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べからずさま  作者: 長月 ざらめ
1章 口紅編
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10話の4 空き地に悪霊

 便器に張った水に、顔を無理矢理突っ込まれた時の苦しみと、聞こえてくる喜色と嘲りが込められた嗤い声を今でも覚えている。


 ……いや、思い出した。


 当時、俺は足を怪我していて、松葉杖がないと歩けなかった。その足の怪我も、執拗にあいつらから足を蹴られたものだ。柱に縛られ、ピンと張った膝を、延々と蹴られた。


 より大きな悲鳴をあげさせたやつが優勝。


 なんて、そんなクソみたいなゲームのために、俺は足をへし折られて両親を泣かせ、病院に向かった。


 転校しよう。転校は何も悪いことじゃない。近くに無いなら引っ越しだって視野に入れるから。

 と、両親から怒鳴られるように、泣かれるように、必死の形相で何度も何度も説得された。


 俺も限界だった。意味もなく、ただそこにいるからと虐めてくる連中に疲れてしまった。面倒になってしまった。嫌になってしまった。……怖く、なってしまった。


 学校へ退学届を出した。親から「学校まで送るよ」と、「迎えに行くから連絡してね」と言われたが、断った。足を怪我しても、松葉杖さえあれば1人で移動できるし、学校内まで親がいる訳ではない。親に手を借りる程ではないと思って、断った。両親は渋々納得してくれた。


 そして、家に帰る途中で、いきなり腕を引っ張られて公衆便所へと引きずり込まれた。


 アルミ製の松葉杖がタイルとぶつかり甲高い音を出す。倒れ伏した衝撃で足に激痛が走って、トイレのタイルの上で悶絶した。汚いと思う暇さえなく、ただ足を抱えて痛みが引くのを待っていた。

 そのはずなのに、首根っこを掴まれて、次の瞬間には白い陶器の中に顔を突っ込まれた。息をしようとして、できなかった。そこには水が張ってあったから。ゴボゴボという口から気泡が溢れていく音が少なくなるたびに、息苦しさが強くなる。水から顔を上げたいのに、後頭部を強く鷲掴まれて上げられない。苦しい。助けて。誰か。

 気泡がなくなり、顔を上げようとする気力も無くなった辺りで、後頭部を掴んでいた手がぐんと頭を引っ張った。それにより、水から顔が上がって、大量の空気が口の中に入ってきた。代わりに水を吐き出しながら、背後を見上げた。


 そこには、俺を虐めていた連中が、俺を見下していた。


 薄暗いトイレの中、彼らの顔に影がかかる。そのクセ、血走った目だけがギラギラと嗜虐の興奮で輝いていた。


「よ~お、■■~! お前転校するんだって?」

「ぞ、ぞれがな、に、がぼっ!?」

「テメェ俺達に何も言わねぇで、なぁんで転校しようとしてんだあ~あ!?」

「がぼっ、ごぼおおおおおおっ!?」


 「ぶっ殺すぞ」という声が耳の奥で木霊する。

 「ぶっ殺すぞ」という声が耳の奥で木霊する。

 「ぶっ殺してやる」という(殺意)(憎悪)の奥で木霊する。

 息苦しさ(死への恐怖)の中で、ひたすらにその(殺意)だけが聞こえてくる。


 殺してやる。殺してやる。殺してやる。殺してやる。俺が何をした。ただ普通に暮らしていただけだ。それだけだ。それだけなのに、殺されるようなことだったのか。

 ふざけるな。ふざけるな。ふざけるなああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――
















 ――足をください。


 ――足を貸してください。


 ――あいつらを殺しに行くための足を貸してください。


 ――あいつらを水に沈めるために足を貸してください。


 ――足を貸してください。


 ――足が欲しいんです。


 ――足を、寄越せ。






 ――全員沈めてやるから。






*****






 向かってきた男衆を殴って骨にヒビを入れ、蹴って内臓に多大なダメージを与えた後、(うつほ)はとある1点を見つめた。


「んー……?」


 霊がこちらを覗いてい(・・・・・・・・・・)るのだ(・・・)。それも悪霊だろう。纏う空気が禍々しい。

 首から上だけを建物から出して、こちらの様子をじっと観察している。


 空はちらりと周りを見遣る。

 彼女の周りは男が倒れ伏しており、ピクリともしていなかった。


 空は改めて悪霊と目を合わせると、自身を指差した。

 悪霊はニッコリと嗤った顔をピクリとも動かさず、ただ空を見つめている。


 空は悪霊の様子を少し眺めた後、観察(・・)というよりも私への警戒(・・・・・)だなと理解して、口を開いた。


「ここにいる誰かに用があるならどうぞ。あなたが処理してくれるのならありがたいです」



 悪霊の唇の端が、耳元まで裂けた。

 悪霊の弓なりにしなった瞳から、ドロリと血の涙が溢れた。



 遠巻きに武器を構えながら強張った顔をしている僅かな数の男。

 その内の数人が、足首を掴まれた。そして、マグロの一本釣りのように宙を舞った後、急降下。地面に叩きつけられる。

 何度も何度も。地面に思い切り上半身を叩きつけ、ずぅるりと宙に持ち上げ、再度思いっきり叩きつける。これを繰り返す。男の悲鳴が、許しを乞う声が、呻き声が、聞こえなくなるまで。肉が固いものにぶつかる湿った音が続いた。

