6話の5 数悔い
霊とは“魂”。
つまり、不安定な存在であり、剥き出しの本能に等しい。
この世に留まり彷徨う霊は、己の感情によってどんな形にも成り得る。
例え、生前にどんな人にも好かれる善人であろうとも、惨たらしい死に方をすればその原因に殺意を抱くだろう。
その殺意という感情エネルギーが、霊の形を作り変え、己の激情を表現するのに最適な形と力を得るのだ。
強い感情は、霊の形をより大きく歪める。
まさしくそれは、“思い”の力。
その“未練”を、どのように解消してやるのか。
一般の感性の持ち主ならば、人を傷つけさせるような真似は決してさせないだろう。殺意も憎しみも全て受け止め、害悪共の食い物にされた被害者達が罪を犯さないように食い止めることだろう。
そして、加害者に「正しく罰を受けろ」と社会の正義にその身を引き渡すのだろう。
だが、空は違う。
鬱憤を晴らしたいのならば晴らせばいい。罪を犯せばいい。蔑めばいい。殺せばいい。尊厳を壊せばいい。加害者にされたことを、そのままそっくり返せばいい。
好きにするといい、と被害者の報われない復讐心を解放してやるのだ。
だって、そいつらの今までしてきたことが、自分に還ってきているだけに過ぎないのだから。
相手の命を奪っておいて、まさか自分の命が奪われないとでも思っているのか? と彼女は心の底から不思議に思い、尋ねるだろう。
全部、あなたの自業自得だよね。
だから、助かりたいのなら、私じゃなくて殺そうとしている彼らに命乞いをした方がいいよ。
私はあなたに殺されたことも傷つけられたこともない。
つまり、あなたに対して抱くべき感情も、すべき行動もない。
怒りも憎悪も殺意もない。傷つけようとも殺そうとも思っていない。
だから、私に命乞いをするのも、許しを乞うのも筋違い。
まあでも、あなたを殺そうとしているのは、今まであなた達が殺してきた連中だから。
許してくれるかどうかは、その人達次第だけど。
だから、空は自分のことを善人だとは欠片も思っていない。
「感謝を受け取るようなことはしてないからなぁ」
人を傷つけさせるように唆す善人など、この世には存在しないだろうから。
*****
二田水 仁菜は自室で頭から布団を被って震えていた。
リビングにいた母からの「おかえり」になんと返したのか、覚えていない。
ただ怖かった。ただただ逃げることに必死だった。
あのカラオケボックスで起こった残虐無慈悲な出来事から。悪逆無道な宴から。女の倫理の無い凄惨非道な行いから。阿鼻叫喚の地獄絵図から。
運良く開いたカラオケボックスの扉から飛び出して、仁菜は必死に逃げた。
同じ目に遭いたくなかったから。自分は何もしていないのに、あんな目に遭うなんて嫌だったから。
だから、きっと扉が開いたのも、善人である私を逃がすために神様がくれた奇跡なんだと思っていた。
私はただの被害者なのに、なんにも悪くないのに、どうして怖い目に遭うんだろう。
仁菜はしばらくの間、布団の中に閉じ籠りガタガタと震えていたが、次第に気持ちを張り詰めて過ぎた反動で、すうすうと寝息をたてながら眠っていた。
ジョキ、ジョキ、ジョキ。
何か、分厚いものを切る音がする。
ブチブチブチッ。
何か、布を引きちぎるような音がする。
「いつまで寝てんだっ!?」
「ぉぶっ!?」
誰か、男の怒号と共に顔に衝撃が走る。
1拍置いて、頬がじんじんとした熱を持つ。何が起こったのか分からなくて、頭が混乱して大量のはてなマークが脳内を占めていく。
ぐらぐらと揺れる視界の中、なんとか目線を安定させる。ぼんやりとするピントを合わせる。
そして、「ひ」と引き攣った声を出した。
彼氏の高遠だ。
薄暗い部屋の中で、血走った目がギラついている。
ヤバい。仁菜は思った。
この顔は駄目だ。興奮しきって酷くされる時の顔だ。仁菜はよく知っていた。
反射で身を捻り、逃走を試みたが、できなかった。
