5話の6 普通≠日常
空が家に戻ると、台所から人の気配がした。祖父が起きてきたのだろう。
それを理解した空はまず自室に向かった。布団を押し入れに収納そうと思ったのだ。
朝の騒動で十数分は経っている。湿気を逃がせているだろう。
自室に敷いている布団をZ字になるように折り畳み、押し入れに突っ込んだ。
台所に戻ると、やはり祖父の姿があった。
黒髪と白髪が入り交じった灰色の髪の老人である。背筋はピンと伸びており、背丈が高く肩幅ががっしりとしているので、年齢よりも若々しく見える。
他者の気配を感じ取ったのか、男は台所の入口に立っている空に顔を向けた。
鷹のような鋭い目をした、顔に傷のある男だった。
左頬から額へと続く、がっつりと抉れた傷痕。それを隠すことなく晒している。
それすら己の化粧へと昇華させられる精悍な顔つきをしており、それに伴う凛とした雰囲気を醸し出している。
彼は、平地 鷹飛世。
空の祖父である。
「もうすぐできるから食器を出してくれ」
「何作ってるの?」
空は祖父の隣に来て、手元を覗き見る。
炭化した何かがフライパンに乗っていた。料理の失敗特有の焦げ臭い匂いが鼻を刺激する。
空は遠い目をした。
空の祖父はダークマター製造機だった。端的に言えば、料理ができないのである。
「玉子焼きだ」
「炭じゃん」
「玉子焼きだ」
「炭だって」
「玉子焼きだ」
「というか私、台所立つなって言ったよね?」
「玉子焼きだ」
「まだ続けるのこの無駄な応酬」
この人、私を引き取るまで食生活どうしてたんだろう、と思うのはいつものことだった。
空は息を吐くと祖父を横に押し退ける。
「冷蔵庫からほうれん草のお浸し出して。それと野菜庫からきゅうり。塩かけて軽く揉んで」
「玉子焼きは……」
「虚無斗が喰うからいいよ」
空は「そいっ」とフライパンをブンと上下に勢いよく振った。
炭化した玉子焼きは宙を舞い、黒い靄がそれを喰い尽くす。
『なん』『なんか』『じゃりじゃ』『り』『する』
「それはそう」
『ま』『まずい』『にがい』『たべも』『の』『ちがう』
「それもそう」
だって炭だもの。
空が同意するように頷けば、祖父が「……すまん」と謝った。蚊でも鳴いたようなとても小さい声だったが、空は聞き逃さなかった。
空と祖父が向かい合わせの食卓には、和食が並んでいた。
白米が盛られた茶碗と、昨日の夕食の残りの味噌汁。おかずはだし巻き玉子と塩鮭の切り身を焼いたもの。それにほうれん草のお浸し、きゅうりの浅漬けである。
「「いただきます」」
2人は手を合わせて、朝食に手をつける。
黙々と食べ進める2人。食べ終わるまで一切会話がないのはいつものことだった。
「大丈夫だったのか」
「……」
白米を食べようと口を開けたまま、空は固まった。目だけで向かいの祖父を伺うと、彼は黙々と鮭の切り身をほぐしていた。空の視線を華麗に無視している。目もくれない。
……空耳か、と空が白米を口に入れたところで、もう1度空耳が聞こえた。
「今朝、外に出ただろう。大丈夫だったのか」
空は白米を噛み締めながら、少し考えるように明後日の方向に目を向けた。
そして、白米を飲み込んだ後、頷く。
「うん」
「怪我は」
「ない」
「相手は」
「喰った」
「人か」
「いや?」
祖父はそこではじめて空に目を向けた。
空はほうれん草のお浸しに目線を落としており、目の前の視線を無視している。
さっきと真逆の状況だった。
「相手は怪異だった。友人を呪っていたから喰った。……何か問題でも?」
「……お前、友達ができたのか」
「食いつくとこそこなの?」
空が顔を上げると、今度は祖父としっかり目があった。
彼は驚いたように僅かに目を見開いている。そして、「……そうか」と呟いて、それ以上何も問わなかった。
空は様子のおかしい祖父に首を傾けた。
朝食を食べ終わり、空は部屋に戻るとスマホのメッセージアプリを開く。
トーク相手は“ルージュ”――紅朱である。
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〈 ルージュ
うつほ
:おはようございます。休日にすいません。
呪いのチョコの件は解決しましたので、報
告です。
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簡潔に纏めて紅朱へと報告した。
すると、思いの外すぐに既読がつき、メッセージも来た。
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〈 ルージュ
ルージュ
:マジ?
ルージュ
:うつぼチャン仕事速いね
ルージュ
:ウケる
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あなたも既読と返信が速いねウケる、と返すべきか、空は少し悩んだ。
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〈 ルージュ
ルージュ
:助けてくれてありがと♡
ルージュ
:今度お礼デートしようね♡
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「……」
デート、という単語にも多少驚いたが、それよりも『ありがとう』の単語の方に目が向かった。
今まで助けた人達に、こうも純粋にお礼を言われたことはあっただろうか。
すぐに思い出せないのは、感謝よりも畏怖と疑心が混じった目が大半だったからだ。
除霊なんて、霊を信じていない人からすればただの儀式的なものだ。もしくは頭がおかしくなった狂人や大金を根刮ぎ奪う詐欺師の戯れ言。
紅朱も感覚が鋭いとはいえ、視えていない人間だ。
よくもまあ、嘘を吐いているかもしれないのに純粋に信じられるよなぁ、と空は息を吐く。
そして、たぷたぷとスマホに文字を打ち込んだ。
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〈 ルージュ
うつほ
:あまり遊ぶところ知らないんで、エスコー
トお願いします。
ルージュ
:いいよー♡
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秒で返ってきたメッセージに空は吹き出した。
いつものポーカーフェイスが崩れている。
空は少し目を細めて、感慨深そうに、他愛のない普通のメッセージのやり取りを眺めていた。
次の投稿は8月10日、日曜日、0:00です。
よろしくお願いします。