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べからずさま  作者: 長月 ざらめ
1章 口紅編
26/38

8話の3 走れ! 逃げろ! 駆け抜けろ!

「ビッチ」

「……はい?」

「なんて??」


 (うつほ)符蘭(ふらん)の目が点になる。

 今、怪異に貶された気がしたのだが、聞き間違いだろうか。


「ビッチ、ビッチ」


 ぺちゃ、ぺちゃ。

 立ち上がった怪異――マウンテン甲斐(かい)が空達に向かって足を踏み出す。


「“虚無斗(にひと)”」


 その瞬間、空がぽそりと呟く。


 マウンテン甲斐の周囲に黒い靄が漂う。

 そこから現れた掌にマウンテン甲斐は握り潰された。水風船が破裂したような、卵の殻が潰れたような音がした。


「ひぅっ!?」

「な、なんだ!? いきなり潰れて……!?」


 悲鳴をあげる2人の様子を尻目に、空は“虚無斗”は視えていないのか、と思った。


 霊や怪異は、基本的に人の目には視えない。彼らを視る目が無いからだ。

 正確には、霊や怪異がいる世界――幽世(かくりよ)を視たり、聴いたり、感じたりすることができないのだ。


 ラジオで例えよう。

 空達がいる普通の世界――“現世(うつしよ)”と、霊や怪異がいる世界である“幽世”の、2つの放送局があるとする。


 空などの霊感のある人間は、ラジオのチャンネルボタンを自由に動かして、“現世”と“幽世”、どちらの放送局の周波数も好きなように受信して、放送を聞くことができる。

 しかし、霊感のない一般人は“現世”の放送局から流れる周波数にしかチャンネルを合わせることができない。例えチャンネルを動かして、“幽世”の周波数を受信したとしても、流れている放送を理解することはできない。まあ、「ザー……」というノイズが流れているのは分かるだろうが。


 ただし、霊や怪異から霊感の無い人間にも聞くことができる周波数を流せばその限りではない。


 つまり、霊や怪異側から視られよう、聴かれよう、感じ取られようとすれば、霊感の無い人間でも霊や怪異の存在を認識できるようになるのだ。


 これが、マウンテン甲斐が符蘭(ふらん)藤田(ふじた)などの、霊感の無い人間に視えて。

 空に憑いている怨霊の行動が視えない理由なのである。


 ――好都合。

 空としては、怨霊(こんなもの)は知らないまま生きる方が良いと思っている。

 時折、霊から波長を合わせられて、霊感が覚醒する人間もいるが……その心配はなさそうだ。


 ならば、マウンテン甲斐(あれ)を喰い切って終わりだろう。



ジャッブ(・・・・)ジャッブ(・・・・)