仁菜の太股に高遠が座り込んでいた。足を動かすことすら不可能だった。
そして、両手を頭上で固定されていた。見上げれば、そこには長谷川がいた。粘っこい視線を胸元に感じる。寒気がした。
上から拳が振り落とされる。鼻に命中。軟骨がぐしゃりと潰れて鼻孔から出血した。
仁菜は久しぶりに、高遠に対して心の底から恐怖した。今まで、首を絞められたり髪を無造作に掴まれ振り回されたり、顔を叩かれたことはあった。
でも、ここまで徹底して殴られたことはなかった。
やめてと言っても、たすけてと叫んでも、ゆるしてと乞うても、拳は振り落とされた。
顔の痛いところが分からない。顔の感覚が麻痺してきた。息がしづらい。喉に鉄味の液体が流れ込んで気管を侵してくる。
殴られた拍子に頭が横を向いた。口の中に溜まった液体がビチャリと吹き零れて、地面を真っ赤に染めた。
ごぼごぼと吐き出す。呻きながら、瞼にできた血腫で開かなくなってきた目を必死にこじ開けた。
「ぁ……!」
そして、気づく。
部屋の隅に誰かいる。
部屋の隅で蹲っている。
仁菜はすぐさま助けを求めた。
「たひゅ……けて!」
どうか届いて。どうか聞こえてくれ。
その思いを込めて、必死になって呼び掛けた。
「おね……がい! たすげて! だずげでよぉ! もういたいの、ぐすっ……やだよぉっ!」
お願いだから助けて。
ねえ聞こえてるでしょ。
――誰かは部屋の隅で変わらず蹲っている。
助けて。とめて。助けて。助けて。
痛いのはやだ。殴られたくない。
――誰かは部屋の隅で変わらず蹲っている。
ねえ無視しないで。聞こえるでしょ。振り向いてよ。
ねぇ。ねぇっ。ねぇっ!
――誰かは部屋の隅で変わらず蹲っている。
「なんでもするからぁ! お礼はいくらでもするからぁ! 一生のお願いだからぁ! 助けてよぉっ!」
――誰かは部屋の隅でもぞりと動いた。
「なンでモ?」
はじめて応答があった。
仁菜は目を輝かせた。ここだ。ここしかない。今しかない。
必死に痛む顔を上下に激しく動かして、声を張り上げる。
「なんでもする! 本当になんでも! なんでも奢るしなんでも買ってあげる! エッチもするしお金もあげる!! だからっ、だからぁ!」
「だッたラ」
誰かは、いつの間にか仁菜の傍に立っていた。
見下ろす誰かを嬉々として見上げた仁菜は、次の瞬間腫れ上がった顔をブルブルと震わせた。
垣間見える赤い頭皮と白い頭蓋骨。
乱暴に頭皮ごと引き抜かれたのだろう。黒髪の先は縮れており、不自然に短くなっている箇所があった。
「あ……あ……」
可愛い私服は前面が刃物で切られて台無しになっている。下半身には何も履いておらず、「ポツ……ポタ……ッ」と何かが滴り落ちていた。
仁菜と同じように腫れ上がった顔。
何より、目が。
茶色がかった瞳の奥には、マグマのようにどろどろとした熱があった。見たもの全てを焼き尽くし炭に変えるような、恐ろしい灼熱。
その癖、表面は冷え冷えとしていた。あらゆるものを凍てつかせてしまう、絶対零度の眼差し。どんなに媚びへつらっても許しを乞うても決して解けることのない氷。
人は、その熱と氷を“憎悪”と呼ぶ。
「おナじメにアっテ」
「ひ……ひ……」
「おナじヨうニくルしンで」
「や……やだ……」
「オなジよウにフこウにナっテ」
「ね……ねぇ……ちか、ちかこぉぉ……」
千佳子は肉腫に埋もれた細目を、更に細めて嬉しそうに嗤った。
「ずウうウうウッっッっ……ト」
「わ、わたしたち」
「たスけナいデ」
「ともだちじゃん……!」
「そバニいテあゲるカら」
「やめてよ……っ」
「ウれシいネえ、ニいイいイいイいナあアあ?」
「そんなひどいことしないでよぉっ!!」
「オぅマえガさキにウらギっタんダろウがアあアあアあアあアあアあアあアあアあアあアあアあアあアあアあアあアあアあアあアあアあアあアあアあアあアあアあアあアあアあアあアあアあアあアあアあアあアあアあアあアあアあアあアあアあアあアあアあアあアあアあア!!!!!!」