 そして、男が顔を血と泥と砂でぐちゃぐちゃになって気絶すると、今度は足をくちゃくちゃに丸めた。まるで紙くずでも丸めるかのように、足の骨を細かく細かく、ポキポキとへし折りながら。「あ"ー、あ"ー、あ"ー」。激痛で意識を取り戻した男達はどろどろになった顔を振り乱しながら、最後には下半身を丸められた。

 これだけでも結構な苦痛だろうなと空は思ったが、悪霊は手を緩めない。下半身を丸めたことで出来上がった水溜まり、そこに顔を突っ込ませた。つまり、自身の血でできた水溜まりに顔を突っ込むというわけで、勿論息ができない。息苦しいことだろう。液体というものは恐ろしい。水深僅か5センチの水溜まり。それだけで人は口と鼻が浸かり、呼吸ができなくなる。男達はゴボゴボと血の泡を大量に作り出しながら、数十秒後には大人しくなり、手先がピクピクと痙攣する。ぽこ、ぽこ。小さな泡が血溜まりに浮いてはすぐさま破裂する。そして、空が残党を処理し終えた2分後には完全に沈黙した。


「もし。そこの暗い撫子のオカタ」

「はい?」


 声をかけられた。

 空が目を向けた先には、やはり建物の側面から頭だけを出した悪霊がいた。


「突然の横槍、誠に申し訳ございませんでした」

「ああいえ、どうもご丁寧に」

「どうしても殺してやりたいクソ共がこちらにいらしたので、つい手を出してしまったのです。ええ、本当に、お取り込み中でしたのに、申し訳ございません」

「お気になさらずとも結構です。私としても助かりましたので」

「寛容なお心に感謝いたします。……それと、もう1つ、質問をしてもよろしいでしょうか?」

「どうぞ」


 空は促す。「急いでいるので手短に」と付け足して。

 悪霊は口を開く。


「“うつぼチャン”とはアナタのことでしょうか?」


 空はつい反射で指をピクリと動かしたが、悪霊の首に“虚無斗(にひと)”の手がかかるすんで(・・・)で自分の中の殺意を宥めた。

 紅朱(ルージュ)は霊的な何かに襲われたならば、すぐに自身を頼ってくることはおでかけ前のLINEで分かっている。

 喰い殺すよりも、まずは死にたくなる程度に痛めつけつつ情報を根刮(ねこそ)ぎ絞り出す方が優先度は高いだろう。


 とりあえず再起不能にしてから色々と考える癖がある空は、深く息を吸い込み吐き出して気持ちをリセットしながら悪霊に問いかける。


「どこでそれを?」

「駅前で金色の髪のオカタに言われまして……。『成仏する時はうつぼチャンに頼りなさい』と」

「なるほど」


 あっぶねぇ冤罪で悪霊を喰うところだった。


 空はちょっとだけひやひやしたし、数秒前の自分の判断を褒めた。

 おでかけ前に紅朱が追っ払った悪霊なのだろう。紅朱から何を言われたのか、されたのかは知らないが、少なくとも現時点では空にとって無害(・・・・・・・)

 ならば、放置していても問題はない。


「成仏したいなら荒雄(あらお)神社の神主……私の祖父までお尋ねください。というか、この後連れていきましょうか」

「よろしいのですか?」

「はい」

「では、お言葉に甘えて……また後程(のちほど)お会いしましょう」


 頭が建物から引っ込むと、悪霊の気配も消えた。

 それを見届けた後、空も先程のゲームセンターまで急ぐ。






*****






 声をかけることに躊躇した。

 女性だった。

 自分なんて容易く殺せるような、そんな異次元の存在に憑かれた女性だった。

 彼女が、あの金色の髪のオカタが言っていたオカタなのだろう。

 そうに違いない。何せ、彼からも漂ってきたオーラと同じ、禍々しい色と形をしている。


 不思議だった。

 どうしてあの女性は、人間なのに狂わないのか。

 見るだけで分かる恐ろしさ。関わりたくないと思える危うさ。絶対に認識されたくない死の概念そのもの。

 それに憑かれているのに、何故あの女性は平然とそれと会話していられるのか。


 ――。


 こちらに気づかれた。

 恐るべき勘の良さ。

 暗い瞳がこちらを覗いている。覗いているのはこちらだと言うのに。


 そして、気づいた。

 なるほど。あれは深淵だ。

 堕ちるところまで堕とされた人間だ。

 だから狂わないのだ。だから平然としていられるのだ。


 だって、引きずり落とされたその領域で、逃げることもできず逃げることも許されずどこへ行くこともできず、ただそこで延々と暮らし続ければ、誰だってその場の空気に慣れてしまうだろう?


 人間の鼻は悪臭を嗅ぎ続ければ慣れる。それと同じだ。

 まあでも、だからと言って。

 暗闇の空間だけが続くその領域で、正常な意識を保ち続けることができるのか、と言うのは。

 また、別問題だろう。

 次回投稿は11月13日、木曜日、0:00です。

 よろしくお願いします。

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