6話の4 掬い
灯子を救出した空は、「つかれた」とクソデカため息を吐いた。
無事……とまではいかなかったが、少なくとも女性としての尊厳は守られている。……はずだ。
殴打痕の残る顔は、治癒能力を持つ祖父に治して貰えばいい。
そのためにも、まずは家に帰らなければ。
空が1歩踏み出した瞬間、くん、と服の裾を引かれた感覚があった。
空が振り向けば、そこには目から血涙を流す女がいた。
容姿や服装からして、10代後半から20代前半といったところか。
そして、外見の悪い女だった。
それは何も、容姿が醜いだとか、不細工だとか、そういう意味ではない。むしろ彼女の見目は良い方だろう。
外見が悪いと空が評したのは、ボロ雑巾のような格好だったからだ。
染められた髪の毛はぐしゃぐしゃで艶がなかった。
顔は青い痣と共に限界まで腫れ上がり、口の端が切れている。
フリルの可愛いトップスは前面が破けていた。おそらく、闘牛のような男 (空は名前を知らないが高遠である)が持っていたハサミで無理に切り裂かれたのだろう。下着のブラジャーのフロント面まで真っ二つだった。
そのせいで中に隠されていた、たわわに育った乳房まで見えてしまう。ここにも、痛々しい青痣があった。
そして、下半身。こちらの方が酷い。そう、酷いと、空は思い、灯子を抱える腕に無意識に力を込めた。
……何も履いていなかったのだ。
そこにあるのは性的暴行を受けたことがよく分かる傷痕だけ。赤と青と白が入り交じるマーブルカラーが、直視しないでと悲鳴をあげている。
下半身に忠実な男共が己の欲に従い暴走した結果がそこにはあった。
女性の持つ尊厳は辱しめられ、凄惨に弄ばれ、純潔を無惨に散らされた、人としてあるまじき姿をした被害者が目の前に佇んでいる。
もし、空が灯子を助けに来なかったら――それをまざまざと見せつけられた気がして、顔色も表情も変わらずとも、気分が悪かった。
そんな希望が欠片もないIFもたらればもノーサンキューである。
空はしんどくなった気持ちを息と共に吐き出して、目の前の彼女に話しかける。
「あー……あとの2人に混ざらなくてもいいんですか?」
『……』
「それとも、まだ私に何か用でも?」
彼女はただ、空を見つめていた。
危害を加えるような敵意はない。
あるのは……そう。乞いである。
許しを乞うていた。
これから己を行う非道な行いを。
己を本能と欲望のまま陵辱し嗤った男共への復讐を。
どうか見逃してくれ。
どうか、許して。
殺意で爛々と輝く瞳が、空に訴えている。
空は、その目を真正面から受け止めていた。
「好きにしていいよ」って、さっきも伝えたはずなんだけどなぁ。
と、空は遠い目をしながら。
彼女のやりたいこともしてほしいこともよく分かる。
悪いことをしている自覚があるから、それを生きている人間に許して欲しいのだ。
もっと言えば、自分を殺した連中にまですら感じる罪悪感を、消してほしいと願っている。
己の中にある殺意を肯定してほしいと、認めてほしいと、共感を求めている。
心優しい、かつ、理性のある霊によく見られる行動だった。
これは納得するまで私から離れてくれないな。
空は唇を少し開いて息を吸う。
「私、いくつか好きな言葉があるんですよ」
突然話し出す空を、女はただ見ていた。
「そのうちに、『自業自得』と『因果応報』という四字熟語があるんですけど……まあ、簡単に言えば『人にやったことはいずれ自分にも返ってくる』っていう意味です」
空にとって、男達の生死は心底どうでもいい。
死んでほしいとは思わない。だが、助けようとも思わない。
だって全ては彼らの自業自得なのだから。
人にしたことが自分に還ってきている。
ただそれだけ。
空は「はぁ」と息を吐いて、灯子を背負い直す。
「あの人達はあなた達の尊厳を犯した。だから、あなた達があの人達の尊厳を犯しても特段問題はないかと思います」
空は自身のことを善い人だとは思っていない。
でも、良い人だとは思っている。
空は自身のことを聖人だとは思っていない。
そして、悪人だとも思っていない。
(……受け売りの言葉だけどね)
『普通の人間になりたいだけなら、善人である必要はない。だが、誰かにとっての都合の良い人間になる必要はあるだろう』
『誰かにとっての正義とは、誰かにとっての悪。吐き気を催すような邪悪だとしても、救われる連中は確かに存在する』
『貴様はそういう人間なだけだ。何も問題はない。だから新聞部に来い。入部しろ』
『ただでさえ教師に睨まれているのに、後輩が入らないとなれば廃部が視野に入ってくる。非常に不味い』
『普通の生き方なんぞ僕等と居れば余裕で覚えられる。僕は後輩ができて嬉しい。貴様は普通の青春を送ることができる。一石二鳥だろうが入部しろ』
尊敬している先輩の言葉は、空の人生を確かに生きやすくしてくれた。
空は空の価値観で、自分が納得できる選択をしてもいいのだと、教えてくれた。
性犯罪を繰り返し、友人まで手に掛けようとした生者の命を救うよりも。
性犯罪の被害者であり、見知らぬ他人を救おうとした死者の気持ちを掬う方が気分が良い。
空にとってはそれだけである。
「だから」と、空は、1歩、女に向かって踏み出した。
彼女の耳元に唇を近づける。
「あいつらがあなたを全身で愉しんだように、あなたもあいつらを全身で愉しめばいい」
愉しんでおいで。
霊の耳元で囁く空の言葉は、確かに嗤っていて、悪魔の甘言そのものだった。