今まで聞いたことがない、凄まじい怒号を受けた仁菜は、喉を裂かんばかりの悲鳴をあげた。
*****
「きゃあああああああああああああああ!!」
「仁菜!? 仁菜、一体どうしたんだ!?」
悲鳴をあげていれば、いつの間にか目の前に仁菜の両親がいた。
夕飯に呼んでも降りてこない仁菜を不思議に思ったのも束の間、突然の絶叫に慌てて仁菜の部屋に飛び込んで来たのだ。
仁菜は真っ青な顔でひゅうひゅうと息を整える。
心配そうな両親を見ていると、なんだか無性に泣きたくなって、勝手に目からボロボロと涙が溢れた。
ただの夢だった。顔は殴られていない。腫れてない。痛くない。よかった……よかったぁ。
仁菜は両親にすがりついた。
そして、わんわんと泣く。
さっきの千佳子も、ただの夢に決まってる。そうだ。そうに違いない。だって千佳子はとっくに死んでいる。
それに何より、あの優しい千佳子が。誰にでも分け隔てなく接して、柔らかく微笑んでくれる女の子が。
あんな、般若のような顔で怒るはずがない。友達である私を、激しく責め立てるはずがない。裏切り者だなんて言うはずがない。そんなの、私の知っている友達じゃない。
だから、あれは全部ただの悪夢。
私は大丈夫。
今までずっと悪いことばっかりだったから、これからきっと良いことが起こり続けるんだ。
気分が落ち着いてきたので、仁菜は顔を父親の胸元から外した。
そして、涙や鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で笑う。
――その笑顔が、固まった。
心配する両親の後ろ。部屋の隅。
そこに、女が立っていた。
顔の腫れ上がった女だった。
怒りと憎しみを瞳に灯した女だった。
「い、いや」
「仁菜?」
びたりと目が合う。
女は「やっと気づいたの?」と言わんばかりに嗤う。
仁菜が首を横に振る。目線は女に固定されたまま。
はじめはゆるゆると、まだ夢でも見てるに決まってると言いたげに。
次第に大きく、激しく振り乱す。現実を認めたくないと拒絶せんばかりに。
「いや、いやっ、いやっ! いやぁっ!!」
「仁菜!? おいどうしたんだ!?」
「落ち着いて、仁菜! どうしたの一体!?」
仁菜の歯がガチガチと鳴る。
女はニタニタと嗤う。
仁菜が髪の毛をぐしゃぐしゃに掻き乱す。
女は面白いものを見たように両手を叩く。
仁菜はようやく理解した。
女に理解させられた。
私はこれからずっと、一生、何があろうとも、どこに行こうとも、逃げようとも。
彼女が必ず傍にいる。
そして、私の幸運を全てドブに捨てて、不幸を持ってくる。
それをずっと、特等席で愉しまれ続けるんだ。
どうして?
どうしてこんなことになったんだろう?
灯子ちゃんを身代わりにした時?
美怜さんとカラオケボックスに行った時?
莉乃先輩に嘘泣きした時?
千佳子ちゃんを騙した時?
高遠と付き合った時?
人の頼みを断れなかった時?
えと、えっと、えと、えええええええええええええええと?? あれ???? 私が悪いの??? いやそんなはずは、でも私がこうだからこうなったのはそう、そうなの? なんでこうなっあ、あ、あ、あ、あ、あぇ、あええええええ???????
「ぅ、うぶ……ぇ、え??」
「仁菜っ? 仁菜ぁぁあっ!?」
「は、早く! 早く救急車っ!!」
耐えきれなくなって、思考がぐちゃぐちゃになった仁菜は口から泡を吹いて、顔を真っ青にして気絶した。
そしてまた、男達に犯され殴られる悪夢を見て飛び起きる。
これからそれが、延々と続くのだ。
許しを乞おうと、救いを求めようと、後悔しようと懺悔しようと、意味はない。
何せ彼女は、許す気がない。
女は腹を抱えて嗤った。
ざまぁねぇなと言わんばかりに。
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