子から何言ってんのこいつ、という目を向けられた空は遠い目をした。

 詳しく説明をするのも面倒だし、さっさと映画を上映したかったので、「ルージュさん、リビングで軽く説明しといてください」と丸投げすることにした。

 紅朱が「はァい♡」と返事をしたのと同時に、映画の上映が始まった(・・・・・・・・・・)


「え?」

「ン?」

「あ、やっべ。“虚無斗(にひと)”」


 空が部屋の出入口を指差せば、灯子と紅朱の体が開いている扉に向かって吹き飛んだ。まるで見えない誰かに首根っこを掴まれ引っ張られているかのように。

 2人が部屋の外に出て、全身がリビングに出たところで引っ張る不可思議な力は消えた。灯子は背中からリビングに落ちて、紅朱は上手く足から着地した。

 その間に扉が独りでにピシャリと閉まる。


「ゔっ! ……ちょ、っと、(やしろ)!?」


 リビングに放り出されて床に背中を打ち付けた灯子は、肺から空気を吐き出して痛みに顔を歪めた。だが、すぐさま体を起こして、足を縺れさせながら扉にすがりついた。

 空だけ取り残された、勝手に映画の上映を始めた呪いのDVDのある部屋の扉に。


「社!? 大丈夫!? 聞こえてる!?」


 灯子はドンドンと扉を叩いた後、急いで扉を開けようとした。


「え、あ、あれ? 開かない!?」


 だが、引き戸は開かなかった。

 今度は「ふんっ……!」と気合いと力を込めて取っ手を引く。

 やはり開かない。

 この扉には鍵はついていないのに、いくら思い切り引っ張ってもびくともしなかった。


「んぎぃぃぃい……! マッジで開かねぇんだけど、どーなってんのこれ……!?」

「灯子チャン、どーいて」

「んぇ?」


 調子を整えるように手をグーパーした後、手首を回す紅朱。

 顔にはいつもの薄ら笑い……とよく似た、不気味で、見た者の背筋を凍てつかせるような笑みを浮かべていた。

 灯子もその笑顔を見た瞬間、顔を青ざめさせた。何故か、いつかの創作小説で読んだ、とある文面を思い出した。



 “笑う”という行為は、本来攻撃的なものであり、獣が牙を剥く行為が原点である。


「ぶち抜くワ」



 彼の笑顔はまさにそれだった。

 灯子はほぼ反射で扉から離れた。

 笑顔を自分に向けられた訳ではない。紅朱は灯子の後ろの扉しか見ていない。それを理解し(分かっ)ているからこそ、離れなければならなかった。でなければ、きっと、紅朱は(獲物)の前にいる灯子(障害物)ごと拳を振るうだろう。

 確信だった。

 灯子がその場から離れたとほぼ同時に、紅朱の振りかぶった拳が扉を撃った。

 凄まじい衝撃音が響く。

 容赦はない。拳が壊れることへの恐れも怯えも見えない。人の家だなんて知ったことかと言わんばかりの無慈悲の一撃。それは、杉の集成材、厚さ33センチの引き戸を貫くだけの威力があった。


「ア?」

「うっそ……直るとかそんなんアリ!?」


 が、しかし、扉は無傷。

 正確には、紅朱があけた風穴が、拳を引き抜いた瞬間に自動で修復し始めて、元通りになったのだ。


 紅朱は首を傾けて殴打に使った右手を振った。ジンと傷むが特に動きに問題ないことを確認した直後、右足を軸にして左足の裏を扉に叩き込んだ。空手でいう裏廻し蹴りによく似ている、美しいフォームだった。


 だがやはり、扉は壊れず不動を貫いていた。

 まるで魔法で壊れないようにバリアを張られているようだ。びくともしない。


 紅朱は笑顔を崩さず舌打ちをした。だが、愉しそうに再度右拳をぎちりと固めた。


 (コレ)、何発で壊れるかなァ?


 それを試そうと嬉々として拳を振り上げ――


「さっきから何してるんですか?」


 ――扉の向こうから聞こえてきた空の声に、ピタリと拳が停止した。


「……うつぼチャン?」

「ああ、はい。令和のブラックジャック退魔師バージョンかつ海のギャング、うつぼです」

「なんて?」


 情報過多の返答が返ってきて、紅朱の殺る気が減少した。

 空の声に、灯子も反応する。


「社!? よかった、無事!?」

「ああ、はい。無事です。無事なんですけど……それを伝えようとしたら扉を叩く音で掻き消されまして」

「アッなんかごめん」


 灯子がテンパったせいだ。

 でも、しょうがないと思う。ガチの心霊現象なんて今まで遭遇したことがないのだから。

 いきなり見えない何かにリビングに放り投げられたと思ったら、勝手に扉が閉まって開かなくなったのだ。


 灯子が謝ると、「そっちが無事ならそれでいいです」とありがたいお言葉を頂いた。「こちらこそ、いきなり放り投げてすいません」とも。


「その後、扉に風穴空いたんですけど」

「あ、ソレるークンがやったァ」

「ですよね」


 「漫画みたいなことが実際にできるって凄いですね」と空から褒められた紅朱は機嫌がよくなった。


「そっちは大丈夫なの?」

「はい。強いて言うならポップコーンとコーラが欲しいです」

「呪われた映画を最大限堪能しようとしてない???」


 除霊師とはこういうものなのか? それとも空の肝が据わり過ぎているのか?