「ああ、あと、一応言っておきますけど、私に許しを乞うのは間違ってますよ。許しを与えるなんて、そんな権限、私にはありませんし」
霊から離れた女の顔は、ピクリとも動いていなかった。
「私は別に、友人が無事なら後はどうでもいいんで、好きにすればいい。……終わったら呼んでください。片付けに来るんで」
『――ありがとう』
霊ははじめて微笑んだ。
憑き物が落ちたように笑う彼女はきっと、生前も今と同じ顔で笑っていたのだろう。
霊は服の裾から手を放すと、空を見つめたまま部屋の扉に同化するように後退してするりと消えていく。
防音性の高いその部屋からは何も聞こえてこず、空のいる廊下には流行りの音楽が流れていた。
*****
「トーコさん、起きてください」
その言葉で、灯子は目を覚ます。
知らない天井と照明を背景に、視界一杯に映ったのは、先程まで一緒にパフェを食べていた女友達だった。
「や、やしろん……?」
「はい。社 空です。先程ぶりですね」
「やしろんっ……!!」
「うわっ」
灯子は彼女の姿を認識した途端、目からボロボロと涙をこぼして抱きついた。
空は目をパチクリさせていた。
「……。どうしたんです?」
「ゎ、わ"がん"な"い"……ゎがらっない"、ずびっ、けどぉ……なみだとま"んないの"ぉ……っ!」
「そっかぁ~」
「ゔわ"あ"あ"あ"あ"あ"ん"……っ!!」
何故かは分からない。
どうしてこんなに安心するのか。こんなに人肌が恋しいのか。
自分は何をしていたっけ。
先程まで、確か暗い部屋にいた気がする。ここよりももっと暗くて煙草臭い部屋。
そこで何か、怖い目に遭った気がした。
「トーコさん、子供が遊んでいた野球ボールが顔に当たって気絶したみたいなんですよ」
「ん"ぅ、ぇ?」
「子供達が慌てていたところに、私がたまたま出会しまして。病院に連れていこうとも思ったんですが……まあ、顔がちょっと腫れたぐらいだったので、私の家で安静にさせようかと連れて帰りました。頭がぐらぐらするとか、眩暈がするとか、何か症状はありますか?」
「ずっ……な"い"れす」
「なら今のところは大丈夫でしょう。何か不調があればすぐに病院に行ってくださいね」
「あ"い"」
空に背中をとんとんと優しく叩かれながら、灯子は何度も頷いた。
「……やしろん」
「はぁ。なんでしょうか」
「あたし、確か、……ずずっ、になにね、呼び出されたどっ、思ゔんだけど……からおけぼっぐず……行ってな"っ、い? ぐずっ……」
「うーん……? 私がトーコさんを見つけたのは近くの公園ですよ? カラオケ屋さんには行ってないですね」
「そゔ……」
「ああ、そういえば、先程トーコさんのスマホが鳴ってましたよ」
「んぇ?」
灯子は目をパチクリさせると、涙がまたポロポロと溢れていく。
彼女はもぞもぞと身動ぎして、自分のスマホを確認した。
────────────────────
〈 仁菜@絶縁予定
仁菜@絶縁予定
:灯子ちゃんごめん!
すぐしなきゃいけないことができちゃって
家に帰らないとだから、今日は相談中止
で!
仁菜@絶縁予定
:呼び出してごめんね人( ̄ω ̄;)
────────────────────
「誰からでしたか?」
「……仁菜から。急用できて家に帰ったって……ごめんって……」
「じゃあ、カラオケボックスなんて行ってないですね?」
「そう、だね……」
空の言葉に少し違和感を感じたが、それもすぐに霧散する。
「行かなきゃいけないって思い過ぎてただけじゃないですかね? 時々あるでしょう? やらなきゃいけないことをやってないのに、やったと思い込んでいる、みたいな。多分それですよ」
何せ彼女は、心地が良い。心が落ち着く。もう大丈夫なのだと安心できるのだ。
泣きすぎてぼんやりとする頭に、空の言葉はよく馴染んだ。
「……そう、かもね」
暗い部屋はただの自分の勘違いだ。
灯子は納得した。
空はなんとかなった、とこっそり息を吐いた。
彼女の洩らした吐息には、黒い靄が混じっている。
黒い靄は灯子の口や鼻、耳などの穴から這入り込んでいた。
靄は脳味噌まで辿り着くと、その中心近くにある記憶の要である海馬に絡みつく。まるで幼子をあやすように、『よしよし』『いいこいいこ』と優しく撫でていた。
そして時折、靄が海馬に「ぷちゅう」とこれまた優しく、優しく、ほんの僅かな痛痒も違和感も感じさせないように喰らいつく。おっぱいにありつく赤子のように、ちゅうちゅうと吸い上げているのは、先程灯子が体験した、悍ましく恐ろしい記憶達である。靄に吸い上げられ消化されていくたびに、灯子の脳内から記憶が消えていき、代わりの偽物の記憶が埋め込まれていった。
『ないないしよ』『う、ね』『きゃあっ』『ないない』『いいこいいこ』『きゃははは』
記憶を良いように改竄していく靄の奥で、怨霊が嗤っている。
ちなみに、空の祖父に会った灯子はあからさまに硬直した。
「……え、と、やしろん」
「はい」
「もしかしてヤのつく自営業の組長のお孫さん……?」
「神社の神主の孫です」
あらぬ誤解を受けた。
「とっくの昔に足は洗ってカタギになった。心配するな」
「わ……わぁ……」
「黙ってろジジイ余計なこと言うなよバカなの?」
余計なことを言った空は祖父から「口が悪い」と拳骨を食らった。「あなたのが移ってるんだよ」と空が反論すれば祖父は沈黙したが。
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