 空がそのように思考を完結させた次の瞬間に、「べちゃ」「びちゅっ」と湿った足音がした。

 マウンテン甲斐はまるで何事もなかったかのように、空達に向かって歩き始めている。


「……うーん?」


 空は首を少し傾けて、もう1度“虚無斗”に怪異を攻撃する指示を出す。

 空が立てた人差し指を下へと振り落とせば、上空から現れた巨大な掌がマウンテン甲斐を確かに叩き潰した。地面に赤黒い水溜まりが出来上がる。


 しかし、怪異は現れた。

 掌よりも前、空達に近い位置に出現している。


「……フジタさん」

「あ、お、おう。なんだ」

「足に自信はあります?」

「は?」


 マウンテン甲斐が1歩近づく度に、空達は1歩ずつ後退していく。

 その途中、空は藤田に声をかけた。

 藤田は肩をビクつかせる。そして、空の問いかけに目を点にした。

 質問を理解した後、頷いてみせる。


「あ、ああ。一応長距離走の選手だ」

「それはよかった」


「ラン、ラアンッ――」


 マウンテン甲斐が小走りになる。

 空は反復横飛びのように軽くステップを刻みながら、今通ってきた道に目を向けた。


「山を降りて学校まで走ります」

「マジでか――!?」



「ラアアアアァアアァアァアンアンアンンン」



 追い抜かれると“死”が確定している、追い駆けっこが始まった。






*****






 午後5時47分。

 碧山(あおいやま)の中腹地点、その車道にて。


 車道のコンクリートは木々から落ちた枯れ葉や木の実で薄汚れていた。端の車線も消えかけ、剥げかけており、ボロボロだった。

 落下防止のガードレールは長年手入れされておらず、緑色の苔や泥飛沫のせいで古ぼけて見えた。



「うっひょおおおおおネタだあああああっ!!! 最っっっ高にイキの良いネタだああああああっ!!! こおおれは記事になるぞおおおおおっ!!!」

「スマホ持ってきてます? 撮りましょうか?」

「えっツーショットいける?」

「それは流石に無理」

「こんな時に何言ってんだイカレ野郎共おおおおおおおおおおおお!!!」



 その車道を勢い良く駆けていく3人の高校生がいた。



「ラアンッ、ラアンッ、ラアアアアアアアアアンアンッァアアッヒャハハハハハハハハハハハハハ!!! マアアアアアッテヨオオオオオオゥオウオオオウゥ――!!!」


「だぁれが待つかああああああっ!!」

「ビブラートが凄いな」

「ああもうお前もイカレ野郎(新聞部)で納得だ!!」

「解せぬ」



 その3人を追いかけていく高校生もどきの怪異も。



「というかなんだあれ!? あれがマウンテン甲斐なのか!?」

「ぽいですね」


 空が背後に目を向ける。

 マウンテン甲斐は、陸上選手のような良いフォームで走っている。

 夏の体操服姿。胸下辺りのゼッケンには『マウンテン甲斐』と無駄に達筆な字で、でかでかと書かれている。

 短ズボンから生える生足は血の気なんて欠片もなかった。紙のように真っ白で、骨と皮だけのように細くてひょろ長い。

 マウンテン甲斐の裸足がコンクリートを蹴るたびに、「びちゃっ」「べちょ!」と湿って何かが飛び散る音がした。


 そして、マウンテン甲斐の背後が灰色の世界(・・・・・)が広がっていた。

 見ようによっては、灰色の世界がこの色づいた世界を侵食しているような、マウンテン甲斐を追いかけるように灰色に染めていっているような感じさえする。

 おそらくあの灰色の世界が死後の世界。

 マウンテン甲斐に追い抜かれると、強制的に灰色(死者)の世界の住人となり、戻ってこられなくなる。


 確かに、七不思議・マウンテン甲斐の内容通りだな。

 と、空が観察していたら藤田が「振り返るのはやめておけ! スピード落ちるぞ!」と一喝したため、彼女は大人しく前を向いて足を動かした。

 その、前を向く途中で、空は遅れている人の頭を見つける。


「……フランさん? 大丈夫ですか?」


 新聞部部長、禿(かむろ) 符蘭である。

 彼女は顔を真っ赤にして、息を荒げていた。


「ひぃ……はぁ……はひぇ……ごめんちょっともうげんかいほんとむり……」

「めっちゃ早口」

「おい禿マジか!?」


 先程のような、新鮮な記事のネタに対する興奮ではない。

 普通に走るのに疲れ果ててしまったようだ。


「わた、わたし……はぁ……うんどう、きらい……2きろじきゅう……げほっ、ひゅぅう……そう……だいたいびりっけつ……ごほっ……たいむ、じゅうさん"っ……ふんっ……」

「典型的ですね」

「だから(やしろ)ちゃん!!」

「急に元気になった。なんですか?」


 最後の力を振り絞るように、符蘭は走る速度を上げて、空の背中をバシンと叩いた。



「このネタを、お前に預ける!!!」



 符蘭は目をキラキラと輝かせていた。

 運動で血流の良くなった頬は紅潮しており、額を流れる汗はまるで砕かれたダイヤモンドのようだ。



「私の大切なネタだ!!! 必ずお前のその手で書き上げてくれよ!!!」



 符蘭はニカッ! と擬音のつきそうな笑顔のまま、空を見つめた。

 直後、急激にスピードを落とし始める。

 「禿ッッ!!!」と藤田が叫んだ。それに応えるように、符蘭は手をパタパタと振った。


「げぇっほごほっ……はっ……はああっ、ひゅぅぅう……ひぃ……ほんとうんどうきらい……げほっ」


 符蘭はバタバタと足音を立てながら失速。

 そんな彼女の背後から、軽やかだが湿ったような、独特の足音が迫る。

 符蘭がマウンテン甲斐に追い抜かれるまで、あと5メートル。

 3メートル。

 2メートル。

 1メートル。

 ゼロ――



「“狐狗狸(こくり)”」



 ――になる前に、手狐が鳴いた。

 怨霊の手狐がマウンテン甲斐の左足を喰いちぎる。

 バランスを崩したマウンテン甲斐は転倒。


 それはつまり、生と死の境界線である(・・・・・・・・・・)マウンテン甲斐が減速(・・・・・・・・・・)した(・・)ということ。


 猛スピードで走っていたため、頭から車道のコンクリートに突っ込んだ。背中が()の字に曲がりながら、でんぐり返しのように1回転。首が「ゴキリ」と音を鳴らした。

 灰色の世界も、マウンテン甲斐の減速に伴い、スピードダウンしている。


「――はぇ?」


 その間に、よたよたと減速しながら走っていた符蘭の両手首に怨霊の手が絡みつく。

 「そいっ」と空が掛け声を出しながら、野球ボールでも投げるように、後ろから前に腕を思い切り振った。


「ほわあああああああああっ!?!?」

「禿が宙を舞ったーーーーー!?!?」 


 すると、符蘭は1本釣りされたマグロのように宙を舞う。

 悲鳴をあげながら符蘭は宙で1回転した後、空の両腕の上に着弾した。見事なお姫様だっこである。「うわあぶねっ」と空はバランスを崩して減速したが、すぐに元のスピードに戻って藤田の隣に着く。


 符蘭は辺りにクエスチョンマークを散らしながら、口をぽかんと開けて、目をぱちぱちとさせている。

 その様子を一瞥した空は、特に怪我はないなと考えながら口を開く。


「そういう自己犠牲は見捨てるのがとても楽なので好きなんですけど、知人……もとい、部活の先輩を見捨てるほど切羽詰まっている状況ではないんですよね」

「へぁ……?」

「あと、記事は自分で書いてください。フランさんの書く記事は好きなので、読めなくなるのは少し困ります。私が」


 そう言葉を締め括った空。

 符蘭は少しの間呆けていたが、呼吸を整えた後に空に抱きついた。


「頑張って書くね!!!」

「元気そうで何よりです」

「まずは実在したマウンテン甲斐の証拠写真撮るね!!!」

「フラン部長フルスロットルですね」


 「あまり動かれると走りにくいんで、自重してくださいね」「はーい!」と状況に似合わない和やかな会話。

 それを見ていた藤田は「(やしろ)」と後輩の名前を呼んだ。


「……お前、何者だ?」


 その問いかけに、空は藤田を一瞥した。


「先程、裏門で自己紹介した通りですよ。新聞部所属の社 空。それだけです」

「よっ! 新聞部のオカルト特攻隊長! 頼りになるぅ~!」

「恐縮です」


 藤田は納得がいかないという顔をしたが、それ以上空に追及することはなかった。

 次の投稿は9月10日、水曜日、0:00です。

 よろしくお願いします。

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