 灯子はよく分からなかった。


「でも、展開としては丁度良いです。これから除霊を始めますので、リビングで適当に寛いでいてください」

「人ん()なんだけど。社ん()じゃないんだけど」

「灯子チャン、アイス無いの? アイス」

自分家(じぶんち)の冷蔵庫みたいに漁んないでよ……あと、ここ暁美ん()だから」


 紅朱がマイペースなのは付き合いが長いので知っている。だが、空も結構ボケ体質というか、天然なところを感じる。この2人だけだとボケばかりの空間になりそうだ。


 ……なんであたしがツッコまないといけないんだ。


 灯子は息を吐いて、暁美宅の冷凍庫を見ていた紅朱を回収した。

 

「社、あたしとルージュはコンビニ行ってくるから。15分くらい離れるけど、何か手伝いいる?」

「いや、特には」

「お祓い……じゃなかったか。除霊の後に食べたいものある? 買ってくるけど」

「肉まんが食べたいです。あとポテト」

「オッケー。じゃあ頑張って」

「はい。ありがとうございます」


 灯子は紅朱に声をかけて、暁美宅から出た。

 そして、1番近いコンビニへと向かった。






*****






 空はリビングに放り投げた2人の無事を確認した後、改めてテレビに向き直る。

 まだ空は再生ボタンを押していなかったのに、いきなり始まった上映会。

 明らかに3人全員の魂を狙ってきていた。扉を閉めたのもこの映画の霊の仕業である。逃がさないように部屋に閉じ込めて、映画を見させる算段だったのだろう。


 強欲だなぁ、と空は思った。同時に、馬鹿だなぁ、とも思った。

 テレビをつけて上映するよりも先に、扉を閉めてしまえばよかったのに。そうすれば、霊の思い通り3人共映画を見せることができたのに。

 映画が上映されないと力を発揮できない、という訳でもないだろう。何せ、勝手にDVDを再生させているのだから。

 単純に考えが浅いのだ。頭が足りていない。だから、馬鹿だなぁ、と空は思ったのだ。それだけだ。


 空は椅子代わりにベッドに腰掛け、少しずつおかしくなっていく映画をぼんやりと眺めていた。


 虹色の背景画像に変わり、登場人物達がゲラゲラと嗤いながら奇妙な行動を取り始める。

 四足歩行でくるくるその場を駆け回ったり、生首が自分の体を踏みつけにしたり、車同士がぶつかり合い玉突き事故を起こしたり、お互いの体に噛みつき手足を引き千切ったり、と。


 くあぁ、と空はあくびをした。足を組み直す。

 退屈だった。何せもっとグロくて汚い現場を見たことがあるのだ。今更、この程度の恐怖映像で怯えてやるほど、空は優しくないしメンタルも豆腐ではなかった。


「あんまり良い脚本じゃないね」


 空の言葉に、映画が突然停止した。

 ブツンと音がして、画面が切り替わる。


 真っ暗な画面。そこにアップになった男。

 生気のない土気色の肌色。

 眼球が収まっていたであろう眼窩はぽっかりと空いており、黒い涙を流している。黄ばんだ歯でギリギリと歯軋りをしていた。

 男は、真っ暗な眼窩で空を睨みつけ、怒号を発した。



『じゃあお前が来い!!!!!』



 テレビ画面から腕が生えた。土気色の、がっしりとした男の腕だ。それが2本、空に向かって蛇行しながら伸びていき――空の首を鷲掴みにした。

 男が嗤う。嗤いながら、ぎちぎちと手に力を込めて、気道を圧迫していく。

 こうすると、人間が気絶した時に“魂”が口から飛び抜けるのだ。何度も何度も試行錯誤した上で、このやり方が1番男の(しょう)に合っていた。

 それに、苦しみながらも空気を欲して喘ぐ姿が、なんだかまるで金魚が餌欲しさに口をパクパクさせているように見えるだろう? 単純に可愛いのだ。涙を溢しながら、空気を取り入れようと舌を突き出している顔が。

 だから、男は好んでこのやり方で“魂”を奪っていた。

 

 もう少しで気絶(オチる)だろう――そう思って、男は空の顔を見た。



 無。



 無。無。無。ひたすらに無表情。首を絞める前と何ら変わらない表情。

 これ、本当に首、絞まってる? 目があった空の顔がそう問いかけているように見えて、男は優越感に浸っていた笑みを消した。


 ネタばらしとして、空の首は絞まっていなかった。

 男が首に手をかける前に、空に憑く怨霊が両手で後ろから空の首を包んでいた。

 男の手は、その怨霊の掌の上から、空の首を掴んでいたのだ。

 その結果、絞まりようがないという事実だけが残る。


『……?』

「あなたが来てくださいよ。現実(こっち)に」


 空の首を絞めている男の腕が何かに拘束された。

 拘束したのは、空に憑く怨霊の掌だった。

 人間の掌よりも2回りほど大きい掌が、映画男の手首と肘の辺りをがっちりと掴んでいる。

 画面の男が呆気に取られている間に、怨霊が拘束している場所を握り潰しながら思い切り引っ張る。

 すると、テレビ画面から男が飛び出てきた。

 まるで一本釣りされた魚のように宙を舞う男は口をぽっかりと開けており、何が起こっているのか理解が追いついていない顔をしていた。


 空が立てた人差し指を下に向かって振り下ろせば、新たな怨霊の掌が男の背中を押し潰して床に叩きつけた。

 男の背中からゴキンという音が聞こえたと同時に、男の喉から絶叫があがる。勢い余って背骨を折ってしまったようだが、空は手を緩める指示を出さなかった。


「アケミさんの魂、返していただけます?」


 男の喉から苦悶の声が漏れているが、空は気にせず声をかけた。


「でないと」


 空が男を指差す。男の足を、指差す。

 男の両足を怨霊の掌が鷲掴む。そのままブチンッ!! と引き千切った。股関節から引き千切られ、残った部分から赤黒い飛沫(しぶき)が吹き出る。床に霊感持ち以外には視えない血溜まりが出来上がり、男は頭を上下左右に振り乱してその痛みを表現した。


「次は両腕を引き千切る」


 ボトンゴロンと男の目の前に足が2本転がった。

 男は硬直して、おそるおそる見上げた。


「脚本家にはシナリオを書く腕が必要でしょう? どうします? もう要りませんか?」


 そこには、全く表情も顔色も変えない女がいた。

 どうでもいいものを見る目だった。たまたま視界に入っていて、他に見るものも無いから仕方がなくピントを合わせているだけの、傲岸不遜な見下しだった。


 この女は、やると言ったらやる。要らないと言えば容赦なく実行する。それが理解(わか)る。

 次は腕を引き千切られる。確定事項だ。

 男ははじめて生者に対して恐れを抱いた。


 テレビ画面にノイズが走ると、そこからポンッと何かが出てきた。

 暁美の魂である。

 コロリと床を転がった魂は、少し大きめのビー玉のような球形をしていた。


 空が魂を回収すると、窓から入る日差しに向かって魂を(かざ)す。魂にどこか傷がないかをチェックしていた。

 特に問題がないことを確認した後、丁寧にハンカチで包んで、空は立ち上がる。


「“虚無斗(にひと)”、喰っていいよ」


 男は唖然とした。


『いっ』『いの』『ぉ?』

「うん」


 喰っていい? 魂は渡した。ならば、解放してくれるのではないのか。見逃してくれるではないか。


「そんな約束はしてないし。もう用済み」


 この女、騙しやがった。


 男は目の端をこれでもかと吊り上げて、歯が擦れて粉が出るほど歯軋りを始めた。喉の奥から獰猛な獣のような唸り声を発しながら、扉に向かって足を動かす空へ憎悪を膨れ上がらせる。


 この女もあいつらと同じだ。俺を褒めておきながら何も手伝ってくれなかった師匠。演技が下手な癖に愚痴だけは一人前な俳優。良い思いをたくさんさせてやったはずなのに、すぐに別の監督に媚びへつらいやがった女優。

 どいつもこいつも俺のことを馬鹿にしやがる。


 ふざけるなよ。

 殺してやる。


 膨れ上がった憎悪が殺意へと変わった。

 男の目からだくだくと黒い涙が溢れ出る。その黒涙はまるで蛇のように宙を泳ぎ、空の後ろ姿へと迫っていく。


 首を絞めて殺してやる。あいつらと同じように。どうせ死ぬなら、せめてお前だけでも道連れにしてやる。


 男がほくそ笑み、黒涙の蛇が首に巻きつこうとした。


 だが、その前に黒涙蛇が飲み込まれた。

 巨大な唇がはむりと黒涙蛇を食むと、そのままぢゅるぢゅると啜り始めた。

 ごく、ごきゅ。音がする。

 一体液体はどこへと飲み下されていくのか、ぢゅるりと全てを飲み終えた唇が開く。上下の歯の間を繋ぐ、何本もの黒い唾液の糸。それが玉となりぶつりと糸が切れた。


 怨霊は、歯を剥き出しにして嗤う。


『いただ』『きっ』『まあ』『す』

「はい、召し上がれ」


 空の背後で咀嚼音と破砕音が響いた。

 次の投稿は7月13日、日曜日、0:00です。

 よろしくお願いします。

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